ドロシーズサークルと呼ばれる地域の外縁に、ショーやイベントで使われる道具や機材を保管している倉庫街がある。
その中の人気のない場所に、『ミリー』を乗せた車は止まった。
運転席からやけに表情のない女性が降りてくる。彼女は助手席側に回り込むと恭しく頭を垂れ、静かにドアを開いた。
シートから飛び降りるようにして小さな少女が車から出てくる。
そこに駆け寄ったのは、ボーイッシュな服装に身を包み、大振りの
「パティ! 膝、膝は大丈夫!?」
彼女は『パティ』の前に跪き、その膝に触れたものかどうか迷っているように両手をわたつかせながら声を上げた。『パティ』の顔とスカートに隠れた膝を交互に見る目は不安に彩られている。表情にはどこか悔恨の念があり、声はひどく震えていた。
「痛かったでしょう? ごめんね、お姉ちゃんがこんなことを無理に頼んだから……!」
両手を温かい両の手で包み込んで謝罪を投げかけてくる姉に、『弟』はゆっくりと首を左右に振った。
「痛くないから、大丈夫」
「本当? 我慢しなくていいのよ。そうだ、すぐにフレアに診せないと、フレア!」
慌てた様子でミリュウはドアを開いた女性――パトネトの警護のための特別なアンドロイドに振り向き言った。即、アンドロイドが一歩踏み出し、そこにパトネトがもう一度弟は首を左右に振って言った。
「フレア、いい」
ピタリとアンドロイドが止まり、その場で姿勢を正す。ミリュウの命令よりも、アンドロイドを動かすA.I.『フレア』のマスターであるパトネトの命令が優先された結果だった。
ビックリ眼で自分を見つめるミリュウを前に、姉を驚かせてしまったことを悔やむようにパトネトは一度目を伏せ、それからすぐに目を上げて言った。
「大丈夫。お薬つけてもらったから」
「……本当に?」
「うん」
「我慢しなくていいよ?」
「ううん、平気」
「……ごめんね」
言うパトネトを見つめていたミリュウは、やおら立ち上がり、もう一度謝りながら彼を優しく抱き締めた。抱き締められたパトネトは姉の腹に頬を当て、嬉しそうに笑って姉を抱き返す。
「ありがとう、パティ。お疲れ様。大変だったでしょう?」
「ううん。楽しかった」
「楽しかった?」
ミリュウはぎょっとした。思わぬ言葉を口にしたパトネトの肩に手を置き、彼を見下ろす。そこにあるのは唐突な変化にきょとんとしている純真な瞳だ。彼女は今一度しゃがみ込むと弟の目を真っ直ぐ見つめて、問うた。
「まさか……パティ。まさかニトロ・ポルカトのこと…………好きに、なったの?」
ミリュウの顔は不安に強張り、瞳を彩るのは――
恐怖。
「……」
パトネトは姉をじぃっと見つめ返し、やおら、頭を振った。
「ううん」
「……違うの?」
「うん。楽しかったのは、ティディアお姉ちゃんと同じ」
「お姉様と?」
「ティディアお姉ちゃん、ニトロ君を時々だまして遊ぶって言ってたでしょ? そのことをお話ししてくれるティディアお姉ちゃん、楽しそうだった。その気持ちがよく分かったの。だから、ティディアお姉ちゃんと、同じ」
その言葉を聞いたミリュウから、不安も恐怖も全てが消し飛んだ。
少し『騙す』という行為に弟を加担させてしまったことへの罪悪感が心を刺したが、腹の底で鈍く唸るニトロ・ポルカトへの悪情がその痛みを瞬く間に飲み込んでしまう。
それに何より、ティディアと同じ、というセリフが嬉しかった。
敬愛するお姉様と同じ――何と素晴らしい響きだろう!
