「こら!」
 テーブルの傍まで駆け寄ったニトロが怒鳴ると、ミリーは椅子から飛び上がらんばかりに背を反らした。ばっと振り向いたミリーの顔は蒼白となり、ニトロの形相を見てさらに凍りつく。
 同様に、ニトロの顔も蒼白となり凍りついていた。
 一体、何故!? ミリーの手の中で、『予備の携帯電話』が起動している。カモフラージュのための正規の起動画面がそこにあり、やはりカモフラージュのために記録させておいたショートアニメが再生されて主人公とライバルがコミカルな追いかけっこをしている。
 もし……ミリーがそのアニメーションが登録されているフォルダを選ぶ時、二つ以上のボタンを同時に押していたら……それは触れる者皆失神させる強力なスタンガン機能を発揮していたことだろう。
「駄目だろう人の物を勝手に!」
 ニトロはミリーから『携帯電話』を引ったくり、急いで電源を落とした。
 ミリーは怒鳴られたショックで失っていた我を取り戻したように、目に涙を溢れさせた。ぽろりぽろりと涙をこぼしながらもどうすればいいのか判らないようにきょとんとして、胸の前に置いた手の指を力無く絡ませて呆然と泣き続ける。
 ニトロはいつの間にかジュースのコップを取り落としていたことに気づいた。振り返ると電話をしていたところからここまでの途中に、中身をこぼして透明なコップが転がっている。気を利かせて、ドーブがそれの片付けに向かっていた。
 ニトロはドーブに気まずく頭を下げ、詫びた。ドーブは事情を了解しているとばかりにうなずいて掃除を始める。
「……」
 ミリーは、やがて泣くことをやめていた。
 涙の代わりに怒りが沸いてきたらしく、顔を赤くし、頬を膨らせてそっぽを向いている。何が悪くて怒られたのか全く解っていない様子だった。泣いたのは、怒られたことに対してではなく、どうやら怒られたことに酷く驚いてのことらしい。
「……ミリー」
 平静を取り戻したニトロが声をかけるが、ミリーは椅子の上で膝を抱えて顔をうずめる。
「ミリー」
 もう一度呼ぶが、ミリーは顔を上げない。しかし、むくれているのは明らかだった。
「ミリー」
 語気を強めて、ニトロは再度呼んだ。
「…… ぃ」
 と、ミリーから返答があった。だが、震えた声は小さすぎて聞き取れない。
「何?」
「きらい!」
 ミリーが膝に顔を埋めたまま怒鳴った。驚くほど、力のこもった声音だった。
 ニトロは『予備の携帯電話』をズボンのポケットに突っ込むと、ミリーの席であった椅子に座った。テーブルの上に使用し続けている携帯電話を置いて頬杖を突き、グィンネーラを一つ口に運びながら、言う。
「いいよ。嫌ってくれて」
 それは、ミリーに取って思いもよらぬ返しだったらしい。顔を上げ、涙の跡の残る目をニトロに向ける。意外過ぎて……というよりも、ニトロのセリフがまるで現実のものとは信じられない様子で、どうやら怒りよりもその疑念が勝ってしまったらしい。ニトロを訝しむ心持ちがそこにははっきりと溢れていた。
 ニトロは頬杖をついたまま息をつき、何でもないことのように言った。
「将来、ミリーがたくさんの人に嫌われることに比べたら、俺一人が嫌われる方がよっぽどマシだよ」
「……きらわれないもん」
 むっとして、ミリーは反論した。とはいえニトロの言い分が気になるらしく、聞く耳は持っているようだった。
 ニトロはミリーを見つめ、
「嫌われるよ」
「きらわれない」
「人のバッグの中を勝手に見たり、そこから物を取り出したりする人は、嫌われるよ。それに怒られる」
「……そんなこと、ないもん」
「今、俺は怒った」
「ニトロ君だけだもん」
「そう思う? ミリーは、俺がミリーのポーチを勝手に漁って中の物を勝手に使ったら、どうかな」
「……いや」
 ニトロは、笑った。
「だろう? 俺も嫌だった。だからこういうことはお互いにしないようにしようねって、皆は約束してるんだ」
 怒鳴った時とは打って変わって穏やかに話すニトロの語り口に引き込まれたように、ミリーは彼を見つめていた。
「その約束はルールでもいいし、マナーって言ってもいい。だからそれを裏切ったら怒られるし、嫌われもする。ミリーはマナーを破って怒られたことは?」
「…………、ある」
 ニトロにはミリーがそう答えるであろう確信があった。『王子』が様々な場におけるマナーを教わっていないはずがない。それにティディアのことだ、例えば食事中などにきっと自ら――時と場合によっては崩してもいいことを含め――きちんと教育していただろう。
「うん。だったら、俺に怒られたのも解るね?」
 ミリーは再びそっぽを向いた。しばらくそのまま明後日の方向を睨みつけ、やがて、うなだれるようにうなずいた。
「なら、俺を嫌ってくれてもいいけどさ。もうしちゃ駄目だよ」
 ミリーは、繰り返しうなずいた。そして、
「…………ごめんなさい」
「うん、いいよ」
 『姉』とは違ってすぐに素直に謝ってきた『弟』に、ニトロはほころんでうなずいた。するとミリーはニトロのその顔を見て、嬉しそうにはにかんだ。
 純粋で、愛くるしい笑顔だ。
 ニトロはなるほど露出の少ない『彼』が人気を集めているのも納得だと思いながら、
「それにしても良かった。ミリーが悪い子にならなくって」
 ふと思い出した子どもの頃の記憶をネタにして、言った。
「悪い子は、ティディア姫に食べられちゃうからさ」
「本当!?」
 ミリーは目を丸くして、身を乗り出して言った。勢い、もう空だったヴオルタ・オレンジのコップが倒れる。
 ニトロは少し意地悪く目を細めた。
「さあ、どうだろう?」
「……本当?」
「俺の時はウシガエルに食べられちゃうぞ、だったけどね」
「……ウシガエル?」
「そう。これくらいの大きさの」
 と、ニトロは手で大きさを作り、
「でっかいカエルで、鳴き声がウシに似てるんだ。
 けど、俺の父さんは『体がウシで頭がカエル』なモンスターだとずっと勘違いしてた」
「……あ」
 ニトロのセリフに、ミリーが目を丸くした。何かに気づいたらしい。ぶすっと頬を膨らせる。
「……『嘘』だったんだ」
 ミリーの指摘に、ニトロは賢い子だと感心していた。この歳で人の話をしっかりと聞くことができ、その中にある少ない情報、言葉と言葉の間の機微から真を察する力も持っている。教育を間違えさえしなければ、きっと良い王子になってくれることだろう。
「嘘というより、昔から伝わる脅し文句かな。迷信、お呪い、そういうのかも。そうだ、嘘つきは巨鶏デカドリに頭をつつかれて脳味噌出されちゃうぞ、なんてのも母さんに言われたことがあるな」
「……それ、怖い」
「怖いから効き目があるんだろうね。そんな風に言われてた頃は、それでよく言うこと聞かされてたもんだよ。まったく、あの時はホント『子ども』だったなあ」
 自嘲的に情けなくニトロが言うと、ミリーははにかむのではなく、今度は確かに笑った。楽しそうににっこりと、初めて見せる明るい笑顔だった。
「仲直りされたようで、ようございました」

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