芍薬が『姫様』と言ったその瞬間――
 スッ……と、ミリーの目が泳いだ一瞬をニトロは見逃さなかった。
 無関心を装うとして逆に関心大有りだと示してしまうのは、平然と人を騙す姉に比べてとても可愛らしいものだ。ニトロは頬に浮かべてしまいそうな微笑を懸命に噛み殺し、
「ドウスル? 後デ掛ケ直スカイ?」
 当然、電話に出ることは芍薬も解っているだろう。しかし、そこにあえて普通のやり取りを持ってきた意図を汲んで、ニトロもそれに応じた。
「いや、出るよ。
 ミリー、ティディア姫から電話がきたからちょっと席を外すね。一人で大丈夫かな」
 問われたミリーは一度目をニトロに戻し、また視線を逸らすとヴオルタ・オレンジを飲みながらうなずいた。ニトロは、ありがとうと小さく返し、
「じゃあ、ここでゆっくり休んでてね。グィンネーラは好きなだけ食べちゃっていいから」
 ミリーはやはり無関心を装い、まるきり興味がなさそうに緩慢にうなずいた。
 ニトロは内心苦笑しながら携帯電話とヴオルタ・オレンジのコップを持つと席を外し、ケータリングカーからも離れ、木漏れ日を冷たいコンクリートに落とす木立の下で通話を繋げるよう芍薬に言った。
 即座に画面に『音声通話』と表示される。
「ん?」
 てっきり電映話ビデ-フォンだと思っていたニトロは疑問符に喉を鳴らした。つい、ティディアのことだからそこに活き活きと輝く瞳を映し出すと思い込んでいた。顔や仕草を見ながら話したかったから、こちらとしてもその方が都合良かったのだが……
「……もしもし」
 怪訝に感じながら電話を耳に当てニトロが声を送ると、
「ん? って?」
 ティディアからも、怪訝な声が送られてきた。ニトロは正直に答えを返した。
電映話ビデ-フォンでかけてくると思ってたんだ」
「ああ、ちょっと今、はばかりがあってね」
「はばかり?」
 さらに疑念が深まり、ニトロは眉間に皺を刻んだ。
「お前がそんな言葉を知ってるとは思ってなかったな」
「あら、私を侮るなんてニトロらしくないわねー。それに何だかついでに私のことを恥知らずって言ってる気がするんだけど気のせいかしら」
「『ついで』じゃなく主にそう言ってるんだ」
「やー、ちゃあんと恥も知ってるわよ。ただ知った上で無視しているだけよぅ」
「なおさら余計に性質が悪いわ」
「まあ、ニトロが望むんなら映像付きに変えるわよ。別に全景が映りこむわけじゃないしね。もちろんニトロが気にしないなら、だけど」
「……何だよ、含みのある言い方しやがって」
「だって私がいるの、トイレだもの」
 ぷ、と、ニトロは噴いた。
「あ、だからって排泄中じゃないわよ? そんなの恥とか何とか言うよりニトロをどん引きさせちゃうじゃない? ……それとも、私、恥ずかしいけど私ね、もしニトロが望むのなら「おぅし黙れ。それ以上シモに走るんなら今日の『漫才』のツッコミ、全てどぎつく痛くしてやる」
「それは、ちょっと期待しちゃうわねぇ。一生忘れられないくらい痛くしてね?」
 電話口の向こうで、ティディアがことさら楽しそうにしている姿がニトロにはまざまざと見えた。『ミリー』と出会ってからここまでのストレスひっくるめて怒鳴りつけたくもなるが、眉間の皺を指で叩いて何とか気を鎮め、
「って、こんな言い合いをしたいわけじゃなくってだ。――つーか、お前、何かテンション少しおかしくないか?」
「あ、解る?」
 その語尾には含み笑いが重なっていた。
 さすがに馬鹿にされている気になりニトロはとうとう怒鳴ろうとしたが、
「……こんにちは、ニトロ」
 それは、噛み締められた声だった。ティディアが口にしたのは、ともすれば他人行儀にも取れる丁寧な挨拶で――
「電話ありがとう。やっとこうやって話せて、嬉しいわ」
 彼女は胸の奥底から、本心を露にしているようにニトロには感じられた。この通話が電映話ビデ-フォンでなかったことが悔やまれる。デジタル信号の走る管の先、『はばかり』の内にいるティディアは一体どんな表情をしているのだろうか……分からない。
 だが、珍しく真摯な声を聞かせてきたティディアにペースを握られかけているという現状は、ニトロは当惑の一方でしっかりと認識していた。
