ヴェルアレイン市長が全身全霊を込めて企画・主催した『湖上舞踏会』――小振りで円に近いハート形をしたヴェルアレイン湖、その水上に特設された
アデムメデスの王女は南極圏の夜空を天井とした100m四方の広場で、地元の貴族や政治家だけでなく、一介の学生からその教師、あるいは酒場の主人にその女将、果てはまだおしゃぶりを離さぬ子までと老若男女を問わずに手を取りステップを踏んだ。それだけではない。すこぶる機嫌の良い彼女は時に自ら楽器を取り、時に美しい歌声を披露して、パーティーを大いに盛り上げた。
現在、ニュースやネットには、楽しそうに笑う姫君と盛り上がるパーティー会場……さらには会場の外、お祭り騒ぎに沸くヴェルアレインの城下町の映像が溢れている。全国規模の主要な情報ネットワークはこの話題で占有された状況だ。観光事業に頼るヴェルアレインにとって、これ以上の宣伝はないだろう。
ティディアが舞踏会から引き上げる際、感情の昂ぶりに顔を赤くして王女に何度も頭を下げていた市長も、これで観光者数が十数年間減少し続けていた問題から解放され、来年の任期切れまでには苦悩と苦闘に刻み込まれた眉間の皺を伸ばせるはずだ。
「うん。上々上々」
円に近いハート形――いびつな円の天辺を指で押し込まれたように湖にせり出す岬にそびえるヴェルアレイン城の居室で、
それから彼女は大きく息を吸い、腕を組んだまま椅子の背もたれに体を押し付けて伸びをした。吸っただけの空気を一気に吐き出し、脱力し、同時に組んでいた腕を解くとそのまま体の横にだらりと垂らして天井を見上げる。
小さく品の良い形のシャンデリアがキラキラと輝き、光を部屋に振りまいている。
目を細めてクリスタル製の電灯が放つ柔らかな光を眺めていたティディアは、姿勢そのままにもう一度大きく深呼吸をした。
目を落とし、自分の他に誰もない部屋を見る。
どこともなく視点を定めず、ただぼんやりと。
ティディアは既に舞踏会で流した汗をシャワーで洗い落とし、簡素ながら上質の部屋着に着替えていた。
ニトロとの日課である漫才の練習も既に終えてしまっている。
今日の予定は、もう一つも残っていない。
やりたいこと・やるべきことを探せば幾らでも見つかるが、差し当たって緊急・速やかにやらねばならないと目の前にぶら下がっている事案もない。
「……うん。上々、上々」
城の中庭に面した部屋で、多忙を極める日々の中にも極稀にぽっかりと訪れる安穏とした時間を満喫しながら、ティディアはこのまま一日を終えようと決めた。
そして、思う。
(今頃、ニトロは楽しく夕飯を食べてるんだろうな)
愛しい人は、今日は実家にいる。
今夜は父の作ったハンバーグやローストビーフやバーベキューチキンや蒸し魚のスープやピザやパスタやドリアやパイやデコレーションケーキやらを食べるらしい。
もちろん、ヴィタならともかく、それだけのメニューをこなせる腹をニトロはもっていない。
どうやら久しぶりの息子の宿泊に発奮したらしい父親が、息子の知らぬ間に――つまりニトロがキッチンに寄らず「うん、もう食べさせるのより作るのが楽しくなっちゃってるよね」とブレーキを掛け損なったがために突っ走ってしてしまったらしい。
夫婦揃って『天然・マイペース・突発暴走型・深慮不足属』とでもカテゴライズできようか、朝から仕込みに励む夫を妻はのん気に応援するのみだったそうだ。ニトロとの漫才の練習の前に
八つ当たり気味にニトロに両親の暴挙を止めなかったことを責められていたメルトンは彼を嘲笑うようにからかっていて……まあ、止めなかったのは、おそらくわざとだったのだろう。それをニトロも判っているから、彼は面白くなさそうな顔で芍薬にお仕置きを委託していた。
(いい悲鳴だったわねー)
メルトンの、まさか――容赦のあるニトロではなく――芍薬にお仕置きされるとは思っていなかったらしく、あの悲痛な叫びはここ最近聞いたものの中で一番だった。
哀しくて、切なくて、それでいて笑える。
(もしかしたら、メルトンちゃんはニトロに構って欲しくてああしたのかしらね)
