「……矛盾しているわね」
 ややあって、ティディアはようやっとそう言った。
 しかし彼女とは対照的に、ハラキリは打てば響くというように応える。
「ええ。ですが、明確な『失恋』と、そうでない『失恋』の差は大きいと思います」
 ハラキリは……ティディアの動揺に気づいていた。
 だが、そこにはあえて嘴を入れず、間を取るために残っていたミートパイを取り上げ平らげる。プランクトン由来のたんぱく質から造られた調整肉アジャストミートの気の抜けた美味さを酒で流して、彼は肩をすくめた。
「シゼモでの一件は、心の底から大いに呆れさせていただきました。そして同時に心の底から驚愕しました。あの『事件』の直前、貴女と電話をしていた時にはまさかあんな展開を見せるとは思ってもいませんでしたし、それこそありえないと思っていましたから。唯一あのような結果を招く筋書きが考えられるのは、千載一遇の好機と勘違いした貴女が我を忘れて――どんな阿呆なことをやっていても実は理性的な、ニトロ君の言葉を借りればどんな状況でも『いちいち確信犯』である貴女がよもや素で我を忘れて! と、いうことですが……どうでしょう。正直、そんな拙者の誇大妄想に満ちた心配を先取りしたような過失が起こっていたなどとは、考えたくはないのですが」
「…………」
「……まあ、いいです。しかし、あれはよくない。いくらニトロ君が寛大だとて明らかに限度を超えている。分かっているでしょうが、あんなことをしていたら、貴女はいつか必ずニトロ君に見捨てられます」
 持って回った――あるいはティディアにその心構えをさせようとしていたのか――ハラキリのその一言は、ティディアの魂に冷水を流し込んだ。
「厳しい王女として、多くの人間を見捨ててきた貴女のことだ。その意味はよく解っているでしょう?」
 ティディアは、緩慢にうなずいた。緩慢にうなずくことしかできなかった。
 ニトロに見捨てられる。
 それを、ニトロの無二の親友であるハラキリに保証された恐怖!
「本心をぶつけ合っての失恋なら、いつか思い出として語ることもできましょう」
 ハラキリはティディアの顔が青褪めたのを見て、視線を手元に落とした。彼女は自分がどんな顔をしているか、きっと知らない。あまりまじまじと見てやらない方がいいと、そう思った。
「そうすれば貴女に深く食い込んだニトロ・ポルカトという存在は、例えそれを失っても、時を経ればティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの生きた歴史として貴女の心を強くもしましょう。
 しかし、もし貴女が本当の真心をぶつけて敗れたのではなく、ただ見捨てられる形でニトロ・ポルカトを失ったとしたら……そこに残るのは絶望的な空虚、そして喪失感だけです。
 精緻な心の部品を狂わせるには十分過ぎる、破滅的な喪失感。
 本来彼に問うはずだった愛情は行き場を喪い、当然貴女の心の中に居場所もなく、存在意義を無くしながらも何処にもいけずにその空虚の中で放心し続ける」
 ハラキリは、トン、と人差し指でテーブルを突いた。
「……決着のつけられない想念ほど人の心を蝕むモノはない、拙者はそう思います」
 彼の指先は、決着のつけられない想念のために心を病んだ男が献身的な妻と晩年を過ごしたこの城を差し示している。
 ――ティディアは何も言えずにいた。
 彼女は、ただただハラキリを見つめていた。
「お姫さんにお聞きします。誰にも代えられぬ男性が貴女の相手をしてくれている頃を知るクレイジー・プリンセスが、何者にも代えられぬニトロ君に見捨てられた後、果たして『こんなはずじゃない』と静かなパニックに陥らない保証はありますでしょうか。パニックとまでいかなくとも、喪った『恋人』を想い、焦がれ、彼がどうしても貴女と関わらざるをえない状況を……彼にまた相手にされたいと、例えばあの『映画』のように、暴君となった貴女を打倒するため、貴女に対抗できる唯一の人間が必ず担ぎ出される状況を整える可能性は決してないと、貴女こそそう言い切ることができるでしょうか」
 沈黙が、訪れた。
 一分、二分、五分、、、十分、、、、、、長い、長い沈黙だった。
 テーブルを挟んで対峙する二人はその間わずかなりとも身動きせず、どちらかが口を開くのを待っていた。
 重苦しい静寂。それともそれを破れば何かとんでもないことが起こりそうな緊張。
 ――やがて、
 先に口を開いたのは、ティディアだった。
「結論としては、だから二度とシゼモのような失敗をするな、ってことね?」
「端的に言えばそうなりますね」
「それなら、それだけ言ってくれれば良かったじゃない」
「端的に上っ面をなぞっただけの一言で釘を打てるほどお姫さんは簡単な相手ではありませんよ。それにこの釘には貴女の『自覚』が必要だ。彼に向ける感情をはっきり自覚しているのと自覚していないのとでは大きく意味が違う。例えどれほどニトロ君のことで心を奪われる時があったとしても、無自覚に心奪われては困惑し戸惑い正常な判断をできなくなりましょうが、自覚した上で奪われるのであれば余裕もありましょう。余裕さえあればこそ、それをとっかかりにお姫さんの正常を保つこの釘はきっちり働いてくれる」
