ミリュウは涙を浮かべていた。
姉の象牙のように美しい指が、鍵盤の上を柔らかく跳ね回る。柔らかな陽光に輝く、新緑が、春風にそよいでいる光景を写し取ったかのような旋律が空間を満たしている。
ロディアーナ宮殿の『談唱の間』。
物心がつき、ある程度の知恵がついて自分が姉の貴重な時間を拘束していることに気づいてからは“姉が傍にいなくてはならない”ということもなくなり――すると当然の帰結として、ミリュウの世話係と教育係のリストから姉姫の名は消えた。
しかしそれでも、それからもティディアは多忙の合間を縫っては妹のことを気にかけ、自ら教鞭をとり続けた。それがミリュウには何より嬉しく、辛い勉強の時間もそのお陰で乗り越えることができたものだ。
ミリュウが特に楽しみにしていたのは音楽の時間だった。何でも一通り弾きこなせる姉はいつも耳から心を慰めてくれて、そうしながらも自分に王女として必要な知識と素養を身に付けさせていった。課題をこなせない時は叱られもしたが、成果を見せた時はとても褒めてもらえた。ご褒美はいつも、妹のリクエストに応えてブッドミストの『春草』だった。
けして容易ではない名曲を、姉は久々に弾きながらも一音のミスもなく流麗に奏でている。
ミリュウの心は感動に溢れていた。
曲も終盤に差し掛かり、とうとうと涙が頬を伝い落ちていく。
彼女は、心の底から、姉の旋律を噛み締めていた。
「泣くほどのものかしら」
最後までミスすることなく独自の解釈を以て『春草』を弾き終えた奏者が、感極まっている観客に微笑を見せた。
可愛らしい拍手の音が鳴っている。
そこで我に返ったミリュウは、涙を拭かぬままにソファから立ち上がると大きな拍手を姉に送った。
「素晴らしいです! 素敵でした! ブラボー!!」
熱のこもった拍手と歓声に、奏者の微笑に苦笑が混じる。
「やー、そんなに感激されちゃうと、お姉ちゃん照れちゃうわー」
そう言われてまた我に返ったミリュウはティディアのからかうような眼差しに射抜かれ、顔を上気させるとストンとソファに腰を落とした。
「でも、本当にこんなもので良かったの?」
現存数の少ないクラシカルなピアノの蓋を閉め、妹弟が座る観客席に歩み寄りながらティディアは言った。
「もっといいご褒美だって上げられたのに」
ミリュウが中心となって立ち上げた新ファッションブランド『ラクティフローラ』の成功を祝して、ティディアの“欲しい物はある?”という問いにミリュウが返したものは、昔ながらに“『春草』をお聴かせ下さい”だった。
「いいえ、これ以上ない贈り物でした」
ミリュウは胸に手を当て、未だ感涙滲む瞳をティディアに向けた。
「わたしは幸せです」
「そう?」
大袈裟ねぇ――と言いたげに笑って、ティディアはミリュウに寄り添って座るパトネトの頭を一撫でし、それから妹の隣に腰を下ろした。
「私としては、ちょっと残念なんだけどな」
これまでは家族にすら見せたことのない穏やかな顔で、その表情とは裏腹にティディアはため息をついた。
ミリュウはどきりと胸を高鳴らせた。何か粗相をしたのだろうか、何か……『春草』を要望することが大きな失敗だったのだろうか。
その動揺がありありと浮かぶ妹の顔を見たティディアは小さく笑い、
「ダメよぅ、そんなに感情を顔に出しちゃ。ポーカーフェイスの練習はまだまだね」
「……すみません」
「あら、謝ることはないのに」
「すみません」
ティディアは、今度は苦笑をありありと刻んだ。本人としては色々とツッコミ待ちだったのだが、さすがにそれは酷だったかと思い直す。
ティディアがミリュウの頭にそっと手を乗せると、ミリュウはびくりと肩を揺らした。
「こら、ご褒美を上げたはずなのに、これじゃあ叱っているみたいじゃない」
「すみま――」
と、三度ミリュウが謝りの言葉を口にしようとした時、そこに彼女の頭を撫でていた手がすっと下りてきた。唇に温かな指を当てられ、ミリュウは目を丸くして息を飲む。
「やわらかい」
ぷにぷにとミリュウの唇を触って、ティディアは悪戯っぽく目を細めた。
「ミリュウが望むのなら、すっごいキスだってしてあげたのに……本当に残念」
敬愛する姉の唇から漏れた言葉に、ミリュウは心臓が破裂するかのような衝撃を与えられた。一気に耳まで赤くなるのが判る。彼女は荒れだしそうな呼吸を努めて正常なままに押さえ込み、唇を塞ぐ姉の指を両手でそっとどかした。
「何ということを仰るのですか……」
ほとんど息しか出せそうにない中で辛うじて言葉を紡ぎ、ミリュウは懸命に姉を睨んだ。
「お戯れが過ぎます」
「怒られちゃった」
と、ティディアはミリュウにではなく、パトネトに言った。ずっと黙ってじっと姉二人のやり取りを見つめていたパトネトは、ティディアの楽しそうな笑顔に可愛らしい笑顔を返した。
