背後から声がし、ミリーが顔を伏せる。ニトロが振り返ると、すぐそこに機を計っていたらしいドーブがやってきていた。手にはトレイがあり、それにスモールサイズのヴオルタ・オレンジを載せている。こぼした分を持ってきたようだ。
 ドーブの気遣いにニトロはいいよと遠慮をしそうになったが、作ってしまったものを無下にするのも失礼か? と躊躇した隙に獣人の大男にテーブルにコップを置かれてしまった。
 ドーブは無言で遠慮なくどうぞと促している。
「ありがとう」
 ニトロは、小さく会釈して言った。ドーブは恐縮そうに会釈を返し、
「お嬢さんもおかわりしますか?」
「……」
 問われたミリーはうつむき何も言わない。
「……。おかわりする?」
 ドーブに助け舟を目で求められたニトロが問うと、ミリーは小さく首を横に振り、
「ごちそうさま」
 声も小さく、しかしはっきりとそう言った。
 ドーブは満足そうにうなずき、そしてニトロを見た。その瞳には、ある種の期待があった。
「それで、あのぅ……大変恐れ入りますが……ニトロ様」
「……なんでしょう」
 思わず、警戒心を呼び起こされたニトロはいつでも立ち上がれるよう重心を動かしていた。
 ドーブはニトロの変化に気づく様子もなく、一層瞳をキラキラと輝かせ、心なしか鼻の穴を大きくして言った。
「写真を、一枚」
 そこで彼は言葉を一度区切った。興奮か、期待か、不安か――それとも全ての感情を努めて押し殺したその声は、逆にそれがためにとても力強いものだった。
「このようなことをお願い申し上げられる立場ではないと重々承知してはおりますが、どうか、共に写ることをお許し願えませんでしょうか」
 そりゃあもう力強すぎて、大きな口に覗く犬歯が磨きこまれたナイフに思えるほどの迫力があった。
 そちらを見ずともミリーの怯えが伝わってくる。ニトロは若干身も心も引きながら、ドーブの手にある機械を見た。携帯電話などの携帯端末モバイルに付属しているものではなく、それ用に特化したカメラだった。財布にしまうことのできるカードサイズの手軽なスナップカメラでもなく、厚みのある、過去の一眼レフの流れを組む本格派。
「ニトロ様」
 顔をずいっと近づけて、ドーブは言う。
「わわ分かった、いいよ、写真くらいいくらでもどうぞッ」
 のけぞりそうになるのを堪えながら、ニトロは慌てて言った。両手を前に差し出して間合いを確保し、何度もうなずく。
 するとドーブはこの上なく嬉しそうに双眸を――まさにネコのように細くした。
「ありがとうございます!」
 びしりと背筋を正して最敬礼で辞儀をして、頭を上げると即、トレイを空いたテーブルに放り置き、エプロンの大きなポケットから折りたたみ式の三脚を取り出すとそれを組み立て始める。
(用意がいいなぁ)
 まあ、そのカメラはテスト事業の記録を撮るためのものなのだろうが……もしシャッターが切られた瞬間に本体が爆発したり、レンズが水鉄砲と化してびしょ濡れにされたとしても驚きはすまい。
 ニトロは息をついて気を取り直すと、ドーブが『ディアポルト』をバックに写真を取ろうとしていることをカメラの向きから察して立ち上がった。
 携帯電話――本物の、芍薬との接続を続けている携帯電話を操作し、伊達メガネの機能を働かせる。『レーダー』の上に重ねるようにパラメーターが視界に現れ、ニトロはメガネのフレームの色を暗い臙脂色から薄い臙脂色に変化させた。レンズ越しであれば瞳の色が元の黒に見えるようにも操作する。
 ニトロのその様子を見て、ドーブはまた「ありがとうございます」と頭を下げた。
 十数秒の内に、ニトロの外見の印象は本来の『ニトロ・ポルカト』に戻っていた。髪型は変えたままのため多少の違和感はあるが、そこまで完璧に戻す必要はないだろう。
「じゃあ……それをバックに?」
 ニトロが確認のためにケータリングカーを指差すと、ドーブが「はい」と返事と共に駆け、立ち位置を示した。
