「怖くて試せませんけどね? もし貴女が色仕掛けの一環で首尾良くニトロ君を手篭めにできたとして……ついにニトロ君も諦めて、貴女のなすがままになっていたとして。その時貴女は、最後までニトロ君を犯しきれるでしょうか」
 ティディアは、答えない。
 ハラキリは続けた。深刻な話をしているはずなのに、決して眉間に皺を寄せず肩肘も張らず、世間話をするように。
「拙者の予想はこうです。
 貴女は、最後に怯える。
 そして逃げ出す」
 グラスの中、球状の氷はゆっくりと溶け、火に触れれば燃え上がる蒸留酒スピリッツを冷やしながらゆっくりと薄めていく。
「『魔女』は、繰り返しニトロ君にこう言っていました。
 『愛して』。
 それは強要にも聞こえますが、一方で懇願にも聞こえる。そうそう、『エッチして』とも『愛されたい』とも言っていましたね」
 ハラキリは、微笑みながら遠慮会釈もなく言いのけ続ける己を睨むように――いや、睨んでいるティディアから一度目を逸らし、一呼吸をおいた後、また彼女を見据えた。
「『手篭めにする』というのは意中の人を落とす手段としては決して適切なものではありません。強引過ぎるし、実際、犯罪です。それは貴女も重々承知のはず。それでも貴女がそれを選ぶのは、ただその過程でニトロ君が色に負け、あくまでニトロ君から貴女に入れるよう誘導するためでしょう? ニトロ君が『魔女あなた』に見せられた『幻覚』は、まさにその通りだった」
 何も言わぬティディアの頬の奥が、強張っていた。歯を噛み締めているらしい。
「お姫さんはあの時、貴女も知らない心を拙者に見せてくれていました。
 貴女は、完全にキレて暴走する前、必死に自分を抑えていたんですよ? ニトロ君を力ずくでは手に入れられないことをちゃんと知っていて、それをすれば自分の夢が壊れることもちゃんと理解していたから――だからこそ、そうしてしまうことに怯えて、あなたの最も深いところにある、ニトロ君と結ばれたいという……」
 ハラキリは一度口をつぐんだ。懸命に言葉を選び、そして言う。
「懐に忍ばせた剥き出しの剣のような真心を押し止めようと、自分を懸命に抑えていた。抜きどころを間違えればニトロ君を間違いなく傷つけ、あるいは殺してしまう剣――そのくせ懐に隠し続けていれば貴女の胸をも少しずつ傷つけかねない本心。その剣のような願望と、しかし片方ではもう一つの貴女の本心であるニトロ君を傷つけまいという理性との間で壮絶な葛藤を繰り広げ、戦い、彼を貴女自身から必死に守っていた。
 心の底から感服しました。貴女の理性がついに力尽き、完全暴走した時にそのことを確認して。あの『天使』の衝動を一時的・部分的にでも押さえ込むなど、ニトロ君だけでなく、これまであれを使った誰にも出来なかったことです。一体、ニトロ君に愛されたい貴女はどれほどの想いで『ニトロに愛されたい』という衝動を押さえ込んでいたのか――と」
 ハラキリは、しばしティディアと睨み合うように見つめ合った後、これまで語っていたことをリセットするかのように声を明るめ、
「まあ実際、最後の方は洒落になってませんでしたけどね。言ってることは同じでもその行動はまさしく暴君そのもの、自分の思い通りにやって、思い通りにならないのがおかしいという我儘なお子様……最初から完全暴走されていたらと思うと今でもゾッとしますよ。いや、それにしても本当にニトロ君がさらに強くて助かった」
 ティディアは、何も応えない。
 ハラキリは目をヒズロゥの瓶に向け、瓶の首を掴むとグラスに傾けた。無色透明の酒が流れ落ち、氷を伝いグラスの底に溜まる。彼は乾いていた唇を酒で湿らせ、目を落としたままため息混じりに言った。
「……貴女は、どんなことでも見事にこなせるというのに…………ことニトロ君のことになるとてんで駄目ですね。これまでの件を思い返せば全て裏目裏目、愛を囁いてみても誘惑を繰り返してみても無意味に終わり、ある意味では貴女自身が育てた強敵を攻略できなくなって楽しみながらもひどく身悶えている。『赤と青の魔女』の件はイレギュラーとしても、シゼモの一件はあまりに無様。比類なき才女、歴史上最も美しい姫君、他の誰にどう賛美されようが……驚くほど不器用で、愚かだ」
「男って、ちょっと駄目なくらいの女が好きってよく言うわね」
 ようやく、ティディアが口を開いた。
 ハラキリは目を上げた。
「よく、そう聞きますね」
「もしそれが本当だったとして、私がそれでニトロに好かれないのはどうしてかしら」
 その様子にはハラキリが久々に見る――『赤と青の魔女』の暴挙について彼女が泣きそうになりながらニトロに謝った時に初めて見せたものと同種の――ティディアの弱さがあった。
 ハラキリは微笑し、
「さあ? ですが、少なくとも今、拙者は貴女に好感を抱きましたよ」
「あら、それは告白? 駄目よ。私はニトロだけ」
「いやいや、好感度が上がったところで何も貴女に恋心を持ったわけじゃありませんて」
 急に気を取り直したようにティディアに軽口を叩かれて、ハラキリは微笑を苦笑に変えた。しかしすぐに口元を引き結び、
「お姫さん。拙者がこんな話をしようと決めた理由の根源は、そこにあるんです」
「どこ? ……ってとぼけたいところだけど。
 不器用で、愚か――ってところね?」
「ええ」
 ハラキリはうなずいた。
 ティディアはハラキリの顔に初めて現れた表情から彼の感情を読み取り、
「それが……何か心配なの?」
「心配ですよ。貴女が今後、暴君となる可能性が唯一つ、そこに残されているんですから」
