ニトロが起きた時刻と、ほぼ同時刻――
 芍薬との『会議』を終えてからというもの、ティディアは複数の宙映画面エア・モニターに次々と現れる情報のドラマティックな変化を観劇しながら、ヴィタの淹れた朝のハーブティーを楽しんでいた。
「これは……思った以上に盛り上がりそうねー」
「はい」
 笑いを堪え切れず声を揺らして言ったティディアに、彼女の対面、同じテーブルでハーブティーを飲む麗人がうなずく。いつも涼しげなその顔は、主人と同じく堪え切れぬ愉悦に緩んでいた。
「そうだ、このコミュニティにはビデオチャットはある? なかったらこの前みたいに意心没入式電脳集会マインドスライドミーティングでもいいんだけど」
「――どちらもあります」
 手元の端末を操作しその確認を取った後、主人が『恋人』と『女装した弟』が並んで写る貴重な写真を手に入れようとしていることを言われるまでもなく心得ている執事は脳裏に本日のスケジュール表をさっと描き、分刻みのタイムテーブルの中に適当な隙を見つけて言った。
「晩餐会の前、ラッカ・ロッカへの移動中がちょうど良いでしょう」
「分かった」
 ティディアはすこぶる機嫌良くうなずいた。ハーブティーを一口飲み、どうにも愉快でならずふふと鼻を鳴らす。
 カメラとネット回線越しとはいえ王女わたしが直接「写真のコピーを頂戴」と頼みに来たら、あの獣人はどんな反応を見せるだろう。『恋人』を擁護してくれたことに感謝を告げたら、どれほど恐縮することだろう。ああ、それもすッごく楽しみだ。
「ミリュウに感謝しなくっちゃ」
 と、そうティディアがつぶやいた時、プライベートの電話回線に着信が来た。
「あら」
 噂をすれば……と言ったところか。電話を掛けてきた相手の名は、ミリュウと記されている。
 ティディアは宙映画面エア・モニターを一つ増やし、それを最も手前に表示させ、通話をつなげた。ぱっと画面に興奮を隠し切れないらしいミリュウが映る。
「おはようございます、お姉様。朝早くに申し訳ありません。もう起きていらしたでしょうか」
 姉が毎日この時間には既に起床していることを知りながらも、ミリュウは丁寧に挨拶をしてくる。
 ティディアは機嫌の良さで水増しされた極上の微笑みを返し、
「おはよ、ミリュウ。こんな時間にどうしたの?」
 妹は、毎日この時間は就寝中のはずだ。
 それを意識した姉のセリフにミリュウはあえて応えず、少し間を置いて呼吸を整えると、まるで命懸けであるかのような――あるいは実際そのつもりなのかもしれない――真剣な眼差しをティディアへ真っ直ぐに向けて、力強く言った。
「お姉様に、ご報告しなければならないことがあります」
「ニトロの冤罪報道のこと?」
「は――       え?」
 大きくうなずき大きく肯定を返そうとしたミリュウは、一瞬あり得ぬ次元から虚を突かれたように呆け、そして、大きな疑問符をその顔に刻んだ。
 それまでそこにあった真剣な眼差しは哀れにも崩れ去っている。点となった目は、絶対的な信頼を置くティディアを見ているのか……見ていないのか。ひそめられた眉の間からは『?』が絶え間なく列を作って漂い出ている。
「あら、まだ報告を受けていない?」
「――いえ! あの……ずっと、一晩中考え事をしていましたので……許すまで誰もどんな報告も通してはならないと、厳命を……」
「そう」
 しどろもどろに答える妹へ、ティディアは(妹の反応から、彼女がこの報道には一切関わっていないと確信したことをおくびにも出さず)王立放送局が『ニトロ&ティディア親衛隊』の日記の存在を伝える映像と、状況の推移をまとめた関連データを送った。
 次第に……ミリュウの顔色が、興奮を隠し切れぬ赤みから、狼狽を隠し切れぬ青みへと変じていく。
「これ、ミリュウの『手柄』でしょう?」
 ティディアがそう言うと、ミリュウはぽかんと姉を見つめ――
「――イえ!」
 やおら顔から完全に血の気を失い、感情をコントロールしきれないのか甲高く裏返った声で言った。
「これは……わたしの……」
「でもこれパティじゃない」
 畳みかけるようなティディアの言葉。
 ミリュウは、空気を求める魚のようにぱくぱくと口を開閉し、あーとかえーとか意味もなく声を出し、やがて、覚悟を決めたのかごくりと音を立てて空唾を飲み込んだ。
「――はい」
 ミリュウは、認めた。
 この件に自分が関わっていることを認めた上で、決死の意志を取り戻して言った。
「そのことで、ご報告があったのです」
「昨日、楽屋でニトロから聞いたわ。お姉ちゃん、嬉しかった。パティとニトロをずっと会わせたいと思っていたのに、ニトロったら恥ずかしがってなかなか会ってくれてなかったから……
 ありがとう、気を利かせてくれたんでしょう?」
「???」
 ティディアの言葉を聞くミリュウは、またもあり得ぬ時空から虚を突かれたように呆け、そして、大きな大きな疑問符をその顔に刻んだ。
「……あの……お姉様」
「ん?」
「ニトロ・ポルカトから聞いたと、今、仰いましたか?」
「ええ」