 了解を返してニトロがドーブの立った場所へ歩き出す、と――
 ガタリと音を立てて席を立ち、ミリーがニトロに駆け寄ってきた。大分スカートにも慣れたらしく、先ほど転んだ時のようなこともなく、ニトロに追いつくや飛びつくようにして彼の手を握る。
「――ミリーも?」
 よもや『ミリー』が写真に写ろうとするとは思っていなかったニトロは目を丸くして訊いた。返ってきたのは無言のうなずきで、それは、間違いなく肯定だった。
「いいかな? 隊長」
「もちろんですとも」
 ニトロが示された立ち位置につくと、ドーブはカメラの後ろに回って操作をし、やがて納得がいったようでニトロの元へと駆け寄ってきた。
 一緒に写真を撮りたくてもやはりミリーはドーブが怖いようで、自然、二人に挟まれる形でニトロが中心に立つことになる。
「では」
 ドーブが手の中のリモコンを操作すると、
「撮影シマース」
 カメラからやけに軽い人工音声が流れた。
「サア笑ッテ笑ッテ? 1+1ハ?」
 カシャリと大きな音が鳴って、シャッターが切られたことを被写体に報せる。
「ヨーシ、モウ一枚、モウ一度懲リズニ笑ッテ? 3・2・1 ハイ!」
「――ありがとうございました、ニトロ様。それと……厚かましいとは存じますが、できれば、サインもお願いしてよろしいでしょうか」
「いいよ」
 もののついでだ。ニトロが人工音声のノリにあてられたかのような軽い返事を返すと、獣人は全力でカメラを取りに戻った。三脚ごと引っ掴み、素早く戻ってくる。
「お願いいたします!」
 まるで国宝を恭しく扱うように、ドーブは三脚から取り外したカメラの背面を上にし、いつの間に取り出したのか短いタッチペンをニトロに差し出した。
「そんなに畏まらないでいいのに」
「いえ! そのようなことは!」
 カメラを差し出したまま興奮冷めやらぬ調子で言われて、ニトロは半笑いを浮かべるしかなかった。
 視界の隅――視野に入るかどうかの場所に伊達メガネのパラメーターが現れ、さすが気の利く芍薬がフレームの色とレンズ越しの瞳の見た目の色を『元』に戻していく。それを目の端にしながらニトロはカメラの背面モニターに映し出された画像を見て、頬に刻んだ硬い半笑いを、柔らかに溶かした。
 ……いい写真だ。
 構図はシンプル、露出は適正、色作りもいい。だが、そんなことよりも、『ニトロ・ポルカト』の隣でびしりと『気をつけ』をしている大男は何やら彫刻のような風体で、光栄と緊張が入り混じる表情は硬くも見る者に微笑ましさを喚起させる。
 一方、『ニトロ・ポルカト』を挟んで反対側の、何のポーズも無く立ち顔も素直に作られている『ニトロ・ポルカト』と手をつないで立つ小さな少女は、やや恥ずかしそうに半身になり、うつむき加減の顔は幽かにだが――しかし確かに、可愛らしくはにかんでいる。
 アンバランスで、アシンメトリーな絵。
 妙に、心がくすぐられる。
<ちゃんともらってね>
 慌てたように、サインを書こうとしているマスターの邪魔をするのも厭わず――というよりも邪魔をしてニトロの手を止めることを目的にしてだろう、芍薬のメッセージがレンズ・モニターに流れる。
「これ、俺ももらっていいかな」
 芍薬に言われるまでもなく、それはニトロも望むところだった。
 背面モニターにタッチペンを付く前に問うと、ドーブは大きくうなずいた。
「それはもう」
「それじゃあ先にコピーしてもらっていいかな。サインがないのが欲しいから」
「ご安心下さい。サインを頂けたらpdimgを作成するつもりでしたので、撮影時にオリジナルも同時作成してございます」
「そっか。それなら先にこのまま書いちゃった方がいいね」
「はい、お願いいたします」

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