「またニトロ君に『する』ときは、ボクをさそってね」
「ええ。ええ、パティ」
少女よりも少女らしく微笑む弟を、ミリュウは抱き締めた。
「その時も、力を貸してね」
「うん」
耳元で囁かれる返事にミリュウは嬉しくなり、パトネトの頬に口づけをした。解放された弟は照れ臭そうに、しかし得意気に笑った。
「さあ、帰りましょう」
ミリュウはパトネトと手をつなぎ、背後に止めていた
広々とした後部座席の高級シートに並んで座る姉弟は、手をつないで上空へ飛び上がっていく浮遊感を楽しんだ。
「…………あのね、ミリュウお姉ちゃん」
「なぁに?」
「……ごめんね」
そしてちょうど車が前方へと加速を開始した時、思い出したように――それともこれまで言い出せなかったことをようやく口に出せたように、パトネトが言った。
突然謝られたミリュウは当然驚き、弟に目をやった。
「最後、大失敗しちゃった」
そこには力なく肩を落としているパトネトがいた。その姿はミリュウの胸に温かなものを溢れさせ、彼女は弟の手を放すと、彼の頭を優しく撫でた。
「いいのよ、お願いだからそんなことで謝らないで、パティ。あなたはよくやってくれたんだから」
「でも、もっと時間をかけられなかったから、ニトロ君、仕事に間に合っちゃう……」
「ええ。だけど、パティには気づかなかった」
パトネトはミリュウを見た。
「お姉様の恋人でありながらこんなに可愛いパティに気づかないなんて、やっぱりニトロ・ポルカトはお姉様に相応しくない。このことを知ったら、お姉様はこれから教え込むから気にしないって、きっとそう仰るだろうけど……けれど、きっと、心の内では酷くガッカリなさるわ」
一定の達成感への喜びを言葉の裏に貼り付けていたミリュウは、最後の自身のセリフに眉を曇らせた。その眉の曇りは目に落ち、頬を伝い、やがて唇に自虐的とも言える笑みを作らせ、
「あんなに愛しているニトロ・ポルカトが、お姉様の大事なパティに気づかないんですもの」
そこにあるのはティディアがニトロを想う強さへの嫉妬か、それともその姉を傷つける結果を喜ぶ自己への嫌悪か。それとも、未来の義兄に気づかれなかった弟への憐れみの故か。
「そのくせニトロ・ポルカトときたら、お姉様をまるで鬼か悪魔みたいに例えて。悪い子はティディアお姉様に食べられる、なんてどういうこと? さらに呼び捨て、あいつ呼ばわり、絶対、アイツはお姉様を軽んじている。馬鹿みたいなファンに偉そうにして、お姉様の威光を笠に着て良い気になっているんだわ」
複雑な感情を浮かべるミリュウを見ていたパトネトは、もにょもにょと唇を小さく動かし口の中まで出てきていた言葉を飲み込んでいた。
その言葉とは……ニトロ・ポルカトは、多分、気づいていたというセリフ。
もちろん、はっきりとニトロ・ポルカトに『気づいている』と正体を突きつけられたわけではないから、それはパトネトの推測と感覚的なものでしかない。しかし彼は、ニトロ・ポルカトが時折見せた――あるいは姉のティディアにも似た――こちらの心を見透かすような瞳を克明に覚えていた。あの瞳、そう、間違いなく彼は気づいているはずだ。
それに例え彼自身の力では気づけなかったとしても、彼には優秀なA.I.がいる。あの獣人と撮った写真を送っていたから、別れるまでは気づかれていなかったとしても、現在ではもう絶対にばれているだろう。
芍薬。
その名はティディアに何度も聞いた。気になり、その芍薬に『負けた』という王家のA.I.の回復を待って話を聞いた時には、それに市井のA.I.にしておくには惜しいとまで言わせていた。
――だが……
パトネトには、言えなかった。
「絶対にお姉様には相応しくない。お目を醒まして差し上げないと……」
今までにミリュウが浮かべたことのない暗い翳り。本心では、嫌な感じがしている。そんな顔を姉にして欲しくないと思う。それなのに、言えばそんな暗い笑みを姉にもたらしたニトロ・ポルカトの利益になることを、姉のその翳りを前にして口にできようもない。
そしてまた、少なくとも姉が達成感を得て喜んでいるのならそこに水を差したくもない。いや、それどころか、ニトロ・ポルカトが『ミリー』の正体に気づいていたとなれば姉が必死に考えていた今回の策自体が全て無駄になってしまうのだ。
言えるはずがない。
言うわけにはいかない。
それが、姉を慕うパトネトの、今できる精一杯の優しさだった。
「……」
パトネトは、自分の頭を撫でた後は膝に置かれた姉の手をそっと握り、姉に甘えるように肩を寄せた。
「あ」
嬉しそうな声を上げてミリュウはパトネトの手を握り返すと、ふと思いついたように弟とつなぐ手を解いた。七歳の男子にしては華奢な腰に腕を回し、
「よいしょ」
と、自分の膝の上に座らせる。
背後から包まれるようにミリュウに抱かれたパトネトは、心地良さそうにはにかんだ。
「がんばろうね、お姉ちゃん」
「――うん」
ミリュウは、何だか泣きそうになった。
弟の健気な言葉、優しい声に、胸の奥がざわめいてならなかった。
「うん。パティ、ありがとう」
「あ、でもね、もう女の子の服はヤ」
「え?」
肩越しに振り返り言うパトネトを、ミリュウは眉をひそめて見つめた。
「なぜ?」
「ボク男の子だもん。スカートはもうヤ。おまたがすーすーする」
「……とっても似合ってるのに」
「ヤ」
パトネトはそっぽを向いて頑として拒絶する。
ミリュウは、至極残念そうにため息をついた。
「帰ったらドレスを着せたかったのになぁ……」
「イーヤ!」