「……聞くわ」
「拙者は、貴女が今後、面白さを求めて暴君になる可能性はないと思います。しかし、貴女が貴女ご自身を制御できなくなった場合は、その限りではないとも思っています。貴女の中で『何か』が狂い、それがやがて貴女の思考や勘を狂わせていき、様々なことを思う通りにうまく進められなくなり、そうしてなまじ貴女が才気溢れるがために、貴女がなまじ才気溢れる頃の自身を知っているがために『こんなはずじゃない』とパニックに陥ってしまうようなことがあれば。貴女は我を忘れて暴君となり、破滅という安息に逃げ込もうとするかもしれない」
「それは、」
 ティディアは堪らず苦く笑った。
「さっきのものと比べて随分面白くない妄想ね。しかも誇大妄想じみてない?」
「そうですか? 拙者は先よりずっと現実的だと思っていますけど」
「何故」
「これまでの……ニトロ君と出会うまでの貴女は強かった。一人で完結した、確かに最高の芸術品だったかもしれません。しかし今は違う。ニトロ君は、貴女を弱くした。貴女はもう『一人』ではない。ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの心には、ニトロ・ポルカトという人間が今や致命的なまでに食い込んでいる」
 ティディアはフライドポテトを取り、それを口に放り込むと咀嚼しながら、
「つまり、ハラキリ君は、不器用で愚かな私がニトロを失って『何か』を狂わせることを恐れている――と」
 ハラキリはうなずいた。
「それは幾らなんでも私のことを見くびっていないかしら。たかだか一人の男との失恋でそこまで気を衰えさせるほど、私は弱くないわよ」
「そうですね。たかだか――で形容できる男性とであれば、そうでしょうね。しかし、言い切れますか? お姫さん。貴女にとってニトロ君は、たかだか一人の男だと。先ほど貴女は否定しなかった。『ニトロ君でなければもうどうしても嫌なのでしょう』と問いかけた時、否定をしようともしなかった」
「しなかった。でも、それだけのことじゃない? スライレンドで魔女わたしがハラキリ君がどう解釈する言葉を言っていたとしても、それだって、それだけのことじゃないかしら」
「いいえ、ニトロ君は貴女にとって、あまりにも特別過ぎる。彼以上に貴女と相性がいい男はいないでしょう。彼よりも貴女に見合う男もいないでしょう。いや、そんなことも、クレイジー・プリンセスに対抗できるとかティディア姫を輝かせるとか、そういう重要なことすらももはや瑣末なことだ。
 ニトロ君は、あらゆる意味で貴女にとっての比類なき『本物』になっている。
 貴女を本当の意味で抱き締められる、傍若無人で賢く慈悲を知り善くも悪くもある希代の王女をまるで演じてでもいるかのように本心を誰にも悟らせない貴女から、『本物』の心を向けられる唯一の存在に。それを、それだけ、と切り捨てることは決してできません」
「それは思い込みじゃない? ハラキリ君は、君のお気に入りのニトロ・ポルカトを過大評価して、そう思い込んでいるんじゃない? それとも、君が今言ったそのことにまで、決して思い込みではないと言い切れる確証や証拠があるのかしら」
「……思い込みですか」
 語気強く、微かな嘲りも混ぜ込んで言い返してきたティディアの言葉。それを噛み締めるようにつぶやいたハラキリは、噛み締めたものを吐き出すように大きくため息をついた。
「そうですね、そうかもしれません。
 ですが……これは友達の意見として言いますが」
 ハラキリは最後のフライドポテトを取ったティディアがそれを食べ終わるのを待ち、言った。
「貴女はきっと、貴女が思う以上にニトロ君を愛している」
「――」
 ティディアは瞠目した。息が詰まり、苦しく、一時の間、胸も横隔膜も麻痺して動かず、彼女は呼吸を取り戻すことができなかった。
 驚きのあまり唇が震える。
 ハラキリのその言葉は、自分がニトロに、シゼモの温泉で告げたものと酷似していた。
 ――『きっとあなたが思っている以上にあなたのことを好きなのよ』
 偶然の一致だろうか。
 ニトロに告げたその大切な言葉。
 それとも、もしやニトロがあの大切な言葉をハラキリにしゃべったのだろうか。
 ……ありえない話ではない。自分としては、できればあれは秘め事として他人には語って欲しくなかったし、ニトロもああいうことをぺらぺらしゃべるような人間ではないと思っている。が、あの秘め事の後、私は彼を怒らせた。ひどく、怒らせてしまった。その怒りに任せて、彼が親友に愚痴を吐き出した際、あの言葉も一緒に教えてしまったとしても不思議はないし、それは仕方のないことだろう。
 いや……そんなこと、この際どうでもいい。
 それよりも重大なことがあった。
 何より他のどんなことよりもティディアに衝撃を与えていたのは、ハラキリの言葉をきっかけにして、ニトロにあの告白をしたその時、己の胸に溢れていた、己しか知らない、自分でも驚くほどニトロにキスをしたいと思った気持ちが蘇り――それが、彼女に己自身への否定を許さないでいたことだった。
 そう。
 友達のその言葉を、私が否定してはならない
「とはいえ、まあ、たかだか一人の男との失恋……と貴女は言いましたが、それが『失恋』なら構わないんですけどね」
 一体、何のためだろうか! 急にハラキリに彼自らの発言を翻すようなことを言われ、ティディアはすぐには対応できずにまごついた。

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