「彼らにこの情報を『活かす』チャンスがなかったわけじゃないもの。もし彼らの目が濁っていなければ、もう一つの『スクープ』をその手に得られたでしょうにね」
 優しくミリュウを見つめ返して、ティディアは言った。
「彼らは彼らの『力』の振るい方を誤った。そのために自身を傷つけた。しかも今回の件は罪なき個人を犯罪者に仕立て上げるれっきとした反社会的行為でもある。なあなあで済ませられるわけもないし、済ませるわけにもいかない。そしてその全ては、エフォラン紙自らが選択した行いの結果。
 ここまで言ったら判るわね? ミリュウ。これは『力』を持つ者の責任が問われているだけ。あなたが気に病むことはないわ」
 ミリュウの目には涙が浮かんでいた。それを彼女は驚いたように拭った。自分でも、涙が溢れるとは思っていなかったようだ。
「も、申し訳ありません、こんな……わたし……」
(……その涙、これだけのせいじゃないだろうけどね)
 ティディアは恥ずかしそうに涙を取り繕うミリュウの言葉にうなずきを返しながら、そう思った。
 妹は一晩中考え事をしていたと言っていた。きっと私にどうやって切り出し、どのように語るかを考え続けていたのだろう。ニトロへの『弾劾』を開始しようとしていた時の覚悟のほどを思えば、時間をかけ、勇気の全てを振り絞ってきたことにも容易に想像がつく。
 パティを巻き込んでまで失敗してしまったことも悔しく、無念だろう。
 恥ずかしさもあるだろう。
 無力感、失望、怒り、様々な感情がない交ぜとなっていることだろう。
 だが、それもまた一つの『修行』だ。
「後はお姉ちゃんがうまくやるから、ミリュウは何の心配もしなくていいからね」
 ティディアがそう言うと、ミリュウは何かを言いかけ――
「……はい」
 しかし、うなだれるように頭を垂れた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「あら、迷惑なんて幾らでもかけていいわよぅ。ほら、遠慮なく迷惑をかけられるのが家族じゃない?」
 そう言って微笑みかける姉の声は温かく、慈愛に満ちたその目に――子どもの頭をそうするように、心を優しく撫でられる。
 ……それが、今のミリュウにはとても辛かった。
「……ありがとうございます」
 ミリュウは再び頭を下げ、もう一度礼を述べると、肩を落としたまま「それでは失礼します」とつぶやくように言って通話を切った。
 ティディアはもう何も映さぬ画面を消して息をつき、カップの底で温くなったハーブティーを飲み干した。
「ミリュウ様は」
 おかわりを目で促され、ヴィタはガラス製のティーポットに新しい葉を入れながら言った。
「最初から搦め手を仕掛けたわけではなかったようですね」
「そうね。いきなり搦め手って、素直なあの子にしては思い切りが良過ぎるなとは思っていたけど……」
 ティディアはドロシーズサークルのセキュリティシステムから提供を受けた監視カメラの映像を見て苦笑いを浮かべた。そこにはスカートの裾を膝上まで持ち上げる小さな少女と、その膝に手当てを施すニトロがいる。
「と、いうことは――これはニトロが幸運なのか、それともあの子が不運なのか……逆にあの子が幸運で、ニトロが不運なのか」
 ティーポットに電気ポットが瞬間的に再沸騰させた湯が注がれる。乾き縮んだ茶葉が熱い奔流の中で踊り、湯が色づいていく。
 五分ほどの蒸らしの時間。ティディアは沈黙し、ティーポットの丸いガラスの腹の中を茶葉が対流に乗り、さらに色濃く香りを開かせていくハーブティーを見つめた。
「……」
 ミリュウが主に考えていたのは、どうやら『ニトロ・ポルカトが変装したパティに気がつかなかった』ということであるらしい。それをネガティブキャンペーンの材料として、彼が私に『相応しくない』ことを示唆し、あるいはその大義名分をキッカケとしてそれを強く訴え始めるつもりだったのだろう。
 では、あの一度ニトロと芍薬に痛い目にあわされたフリーライターの存在は、妹の計画には一切含まれていなかった奇跡的な不確定要素で間違いない。
 二度目にニトロと芍薬に痛い目に合わされ現在はニトロの熱心なファンとなっているあの隊長については、おそらくミリュウは気にもかけていなかっただろう。
(まあ、計画実行中に想定外が起きることは珍しくはないけれど)
 それを巧く取り入れるか、それとも排除できなかったのは、ミリュウの未熟。
 よもや僅かな計画のズレがここまで大事になるとは思ってもみなかっただろうが……だが、怒鳴り込んできた芍薬はその懸念を持っていた。
 状況と情報を掴んでいる立場にあればこの状況はけして想像できぬことではない。
 当然、ミリュウもそれを知ることのできる立場にあった。
 妹は――己の実力を痛切に思い知ったことだろう。同時にまた、彼との実力差も痛烈に思い知らされ、しばらくは、何も考えられないでいることだろう。
 生気を失った妹の顔に重なって、昨日楽屋に遊びに来ていたハラキリに、ドロシーズサークルでの件をこちらに――ヴィタがニトロの手作りサンドイッチを食べる後ろで空き腹抱えて悲しんでいた私に問いかけるように話していた『恋人』の猜疑の眼差しが思い返される。
(ミリュウ、心してかかりなさい。ニトロは手強い相手よ)
 えも言われぬ期待が膨らむ胸中で、ティディアは重い実感をこめてそう妹に呼びかけた。
「失礼致します」
 ヴィタが言って、ティディアのカップに蒸らし終えたハーブティーを注いだ。次いで自分のカップにも注ぎ、対面に座り直すと、
「よろしいのですか? このまま放っておかれても」
「もちろんよ。不満は早い内に解消しておいた方がいいもの。お婿さんと小姑の冷戦っていうのもそそるけど……」
 ティディアはヴィタ特製のブレンドハーブティーの香りに鼻腔をくすぐらせ、吐息をつくと、
「二人には、仲良くして欲しいからね」
 お姉ちゃんの顔で、しみじみと言った。
「しかし、やり方がいささか乱暴では」
「でも面白いじゃない?」
「はい、面白いです」
 あっさりとヴィタは肯定した。
「それに、ニトロになら安心して任せられるもの」
「任せる、ですか」
「ええ。本来ミリュウは調停役型だから、人と喧嘩をするには向いていない。だけどそうも言っていられない立場にいるんだから……ここで少しは慣れておかないと」
「政治家や貴族との喧嘩と、ニトロ様とのそれでは質が違うと思います」
「何事も経験よ。大体、あのニトロとあの芍薬ちゃんを相手にする経験が他に活きないと思う? 最低でも度胸はつくわよー。特にニトロを怒らせると、そんじょそこらの相手なんか屁でもない」
 ヴィタは沈黙し、ハーブティーを飲んだ。反論はないと無言で示し、
「……それに」
 カップの縁に形の良い唇を添えたまま、続けた。
「ニトロ様相手ならば、負けても安心、ですか」
 ティディアはハーブティーを音もなくすする。口腔に満ちるその爽やかで甘い風味に、王女の頬が緩む。
「そうねー。今回もジャブにしたって断片的に聞いた部分だけでも穴だらけ、相手がニトロじゃなかったらと思うとちょっとぞっとしちゃうわ」
「――かしこまりました」
 ヴィタは同意を省き承諾を以て応えた。それはこの件に関してこれ以上疑問を呈することはないという意思表示だった。
「では、アンセニオン・レッカードの件についてはどうされますか」

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