練習中もニトロの後ろで、息子と未来の義娘と話したくてたまらないといった顔でうろうろしていたリセお母様。
息子に美味しいものをとキッチンで腕を振るい、練習の終わり際にエプロンをかけたまま画面に飛び込んでくるや今度は息子と一緒に来るよう誘ってくれたニルグお父様。
本当は大好きな『兄』にいらない悪戯や反抗をして泣きを見るメルトンちゃん。二度目の悲鳴はほとんど断末魔だった。
そこに、芍薬ちゃんもいて、ニトロがいる。
できれば参加したかった。彼の実家でも開かれているパーティー、温かな晩餐に。
(――だけど)
それは、できない。
明日もこちらで朝から仕事がある。
食べ切れない料理は冷凍すると言っていたから、朝一に使いをやろう。せめてそれだけでも……余り物を食べる形ででもパーティーに参加した気になりたいから、手に入れておきたい。
「……あら」
ふと中庭に面した窓を見れば、おりしもはらはらと小さな氷の花が舞い出していた。
極地の人口密集地には大抵ドームが張られ、一年を通して気温が調節されている。
だが、ヴェルアレインのような観光都市にはその地方特有の情緒といったものが、決して無視できない重要な要素として関わるものだ。
この城と、湖と、城下町の上空にはドームはなく、その代用に
とはいえ今夜の祭りに演出された寒さは必要なく、むしろ客に凍えられる方がマイナスだと気温はプラスの設定だ。その上、大通りのみならず路地まで人や出店で溢れている。夜通し続く大騒ぎの熱は、この程度の雪などものともせずに溶かしてしまうだろう。
はらはらと音もなく舞い落ちる雪は、それだけに儚さをますます感じさせるものとしてティディアの目に映った。
「絶好ね」
ティディアは市長に頼まれていたことを思い出してクローゼットに向かった。もし気分が向いたら……という頼みだったが、こんなにも良い演出があるのなら市長の望みを叶えてやろう。
部屋着を脱ぎ、ナイトドレスに着替え、ティディアは居室を出た。足早にエレベーターに向かうと最上階の一つ下の階まで上がり、城の中で最も高い位置にある湖に面するバルコニーに出る。
パーティードレスの薄い生地しかまとわなくともそこで踊れば汗をかくほど暖房の効いた湖上のダンスフロアを見下ろせば、愉快気に踊り回る人々がまるで小さな小さな人形劇の役者と見えた。ダンスフロアにもその近くの岸辺にもまだまだ数多くの人間がいる。町には光が溢れ、道はその全てが光の帯となり、その光の中にもまた数多くの民がいる。
それら全てがちらつく雪のヴェールを纏い、舞い散る白氷に反射した町の光がさらに町から影を奪い、漆を張った鏡のように輝く町を映す湖面、その水上には日没と共に放たれた
わっと、町が沸いた。
歓声や指笛の音が幻想を破り、血肉のある現実の町の生命力をティディアに伝えた。
ダンスフロアの豆人形達は踊ることを止め、ヴェルアレイン城に向き誰もが手を振っている。
町の中空に映し出された大型のエア・モニターには、質素ながら威風堂々としたヴェルアレイン城のバルコニーに立つ王女の姿がある。
ティディアは微笑を浮かべ、優雅に手を振った。
――蠱惑の笑み。
見る者の魂を奪う――魔の瞳。
南極圏の夜を背に、はらはらと儚い雪が舞い散る中、王女ティディアのその真なる美貌がいや増して美しく、より妖しく輝く。
嘆声か、ため息か……
明瞭とは解らぬが確かに彼女に心を奪われた者達の鼓動が、町を揺らした。
ティディアは艶やかな指先をそっと唇に触れ、極自然と投げキスをするように手を下すと、踵を返してバルコニーから消えた。
王女が消えた直後……ヴェルアレインは、静寂に包まれていた。
驚くほど、音がなかった。
雪が大気を滑り落ちる音が聞こえる。
去り際にティディアが見せた所作に溢れる神々しき華、悪魔の魅力に、刹那、町の皆の心臓が止められていた。
そして、皆の心臓が鼓動を取り戻した時――
雷鳴にも地鳴りにも似た歓声が、雪を巻き上げ、ヴェルアレイン全域を揺るがした。