「釘か……」
 ティディアは最後の最後までそれを丹念に打ち込んできたハラキリから、一度目を逸らした。
「とても太い釘ね。それに、とても深くて抜けそうにない」
 ため息をつき脱力したように肩を落として、彼女は続けた。
「これまで面白くない予測を示した報告を色々受けてきたけれど……ハラキリ君の忠告は、その中でも最も面白くない『報告』だわ」
 そう言って、ティディアは微笑みを浮かべた。
 蠱惑の笑み、人心を掴む美しい王女の微笑――いや、そこにあるのは、一人の女性の微笑みだった。
 ハラキリは真剣な眼差しで彼女の言葉を受け止めた後、同じように微笑した。飄々とした風情の中に、感嘆――それとも同情だろうか、奇妙な感情が宿っている。
 その顔を見たティディアは、ぽつりとつぶやくように言った。
「もしかしたら私、こんなにも『私』に近づいてくれたハラキリ君を好きになっていればよかったのかもしれないわね」
 ティディアが頼りなくこぼしたセリフの陰に隠された意味を受け取ったハラキリは、しかしいつものように飄々と応えた。
「いやいや、お姫さんのことを最も理解しているのは何だかんだ言ってもやはりニトロ君ですよ。それに、拙者じゃ駄目です。ニトロ君のように貴女のご期待には添えませんでしょうし、何より荷が勝ち過ぎる」
 グラスを手に持ちカラカラと振って言う友達を見て、ふと、ティディアは渋面を作った。
「あれ? もしかして……今、私はハラキリ君にフられちゃった?」
「……」
 ハラキリは酒を飲みつつ思案し、
「おお」
 と、手を打つ代わりにうなった。
「そうですね。拙者は貴女をフったようです」
 ティディアは渋面を崩し、情けないとばかりに眉を垂れた。
「……ニトロにもフられてばっかりだし……私、そんなに魅力がないのかしら」
「とても魅力的な女性だと思いますよ。ただ単に拙者にとっては対象外なだけです」
「それも何だか失敬極まりない気がするんだけどな」
「そうですか?」
「そうよぅ」
 実に大したことではないとばかりに軽く流され、口を尖らせてティディアはすねてみせた。
 考えてみれば、今夜は初めからハラキリにペースを握られている。突然の訪問、直属兵の制服に、その下から現れた『漫才コンビ』のTシャツ、スライレンドを思い起こさせる――その理由は、先ほど嫌と言うほど味わわされた――ウイスキートディ。
 小さな戸惑い。わずかな心の揺れを増幅されて、彼しか知り得なかった私の正体を突きつけられ、有効な言葉を返せないでい続けている。
(……そういえば)
 ふいに、ティディアは思い出した。
「そうだ、まだ三つ目の『理由』を聞いていないわ」
 ちょっと湿気たポップコーンをつまんでいたハラキリが、お? と目を上げた。
「……三つ目ですか」
「そう」
 ティディアはいい加減話せと言わんばかりに力強くうなずく。
 するとハラキリは、少し照れ臭そうに顔を歪めた。
「……お姫さん」
「……何?」
 珍しいハラキリの様子に、ティディアは思わず慎重に返事をした。
「『魔女』は、拙者に一つ、嬉しいことを言ってくれました」
 ティディアはうなずく。自分が意識と呼べるものを失っていた時、ある意味で、本音だけで動いていた時、彼に何を言ったのか。
「貴女は、拙者のことを『友達』と、そう呼んでくれたんですよ」
「……え? それだけ?」
「ええ」
 ティディアは拍子抜けした。だが、ハラキリは本当に嬉しそうに笑っている。だから、興味を覚えた。
「そんなに嬉しいことかしら」
 好奇心をくすぐられた猫のような眼で、ティディアは問う。
 その彼女の無邪気な反応を見るハラキリは、ニトロに『トレーニング』の指導をするようになって少し経った頃……『トレイの狂戦士』が現れる直前くらいだったか、ジムから帰る道すがら、話の流れの中でニトロが何気なく言っていたことを思い出していた。
 ――『あいつはヴィタさん相手にも心を開いていない。友達っていうより、同志……間違いなく同志なんだけど、あくまで同志なのかな。それとも仕事仲間なのか……どこか距離を置いている。ヴィタさんにすらそうなんだから、ひょっとしたらあいつには友達って思える人間がいないんじゃないのかな』
 正確には、魔女が言ったセリフは――『ハラキリンはたった一人のお友達』。
 だが、ここでそれをそのまま言っては王女の同志たる執事に、同志なのに友人関係にはならないヴィタに対して何だか自慢しているような感じがする。
 それに、どうせティディアは魔女がその時どのような文脈で発言したのかを後々知ることになるのだ。その時、彼女は、今こちらがどのような真意を持っていたか、その全貌を察してくれるだろう。
 そう考え、ハラキリは語る言葉を端折りながら、しかしだからこそ余計に強く感情を込めて言った。

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