<『迷子』が『弟』だってことだけは、認めている感じだね>
ふいに、伊達メガネに芍薬のメッセージが流れた。有意義な情報はこれ以上得られなさそうだとマスターが判断したちょうどその時に、芍薬も『引き際』を察したのだろう。
そして、ニトロも、芍薬と同じことを思っていた。
ティディアの口振りを思い返せば、何らかの関係があることをほのめかしていると判断していいだろう。あちらからすれば、強いて隠す気は無いがあえて明かす気もない――といったところだろうか。
しかし、だとすると、この事態はさらにこんがらがってくる。
『ミリー』はやっぱり『パティ』で、それをティディアは認めていて、なのにこの『迷子ごっこ』はティディアの仕業じゃない? そんなことが現実としてあり得るのだろうか。何か……重大な見落としでもあるのだろうか。それならば、一体、何を見誤っているのだろう。
消化不良を起こした思考の反吐が胸の中で鬱陶しく波打っている。
ニトロは、強く頭を振った。
美味しく冷たいジュースを喉に通し、無理矢理一息をつく。
とにかく、事態の『正体』がさらに霧の中に入ってしまったとはいえ、当初考えていた道を歩いていては結論にいつまで経っても辿り着けないらしい事が分かっただけでも意味のある進歩だ。
後は、目の前のことに適切に対処しつつ、芍薬の分析を待とう。
「……そういや、随分電話してくるのが遅かったけど、まだ会議が続いてたりするのか?」
目の前のこと――まずは用件の済んだこの電話を終えようと、ニトロは会話の切り上げに向けて話題を変えた。
「トイレ休憩とか言って抜け出してきた、とか」
「いいえ、もう終わったわ。こっちはこれから局に向かうところ」
「ん? それなら何でトイレなんかから電話してきてるんだよ」
「んー? ここらで一人になれるのは、ここしかなかったからよ」
「いやいや、車ん中からでもかけてくりゃ良かっただろ」
「同乗者がいるもの」
「ヴィタさんだろ」
「ヴィタはドライバー。『同乗者』は、アンセニオン・レッカード」
「アンセニオン・レッカード……?」
ティディアが口にした名は、ニトロも聞き覚えのあるものだった。自分でも小さく声にして、それが誰の名だったか記憶の中から呼び起こす。
「ああ、彼か」
ニトロの記憶の浅い層に、その名を持つ青年の顔はあった。
シェルリントン・タワーに『クラント劇場』を造り、莫大な資金を投じたその傑作を惜しげもなく国に寄贈したレッカード財閥の御曹司だ。
アデムメデス一の――正確に言えば、根本的なところでこの国の所有権を持つロディアーナ王家が比肩するもの無き『資産家』であるのだが――莫大な資産を誇る財閥の末っ子、現当主の五番目の妻との子で、御歳二十八、独身、恋人なし。ミス・アデムメデスにも選ばれた母の美貌を引いた美男子である上、男ばかりの三兄弟の中で最も才覚に恵まれている……と、それだけの条件が揃えば当然マスメディアが放っておくはずもなく、実際、いわゆる『セレブ』と呼ばれる民間人の中では最も露出の多い一人でもある。
最近は
「『南』の事業のことで話し合いか? 王家もひっそり絡んでるんだろ?」
「あら、よく知ってるわね。まだ一般のニュースじゃ全然扱われてないのに」
「芍薬に聞いたんだよ。お前がバカなことを仕掛けそうなあらゆるものに警戒網を敷いてくれてるんだ」
ぶっきら棒に言ったニトロのセリフに、ティディアは何故かため息をついた
「……芍薬ちゃん、仕事熱心ねー。ちぇ、これでダメか」
「ってお前、やっぱり何か企んでやがったのか」
「あわよくば、ね」
ニトロは、色々言いたい気持ちを包んで大きな嘆息をついた。
「――てことは、そのアンセニオン・レッカードを待たせてるのか」
「ええ」
「それならそうと早く言えよ。彼に悪いことをした」
「大丈夫よ。女性のお化粧直しは時間がかかるものだから」
「……ああ。それを口実にしてるから、トイレなのか」
「そ」
ティディアは何も悪びれずに機嫌良く肯定を返してくる。
ニトロは短くため息をつき、
「だからって待たせるのは悪いだろう。もう用件は済んだから、切るぞ」
「だから大丈夫なんだってば。会議が長引くことも考えてちゃんと余裕を持ってスケジュールを組んでいたから別に遅刻しているわけじゃないし、『化粧直し』をしてむしろそれで予定通りなのよ?」
ニトロが切ると言ったところで、若干口を早めてティディアは言った。
どうやら……二週間ぶりの会話をもっと楽しみたいようだが……
「それでも予定を詰められたんだから、早く会って貴重な話し合いの時間を長く取りゃいいだろ。それに、相手が予定より早く来てくれた時は何かと嬉しかったりするもんじゃないか?」