その人形のように愛らしい弟の笑顔を見たミリュウは、そこではたと気がついた。
ティディアは本当に『戯れ』ていたのだ。
そうとなれば顔を赤くしてまで動揺していた自分が恥ずかしくなり、しかし、姉の手の上で転がされていたことが妙に嬉しくもなってどうしていいのか解らなくなる。
「お戯れが……過ぎます」
判然としない感情の捌け口を結局見つけられず、ミリュウはとにかく姉にそう言った。
唇を尖らせる妹の複雑な笑顔にティディアは笑むと、再びミリュウの頭を撫でた。
「ごめんね」
無闇に謝っていた妹に謝りを返す。ティディアのその言葉を受けて、ミリュウは話が丸く収まったことを悟った。いつの間にか『落とし所』に誘導されていたことに、思わず感嘆にも似た笑みがこぼれてしまう。
このまま姉の掌の上で転がされる心地良さにくるまれていたいとミリュウは思った。
しかしそう思えば思うほど、ミリュウは心が冷えていくのを感じていた。腹の底に折り重なる気持ち悪さがざわめく。やはり『春草』が最愛の姉との最後の思い出になるかもしれないという予感がよぎり、心臓が硬く引き締まる。
「……」
ふいに沈黙したミリュウを、ティディアは撫で続けていた。腰まで流れる妹の黒紫の髪は、以前に比べて艶が落ちている。
「……」
ティディアは、掌に収まりの良い、この十七年――そろそろ十八年に渡って触れてきた可愛い妹の頭を優しく撫で、優しく撫で――
「……」
ティディアは
「あの」
ついに耐え切れなくなったらしい、ミリュウは落としていた視線をティディアに戻した。いつまで経っても頭を撫で続ける姉を見つめ、
「そろそろ……」
「あら、嫌?」
「嫌ではありません!」
ティディアに撫でられながら、ミリュウは
「お姉様に頭を撫でていただくと……安心します、嬉しいです、お姉様がお望みになるのでしたら、わたしの頭と言わず身も心も何もかもをご自由になさってください」
「大袈裟ねぇ」
先ほどは表情で示した言葉を、ティディアは今度は声に出して言った。
「何だか、どんどん私に対して畏まっていっていない?」
「そんなことはありません。わたしは、以前からお姉様を心から敬愛しています。いつまでもわたしは変わりません」
(いつまでもわたしは、か)
ティディアは真っ直ぐこちらを見つめ、力強い瞳で力強く言う妹を見つめ返した。
妹は気づいているのだろうか。その言葉、言外には――
(まるで、私が変わったって言っているようね)
それはただの言葉のアヤであるのかもしれない。だが、ティディアはミリュウの意識の底にその思いがあることを知っていた。気づいていた。力強く訴えてくる最愛の妹の瞳に映る己の顔を見て、ティディアは、思わず微笑んだ。
「ありがとう」
言うや、ティディアは腰をずらして半身をミリュウに向けた。そして、ミリュウを両腕で抱え込む。
「きゃ」
姉に体ごと引き込まれ、その柔らかな胸の中に顔を埋めさせられたミリュウの口から小さな声が弾み出る。
ティディアは突然の出来事に硬直しているミリュウの体をほぐすように、頭を抱きとめている手とは逆の手で妹の背を撫でた。小動物の警戒が解けたかのように、ふっと少女の体が柔らかさを取り戻す。
「あなたは良い子ね」
ミリュウは姉の胸に抱かれ、姉の声を聞いた。体が火照る。
「お姉ちゃん、ミリュウを妹に持てて嬉しい」
いつになく優しい声だった。良い匂いがする。呼吸に合わせて上下する胸のリズムが安堵を誘い、直接伝わってくる心音に魂が溶かされそうだ。
「あ、パティも。あなたが弟でお姉ちゃんは嬉しいわ」
うん――と、嬉しそうな弟の声が背後から聞こえる。声変わりはまだまだ先の、女の子のようなパティの声と姉の心の音に挟まれて、ミリュウの体をこの上ない幸福感が満たしていく。腹の底の気持ち悪さも今は消え、全てが穏やかで……自然と目を閉じる。とくんとくんと刻まれる姉の鼓動に、自分の鼓動を併せてみたいと――そんなことを思う。
「明日から、留守をよろしく頼むわね」
少しだけ『王女』の威厳が含まれた声に、ミリュウは薄く目を開いた。瞼の裏にこの幸福感に浸る心を置き、姉の部屋着の細やかな紋様を映す視界に現実に向かう心を置き、
「はい」
と、ミリュウは『王女』の威厳を込めて応えた。
明日から七日の間、アデムメデスには王も王妃も、国民の代表たる首相も、さらには実質的に最高権力を握る第一王位継承者までもが不在となる。
王・王妃は現在、リクラマ星で開かれている
七日後のティディア帰星までの間、アデムメデスを任される者は、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――『王権』を担う姉姫から代行を任ぜられた彼女だ。
――とはいえ、