「全て、お姉様のご指示を元に滞りなく進めます」
 目下、このくにには君主の決断を必要とする重要案件は少ない。あるにはあるが、それも既にティディアらが道筋を明確にし、大臣以下優秀な官吏・役人が取りまとめに動いている。今更ミリュウが“茶々”を入れるようなものはないし、入れられるものもない。
 張子はりこの最高権力者――と言ってしまえばそうではある。
 だが、だからといって責任が軽いわけではない。ミリュウにとって国民の未来を示す案件に認可を下すのは、いくら代行とはいえサインをする指が震えるものだ。
「何か『事』があった時は、まずは落ち着くこと」
 子どもをあやすような調子で、しかし声は厳しく、ティディアが言う。
「冷静に状況と情勢を見定め、物事の要所を押さえるよう努めること。皆に助けてもらいなさい、そして助けなさい」
「適材を適所に配置し、皆が最良の力を発揮できる環境を整えます」
「優先順位は常に確認すること」
「可と不可、必要と不必要それぞれのバランスも常に確認し、部分と全体に目を配ります」
「……余裕を失わないように。あなたは『王女』なのだから」
「はい」
 簡単な心構えの応酬を経て返された、ミリュウの力強い応答――そこに、ティディアは小さな強張りを感じていた。妹の背中を撫でながら、こつんと顎を頭に当てる。
「本当に、良い子」
 声になるかならぬかの小さな吐息がティディアの胸元をくすぐる。辛うじて「はい」と形を持った言葉が面映そうに姉の耳に届く。
「マードール殿下については……」
 夢と現の境界、まどろみの中にいるような口調でミリュウが問いかける。ティディアはミリュウの髪を指の腹でなぞりながら、
「何も気にかけなくていいわ。ハラキリ君がうまくやってくれるから」
「では、そのようにいたします」
 ミリュウは了承を返し、少し間を置いてから、言った。
「ポルカト様に関しては」
 姉の心臓が――トクン――と、音色を変えた。ミリュウは耳ではなく直接心で聴いたその音に目をまし、瞼を持ち上げた。
「何か、問題がある?」
 ティディアの問いに、ミリュウは平静に答えた。
「お姉様がいらっしゃらないことをいいことに、メディアや『マニア』がうるさく騒ぎ立てるかもしれません」
 その言葉、その声、その口調は普段のミリュウと何ら変わりのないものだった。姉を慕う妹の、心からの親しみに満ちた抑揚。
「んー、そうねぇ……」
 ティディアは楽しそうにつぶやいた。
 それはミリュウには、ニトロ・ポルカトを思う姉の心の昂ぶりと感じられた。トクントクンと、伝わってくる心音は熱を帯びて微かにテンポを上げている。
「こっちも気にかけなくていいわ。ありがとう、心配してくれて」
 ――恋人を――心配してくれて。
 ティディアはさらに言う。
「ニトロなら大丈夫、それくらいのことは自分で解決できるもの。例え問題があったとしても放っておいて構わない」
「本当に、それでよろしいのですか?」
「ええ。芍薬ちゃんもいるし、わりと味方も多いしね。――それに」
 どくん、と、ティディアの胸が高鳴る。
「彼は、強い人だから」
 ドクン、と、ミリュウの心が音を立てる。
 ミリュウは、例えようのない寒気を感じていた。体は姉に包まれ温かい。それなのに身を丸めたくなるほどの寒さを感じていた。
「では、そのようにいたします」
 だからこそミリュウは、ハラキリ・ジジの件と同様の応えを姉に返せた。
 その言葉、その声、その口調も、普段の彼女と何ら変わりはない。姉を慕う妹の、心からの親しみに満ちた抑揚。
「お姉ちゃんっ」
 ――と、突然、今までずっとにこにこと二人の姉のやり取りを見守っていた弟が、どこか焦燥を含む声を張り上げた。
「どうしたの?」
 滅多に大声を上げないパトネトが、それも突然口を開くや発した声に目を丸くして、ティディアが問う。ミリュウも姉の胸から離れ、姉と全く同じ表情で末の弟に振り返った。
「……おトイレいきたい」
 気まずそうに、気恥ずかしそうに眉をひそめる弟のぴったりと合わせられた脚は『もじもじ』と震えている。
 その様子が――切羽詰った本人には悪いが――とても可愛らしく、ティディアとミリュウは思わず破顔した。
 パトネトは、およそ二ヵ月後にはもう八歳になるのに、未だにトイレまでの道のりを一人では行けない。一人で用を足すことはできる。トイレの前にいてもらう必要もない。ただ、他人とすれ違う可能性のある場所を一人では行こうとしないのだ。己の住まいであるヅィフィン城でですら、気に入りのA.I.フレアが操るアンドロイドを常に傍に置いている。
「わたしが連れていきます」
 ミリュウが立ち上がって言った。ティディアはうなずいた。
「私は先に寝室に行っているわ」
「では、帰りはそちらへ」