「んー、そうねー。それはそうかもね。彼も、長くいられた方が嬉しいだろうしねー」
どことなく意味深長な言い方をされたが、ニトロはそれを無視することにした。そこに興味を示せば、ティディアは絶対に嬉々として喰らいついてくる。
「なら早く行ってやれ。こっちは言った通りに遅れるから、たっぷりお前を待たせることになるけどな」
「やー、最後の最後に意地悪ねぇ」
「あと弁当もないから、どっかで買ってくかデリバリー頼め」
ティディアの返答は、すぐにはなかった。どうやら息を飲んだらしいことが受話口から伝わってくる。
たっぷり五秒――これまた珍しく思考が停止しているらしいティディアの反応を予測し、電話を少し耳から遠ざけニトロがジュースを飲んでいると、
「ぇええ!?」
悲鳴が、ニトロの鼓膜をつんざいた。
予測はしていたが、思っていた以上のショックを与えたらしいことがその声の大きさから計り知れる。それを意外に思いながらも、ニトロは平然と冷やかに告げた。
「ヴィタさんの分はあるから買わなくていいぞ。美味しいハムをお楽しみにって伝えておいてくれ」
「ちょ、ちょっと! ニトロ意地悪過ぎよそれ!」
「意地悪なもんか当然だ。シゼモでの悪行を思い出せ阿呆」
「返す言葉はない……ッ、ないけど――でも、私すっごく楽しみにしてたのよ? 口をきいてくれなくてもきっとお弁当だけは作ってきてくれるって信じていたのよ!? それだけがここ二週間の心の支えだったのに!」
「ご期待に沿えず大変遺憾に思います」
「遺憾って――結局謝ってないじゃない! 残念なのはこっちよ! ってこれ今日のネタじゃなーい!!」
「じゃ、また後でな」
「待ってニトロ待ってそれならせめてニトロが買ってき――」
ニトロは受話口から飛び出してくる恐ろしく早口なティディアの要求を無視し、無情にも通話を切った。
ささやかながら、胸がすく気分だった。
「かけ直してくるだろうけど」
「拒否シタヨ」
言うより早い対応に携帯電話の画面を見ると、芍薬が得意気に笑っていた。つられてニトロも笑い、ひとしきり満足したところで、彼は息をついた。
「どう思う?」
小声で問うと、芍薬は腕を組んで首を傾げた。
「考エラレルコトハ幾ラデモアルケド……一番可能性ガ高イノハ……」
そこまで言って芍薬は首を振った。やはり、この事態は芍薬に取っても難題であるようだ。
「マダ、ハッキリトハ何モ言エナイ。デモ、主様ニ害ハナイ、ソウ思ッテハイルヨ」
意外な言葉だった。思わず跳ね上げてしまいそうだった声を抑え、努めて小声でニトロは問うた。
「害はない? あいつの仕業だとしても?」
「御意。バカノ仕業ダトシテモ、特ニ問題ハナイト踏ンデル。『周リ』ノ動キヲ見テルト、ドウシテモ主様ニ何カシヨウト考エテイルヨウニハ思エナイカラネ」
「何故?」
「基準ガ、主様ジャナイ」
芍薬は言って、
「全テノ動キノ軸ハ、全テノ注目ハ、ココニアル」
「……なるほど」
確かに、それなら大量にいる相手を『ニトロ・ポルカト』を狙う敵とするのはおかしい。罠の前でうろつく獲物に注目する狩人はいても、獲物そっちのけで罠に注目する狩人はいるはずもない。
「気ニナルノハ、例外ガアルコトナンダケドネ……」
「――カメラ?」
「御意」
芍薬が再び現れ、渋い顔を見せる。
「アレダケ基準ハ主様ナンダ」
「……」
ニトロは伊達メガネのレーダーに映る黒星の方向へ、何気なく顔を向けた。植え込みの奥、木々の隙間に、誰の姿も見えない。うまく隠れられているが……常に、視線は感じている。
ジュースをずずっと吸い、ニトロはうなずいた。
「分かった、そこは気をつけておく。引き続きよろしくね」
「承諾」
力強くうなずいて芍薬の肖像が消え、画面が暗くなる。ニトロは一つ息をつきながら手の内から視線を『ミリー』へと戻し――
「わ!」
そして悲鳴を上げた。
視線の先、テーブルにいるミリーは席を移っていた。今はニトロが座っていた椅子に座り、暇を持て余したのだろうか、その横の椅子に置いてあるショルダーバッグを勝手に漁ったらしいミリーの手にはニトロの『予備の携帯電話』がある。
血相を変え、ニトロは全力で走った。
それは見た目だけは人気メーカーの携帯電話だが、中身は、違う。
あれはハラキリから借りている武器だ。
内蔵された飛び出しナイフは子どもの指など容易く切り落とす。カメラのレンズから照射されるレーザーは低出力なれど肉を焼く。他にも多数ある。どれもこれも使い方を誤ればただでは済まない。
起動には指紋・声紋認証が必要で、一つの機能につき各々最低二重の