「ニトロ・ポルカトは……その言い方ですと、パティと、気づいて……?」
「ええ、そうよ。賢い良い子だって言っていたわ。女装して別人装っていたことには驚いたけど、何か理由があるんだろうってそのていで付き合ってくれたみたいね」
 その刹那、ミリュウの体が傾いだ。もしかしたら、ほんの短い間、気が遠のいたのかもしれない。
「……違うの?」
 ミリュウの様子に――白々しく――疑問を浮かべてティディアは言う。
「いえ!」
 ミリュウは懸命に、必死に、言葉を返した。
「はい。その……通りです。お姉様は以前からわたし達をニトロ様と会わせたいと仰っていましたし、わたしも、お姉様と同じように、パティの人見知りを何とかしたいと、思っていましたので、その『練習相手』としてはニトロ様が誰よりも最適であろうと思い、パティに女装をさせ、パトネトとしてではなく他人を演じさせ、はい」
 もたつきながらも、それは筋の通る『理由』だった。語る妹を見つめ黙って聞いていたティディアは、彼女の対応力の成長振りに喜び、にっこりと笑った。
 しかしその姉の顔に浮かんだ笑顔を、ミリュウは自分の『手柄』を誉めそやすものだと誤解して受け止めていた。
 結果的に姉を喜ばせたことが嬉しくもあるが――腹の底から気持ちの悪い地鳴りが心臓を揺り動かしている。嵐の海のように荒れる鼓動が、鼓膜を破ろうとしているかのようだ。
「……それが、まさかこのような事態を招くとは……」
 うなだれて言うミリュウに、ティディアは軽く手を振って言った。
「問題ないわ。二時間後にはエフォラン紙からコメントが出るから」
「……はぁ」
「そうねー、あそこの芸風からすると『ニトロ・ポルカトが潔白であるとは限らない。権力と衆愚と成り果てたネットスフィアの圧力に屈することなく、全力で真実を明らかにしていく』って感じの挑戦的なやつかしらねー。
 だけど午後には敗北宣言。それまで抵抗すればするほどあの子がパティだって知った時の衝撃が大きくなる。ああ、どれだけ煽ってくれるかしら。っ楽しみだわー」
 底意地の悪い邪悪な笑顔を浮かべて姉が言うのをミリュウは茫然自失と眺め……ふと、目を落とし、再び姉が寄越した情報を見た。
 データは適時更新されている。
 そこには、『ニトロ&ティディア親衛隊』なるネット上の個人サークルを嚆矢としたニトロ・ポルカトを擁護するうねりがあった。
 淡々とマイペースに昨夕から今朝までのニュースを報じていく王立放送局を除き、ほぼ全てのマスメディアがうねりに同調している。エフォラン紙を発行するエフォラン・コミュニケーション社だけが孤立している形だ。
 おそらく今、エフォラン紙はこの件の帰結はうやむやに――ニトロ・ポルカトへの疑惑は最後には『悪魔の証明』に陥るか、この報道が間違っていると誰も証明できなくさせられると考えているのだろう。であれば、今後も一紙だけそれを主張していたという事実を武器に、持続的に『疑惑の残るニトロ・ポルカト』をダシにしていくことができる。あわよくば、今はまだ形のないティディア姫の恋人という権力者に対抗する勢力の尖兵となり、なおかつその中で確固とした主導権を得ようという腹積もりかもしれない。
 また、もしも『ニトロ・ポルカト有罪』ともなれば言うことはない。最高だ。そうなればエフォランは空前絶後の利益と名声を得よう。確かに姉の言う通り、それをこそ狙う芸風がそこにはある。
 だが、それは実現不可能な、幻にすらなれない蜃気楼。
 そこで踊ろうとする者は道化と言うのもおこがましい、ただの愚か者だ。
 姉が垂涎間際の顔で恍惚としているのも当然だった。
 例えクレイジー・プリンセス・ティディアが絶対なる王権を暴力的に行使しなくとも、今日、エフォラン紙と母体であるエフォラン・コミュニケーション社は自ら絶望に身を落とす。
 そして――
 ミリュウは無意識のうちに生唾を飲み込んだ。
 ――そしてそこには、少なからず自分が原因の一端として関わっているのだ。
 少なからぬ人間の人生を大きく変えさせてしまった事態の……根源として。
「――」
 ミリュウの額に脂混じりの冷たい汗が滲んだ。目の回りは落ち窪んでいるように影を纏い、その中で臆病な光がうろうろと見つめるべき場所を探している。
「……」
 ティディアは、当初の勢いの面影すらもなくした妹の様子を見て、内心ふむとうなずいていた。
 これは、どうやら妹は無闇に責任を感じているらしい。
 この件の源流を求めればミリュウの行動に行き着くことは確かだが、それを言うなら過去、ニトロが私の求愛を跳ね除けたこと、さらに私がニトロを見初めたところまで遡ることができる。時に真面目過ぎる妹が責任を感じてしまうのは解るが、しかし、正直関係ない。
 この結果をもたらしたのは、あくまでエフォラン紙の連中……特にこの記事を書いた者と、記事の掲載を許した編集長だ。
「ミリュウには、何の責任もないわよ」
 ティディアに言われ、ミリュウははっとして姉を見つめた。

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