 今夜は姉弟三人で寝ようと言ってある。ティディアはミリュウの微笑に笑みを返し、手をつないで部屋を出て行く妹弟を見送った。
 ――そして、嬉しくつぶやく。
「綺麗なポーカーフェイス、ちゃんとできるようになっているじゃない」
 先の『ご褒美』でからかわれた時は動揺しきりだったのに、ニトロに関しては見事に感情を殺していた。顔だけではない。声も、雰囲気にも、体の端々への気配りも足りていた。惜しむらくは、それがそれまでのやり取りの中で異彩異質であったために、逆にポーカーフェイス足りえるためにポーカーフェイスになっていなかったことだ。もう少し自然な揺らぎが出せれば完璧だったが、合格点には十二分に届いている。
「……」
 ティディアはしばらくソファに座ったまま、ミリュウがパトネトを連れて出て行った扉を見つめていた。
 胸にはまだ、妹の温もりが残っている。
 ふと、初めて妹を抱いた時のことを思い出す。
 あの時の泣き声は、今もよく覚えている。
(……ニトロなら、大丈夫)
 ミリュウに言った言葉を、ティディアは胸に繰り返した。
 ニトロは強い。強くて、優しい。ミリュウがどこまで彼を攻撃しようというのか、どのように攻撃しようというのか、その程度には量りかねるところがある。……だが、確信している。例えどうなったところで、ニトロなら、大丈夫。
「それにしても」
 と、ティディアは笑った。
「パティも、逞しくなってきたわねえ」
 わざとらしい演技をしてまでミリュウには辛い話を切ってくるとは……これまでの弟からは思いもよらなかった。
 そういえばパトネトは、ドロシーズサークルではニトロの下に一人で現れてもいた。見知らぬ場所で慣れぬ相手に一人で会うなど、彼としては無類・破格の勇気を振り絞っていたことだろう。
 それとも――もしかしたら、それだけ自分も必死になる意味があると、あの子は決断しているのかもしれない。
「……本当の驚異は、パティかもしれないわね」
 つぶやき、そうつぶやいたティディアは、ふいに別種の不安を覚えた。
 だが、その不安も――ニトロなら大丈夫――その信頼感にすぐに吹き消される。
 ティディアは伸びをした。
 何をどうしたところで既にさいは投げられている。
 今、ここで止めるわけにはいかない……いや、違う。無論止めることはできるが、しかし、止めることはできないのだ
 少なくとも――私では
(……)
 ティディアはそれができる相手を想いながら、淡く、そして微かに硬く、息をついた。



 王家の所有する宮殿の中でも最古に近いロディアーナ宮殿には、戦乱の世に作られた名残で廊下がない。『談唱の間』から『僥倖の間』、僥倖の間から『金紫柱の間』へ。宮殿内八箇所にある『休息の間』を目指し次々と扉を開けながら、ミリュウは、ずっと沈黙したままパトネトの手を引いていた。
 金紫柱の間から『鏡壁の間』に入る。
 すると、ミリュウの視界に人影が飛び込んできた。立ち止まり振り返ると、そこには20mに渡って巨大な一枚鏡が嵌めこまれた壁があり、鏡の中からミリュウの見た人影が彼女を見返していた。
(……酷い顔)
 ミリュウは己を見る女の顔を嘲った。嘲って、不安に駆られる。
「パティ」
「なあに?」
「わたし、お姉様の前でもこんな顔をしていた?」
「ん〜ん」
 ミリュウを見る女の隣にあどけない顔の小さな少年が現れる。彼は言った。
「ずっときれいだったよ」
「……」
 ミリュウは右手に伝わる温もりに、目頭が熱くなるのを感じた。
 だが、泣かない。涙は流さぬと、決めた。
「ありがとう」
 ミリュウは再び歩き出した。パトネトも歩を合わせるようについてくる。
 再び、沈黙。
 鏡壁の間を抜け『美画の間』に至り、百年ごとに代表の一枚、計二十一枚の名画を一瞥もせず『正本の間』に入り……もうすぐ休息の間というところで、
「ねえ、おねえちゃん」
 パトネトの呼びかけに、ミリュウはどこにも向けていなかった視線を弟へ移した。
 美少女よりも美少女らしい顔を曇らせて、パトネトはミリュウを見つめていた。
「どうしたの?」
 戸惑いをそのまま声に出すと、パトネトは一度口ごもり、それから顔の曇りを晴らした。
「へいき?」
 弟の雲の陰から現れたのは、純粋な気遣い……それだった。
 ミリュウは今度こそ泣きそうになった。視界が滲む。彼女は唇を噛み、パトネトを――先ほど姉がそうしてくれたように抱き締めた。胸に弟の温もりを浴びながら、うなずく。
「うん」
 涙は流さない。滲んだ視界もすぐに澄み渡る。
「うん」
 ミリュウはうなずき言った。
「平気よ。わたしは、大丈夫」

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