ミリーの『母親』からの応答は、すぐにあった。
「近くまで車でくるからって」
 テーブルに戻り、ドーブが差し入れてくれたスモールサイズのヴオルタ・オレンジを飲むニトロに、その対面でしょんぼりと肩を落としてミリーは言った。
「心配してたでしょ」
 あくまで『迷子ごっこ』に付き合いニトロが言うと、『ミリー』は少し複雑な顔をして、それから小さくうなずいた。
「それで、どこら辺に来るって?」
「……すぐ近くの道路。あっち」
 モバイルを見ながらミリーが指差した方向を見て、ニトロは残っていたグィンネーラを一つ齧り、
「分かった。それじゃあ、そろそろ行こうか」
「それがおよろしいでしょう」
 相変わらず、その声が発せられるとミリーの肩が跳ね上がる。
 カメラをケータリングカーに置き、テーブルに戻ってきたドーブはそれに苦笑しながら、怪訝な顔をしているニトロに言った。
「後十分もすると、そこで行われている講演会が終わります」
 ドーブが示す先、植え込みの向こうにビルの頭が覗いて見えた。
「ここは最寄りの駅への途中になりますので」
 ということは、講演会帰りの人間が多く通るわけか。ずいぶん人気のないところに店を出しているなとは思っていたが、なるほど、そういう人の流れを当て込んでいたのか。
 ニトロは感心半分、同時にそれはのんびりしていられないと――
「ミリーも食べる?」
「……おなかいっぱい」
 残っていたグィンネーラを平らげたニトロはヴオルタ・オレンジを飲み干し、
「ああ、そのままで結構です」
 皿とコップを片付けようとしたニトロを制して、ドーブが言う。
 ニトロは大きな手で先んじてゴミを掴む獣人を見、諦めたように一つ息をついた。
「ありがとう」
「滅相もない。仕事です」
「そっか。でも、ありがとう」
 再度言われ、ドーブは手を止めてニトロを見た。少年は当たり前のことを言ったと悠然としている。その様は、例え当たり前のことをしただけだとしても、ドーブには威風堂々とした風格を伴って見えた。
「……どういたしまして、ニトロ様」
 ドーブの返礼を受けて、ニトロは微笑んだ。立ち上がり、ショルダーバッグを肩にかけながら言う。
「ご馳走様、隊長。美味しかったよ」
「恐悦至極に存じます」
 ドーブは心の底から嬉しそうに顔をほころばせた。
 ニトロは笑顔で応じ、それからちょうど――獣人の大男を避けるように駆け寄ってきたミリーに顔を向けた。
「ほら、ミリーも」
 するとミリーはニトロを見上げ、次いでドーブを見て、ニトロの後ろに半身を隠しながら小さな声で言った。
「……ごちそうさまでした」
「ご利用頂き、ありがとうございました」
 ミリーはこくりとうなずくと、それきりドーブと目を合わせぬよう視線を逸らした。
 だが、ドーブは全く自分に懐かぬ少女を慈しむように目を細め、また頬をほころばせた。
「それじゃあ、隊長、仕事頑張って。どこかで店を見かけたらまた食べさせてもらうよ」
「是非」
 大きくうなずいたドーブに目礼し、レアフードマーケットのバッグを手に提げたニトロはミリーと共に歩き出した。
 そして、二人がテーブルを離れて少し行ったところ。その背にドーブの声がかかった。
「結婚式の晴れ姿、貴方様とあの方の幸せな姿を見られる日を、わたくし心から楽しみにしております」
 ニトロは足を止め、勢いよく振り返った。
「そんな日は来ないよ!」
「またまた、照れなさるな」
「いやだからねっ?」
「そうやってあの方を焦らすプレイも程ほどに」
「プレイ違うわ! そもそも――」
「わたくしは、許されるならばいずれこの国に帰化いたします。貴方とあの方の民となれること、我が人生においてそれ以上の誉れはありません。どうか、あの方と共にアデムメデスを幸福と笑顔でお包み下さい」
 隊長は背筋を伸ばし、ネコ科特有の矜持と、どこか雄々しさすらも漂わせて言う。
 ニトロはその姿に何だか毒気を抜かれてしまい……
(嫌なプレッシャーを与えてくれるなぁ)
 何とも言えぬ心持ちに頭を掻き、一つ息を挟んでから、彼は言った。
「幸福とか笑顔はたった二人から生み出されるものじゃないよ、隊長。いくらあいつが呆れるような『天才』でもそれはできない。
 杓子定規な言い方だけどさ、それができるのはやっぱり皆の存在があればこそ――例えば俺とあいつの漫才で笑ってくれる人がいればこそだよ。そういう人がなければ、あの希代の姫君であっても、誰もいない空洞に向かって虚しく渾身の滑稽話を吹聴するだけ。最後には自分自身が一番滑稽な、哀しいクレイジー・プリンセスになるだけだ」
 ニトロの感情を掴ませぬ不可思議な、それでいて奇妙に清々しい笑顔を向けられて、ドーブはその穏やかな声に応じる言葉を紡ぐことができなかった。
 改めて、その『クレイジー・プリンセス』を射止める少年の器を見せ付けられた気がしてならない。
 ドーブは、迷子の少女の傍らに立つ少年をひたすらに見つめていた。
「まあ、俺とあいつがどうなるかは分からないけど……ちょっと行き過ぎたところはあったけどね、隊長みたいな人がいるのはあいつにとって幸せなことだと思うよ。だから俺とあいつがどうなろうと――まあ、本当は俺が言う義理はないんだけど、隊長はあいつを支持してやって。それで、その時もし、俺の出した結論が気に食わなかったら殴りに来たっていい。もちろん俺は無抵抗に殴られる気はないから、返り討ちも覚悟の上で」
 言葉尻を洒落めかせたニトロの口調にもドーブは言葉を返せなかった。ただ、彼は、深く深く辞儀をした。
 その上に笑みを含んだニトロの声がかかる。
「ああ、でも。馬鹿が過ぎたら遠慮なくあいつを叱ってやってね。それだって、ファンの立派な務めだと思うんだ」

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