翌日――
 早朝五時十二分。


 安らかな寝息を立てていたニトロが、突然、むくりと体を起こした。
 寝ぼけた眼で周囲を見渡すと、カーテンの隙間から夏のまばゆい朝の光が薄暗い部屋に漏れ入っている。
「……」
 ニトロはベッドの上に座ったまま、ぼんやりと考え事をしているような様子でうつむき、それきり動かなくなった。
「ドウシタンダイ?」
 トイレに行こうとするわけでもなく、単純に目が覚めたというわけでもなさそうなニトロを訝しみ、芍薬が声をかける。
「悪イ夢デモ見タノカイ?」
「……いや……」
 寝ぼけた声で、ニトロは言った。
「夢じゃなくて……何か、ティディアが大笑いしているような……そんな気がしてね……」
 芍薬は仰天した。
 何と言えばいいのだろうか。虫の報せ? 野生の勘? 時折見せる鋭敏なその感覚――我がマスターは、対ティディア専用の超能力サイオニクスでも有しているのだろうか。
(ソレトモ、コレガあたし達A.I.ニハ持チ得ナイ『人間ノ力』ナノカナ)
 何の飛躍でもなく、本当に芍薬はそう思った。
 問題は解決しているから、マスターにはゆっくり眠ってもらって、いつも通りに起床した後、昨日買ってきたジャムを塗ったパンと程よく焼いたハムでも食べてもらいながら聞いてもらおうと思っていたのだが……
「大笑イシテタヨ」
 このように起きてしまったのでは仕方がない。
 芍薬の言葉を聞いたニトロはぱちりと目を開き、完全に目を覚まして訊いた。
「何かあった?」
「御意。『結果』ガ出タ」
 ニトロはあぐらをかき、手を組んだ。どんな答えでも受け止めると全身で心構えを示す。
「仮説@ダッタヨ」
「――現在、マスメディア大騒ぎ?」
「イキナリドデカク点火シタトコロ。コレカラドンドン大キクナルヨ」
 多目的掃除機マルチクリーナーが持ってきたコップを受け取り、水で喉を湿らせたニトロは一度うなずいた。芍薬の声に危機感がないということは、自分にそう面倒はないということだろう。
 ニトロは平常心を保ったまま、
「で、どう出てきた?」
 その問いの直後、壁掛けのテレビモニターの電源が入った。昨夜チャンネルを合わせていたテレビ局の早朝ニュースが映り、夏らしく陽気なセットを背景にして、エフォラン紙が本来休刊日である日曜に出した特別号・『ニトロ・ポルカトへの疑惑』について報じる若手女子アナウンサーの険しい顔がニトロの目に飛び込んでくる。
 ニトロは女子アナウンサーが語る内容に眉をひそめ、次いで彼女の横に大きく映し出されているエフォラン紙を眺め――
「……なんとまあ!」
 どういう驚愕の声を上げればいいのか一瞬分からず、ニトロは思いついた言葉をとにかく発した。
 エフォラン紙の一面にはこうある。
『ニトロ・ポルカト 少女に強制猥褻!!』
 使われている写真にはスカートの裾を膝上まで持ち上げている、顔が判らぬよう目の辺りに黒線を入れられた『ミリー』と、その前に屈みこんで膝を覗き込むニトロ・ポルカトの姿。ご丁寧にその写真は来歴証明ペディグリードファイルであることもアピールされている。
 二ページ目であろうか、衝撃的な一面に並べて表示されている紙面には『抱っこ』した小さな少女に嫌がられている姿まであった。間違いなくドーブの店・ディアポルトでの光景だが、おかしなことに背景にあるべき移動販売車ケータリングカーがどこにもない。そして景色の一部がそう刈り取られているだけで、そこには、一面の写真からそちらに目を移せばこれはまさに性犯罪者が美少女をかどわかそうとしている決定的瞬間だ! と思い込まされる絶大な演出力が生み出されていた。
「ダだだ大問題ですぞ! 芍薬!?」
「大丈夫ダヨ、主様」
 険しい顔でエフォラン紙の渾身の記事を読み上げ続ける女子アナウンサーとは対照的に、この上なく悠然と芍薬は言う。
「何で? いやこれ俺の人生お先真っ暗じゃない!? 今も昔もこの手の犯罪は――ってそうだ、芍薬が言ってた懸念ってもしかしたらこういうのじゃないのかな!」
「大丈夫」
 大慌ての……思わずコップを振り上げそうになった手を何とか抑え込んで言うニトロとも対照的に、やはり芍薬は穏やかに言う。
 ニトロは、そこでようやく気づいた。残っていた水を一気に飲んで胸におこっていた火を消し、一度大きく深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
「……」
 そう――
 きっと、既に問題は解決しているのだ。芍薬とティディアの間で話もついているのだろう。
「……ティディアは、何て?」
「悪ビレモナク『ごめんねー。でも絶対に悪くしないから、任せて』ッテサ」
 ティディアとの会話を録音していたらしく、彼女の声を再生して芍薬は告げた。
「ドウシテクレヨウカシラ、トモ言ッテタヨ。楽シソウニ」
「……そっか。……それじゃあ、本当に仮説@だったのか」
「……ソノヨウダネ」
 幾ばくか釈然としない点が残るものの、『結果を確認しての結論』が出てしまったからには、二人はそれで納得するしかなかった。
「ソウソウ、主様ノ言ウ通リあたしノ懸念ハコノ類ダッタンダ。ダカラ、ティディアニハコッピドク文句ヲ言ッテオイタ。ヨクモ主様ノ人生ヲ嫌ナ形デ台無シニシカネナイ手段ヲ! ッテ」
「ん、ありがとう。今度俺からも叱っておく」
「コッピドクネ」
「もちろん。
 ……でも、これ、どうする気なんだろう……。いくらあいつでも、こういう疑いを解くのって難しくないかな」
「問題ナイヨ。伝家ノ宝刀モアルシ」
「伝家――ああ、パティですって言やいいのか」
「御意。デモ、ソレハトドメニ取ッテオクダロウネ。ソレマデハ悠々ト『エフォラン』ノ無駄ナ抵抗ヲ見物スル気ジャナイカナ」
「……どういうこと?」
 ニトロが眉をひそめると、壁掛けのテレビモニターのチャンネルが変わった。
 見ると、王立放送局の女子アナウンサーが、淡々とした表情で『ニトロ&ティディア親衛隊』のWebページに掲載されていた『隊長日記』を紹介している。そこにはミリーだけ顔のぼかされた、三人で撮ったあの写真もあった。
 本来裏付けが取り難く、言責も求め難い電脳情報界ネットスフィア発の情報をこんなにも早く王立放送局が扱うはずはない。なのにそれを報じているということは、こんなにも早い時点で王立放送局報道部が、隊長のその記録を『猥褻疑惑』への有力な反証であると相当の確信を持ったということなのだろうが……
 状況の推移が掴み切れずニトロがでっかい『?』を浮かべていると、芍薬が鼻歌混じりにデフォルメ肖像シェイプをモニターの隅に現した。

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