「それが、狙いだったか?」
 一度冷たいジュースで喉を湿らせ、ニトロはキラキラと光を透く木の葉を見上げて言った。このままあちらのペースに引き込まれては良くないと、一気に本題に入る。
「狙い?」
「ああ。ヴィタさんから聞いてるだろ?」
「迷子を拾ったんでしょ? 何をせずとも自然と溢れ出ているニトロの優しさ、子どもはやっぱり判るのねー」
「バカップルの世迷言みたいなこと言ってるなよ。誤魔化しか?」
 ニトロは語気を固めて、直接的な言葉を続けた。
「お前の仕業なんだろう?」
「あら、何で? こんなことをして、私が何か得する?」
「色々得するな。こうやって、お前は俺と久しぶりに話をしている。一応言っておくけど、『仲直り』した気は俺にはないぞ。もし、子どもを間に挟めばオイシイ思いができる、なんて思ってたら大間違いだ」
「解っているわよぅ。でも、それでも私の『得』にはならないわね」
「そうか?」
「そうよ。そりゃこうやってまたニトロと話せているのは嬉しいわ。けど私はそれだけのために後のリスクを考えないような馬鹿じゃない。もし、子どもを間に挟んでオイシイ思いをしよう、なんて考えてその子をそういう風に仕立てて私が派遣していたらニトロはどうする? ……また、口をきいてくれないでしょう? それも、きっと……ずっと」
「……」
「これでも『リミットライン』は心得ているつもりよ」
「シゼモじゃあんなことをしておいてか?」
「…………返す言葉は、ないわね」
 またも珍しく、萎れた声でティディアは言った。
「ごめんなさい。言えるとしたら、それだけよ」
「……」
 ティディアの声には真心があると――そう思わされる響きがあった。これはあの『クレイジー・プリンセス』が自分にだけ聞かせる声だと、そう錯覚させられそうなほどにひたすら真摯な態度さえ窺えた。
「それは……そうだろうなあ」
 しかし、これまでの相手の所業を思えば、そこに真面目に取り合ってはいられない。ニトロは気のない相槌を返すとジュースを飲み、適度な間を作ってから話を戻した。
「だけど、こっちがお前が派遣したって『証拠』を見つけ出せなければ、お前と口をきかなくなる――なんてことはないんじゃないかな」
「それは私が芍薬ちゃんの実力を見誤っていると期待して、そんなふざけたことを言っているの?」
「……何か……やけに喧嘩腰に言うじゃないか」
「当たり前よ。芍薬ちゃんの力を見誤っている、なんて馬鹿にするにも程がある。心外極まりないわ。なにしろ私、ニトロと結婚した暁には王家のA.I.に迎え入れようと決めているのよ? もちろん常に身の回りにいる『お付き』としてね」
「そりゃ元からいるA.I.達が不満を持つんじゃないか? 王家のA.I.ってことにプライド持ってるだろうに、新参にいきなりそんな重要なポジション取られちまったら」
「大丈夫。芍薬ちゃんはこっちのA.I.に一目置かれているから。歓迎こそされ煙たがられることは絶対にないわ」
「ああ……そうなんだ」
 そう言われると、ティディアの誉め言葉が妙に自分のことのように嬉しい。ニトロは口元を緩ませていたが、はっと我に返り、
「まあ、そう思われているのはマスターとして光栄だけどな、それが実現することこそ絶対にないよ。ていうか、いい加減そこの『リミットライン』こそを心得ろ」
「嫌」
「嫌って、お前な」
 ティディアの即答に『ミリー』の拒絶の様子が重なり、ニトロは思わず苦笑してしまった。目をテーブルに向けると、そのミリーが退屈そうに足をぷらぷらさせながらストローをくわえている。
「……じゃあ、仲直りの件がなかったとしても」
「ええ」
「ドッキリなんかは?」
「やるとしたらもっとスマートにやるわ。それももっと慎重にもっとしつこく作り込むわね」
 言下に力を込めて彼女の阿呆な企画へのこだわりをぶつけられ、ニトロは言葉に詰まった。やるな作り込むなと言うには容易いが、創作態度にツッコミを入れるのにそんな言葉は何か違う気がする。
 というか、思いっきり本題からずれる。
「それなら……例えば……俺のイメージアップ大作戦、とかいうのはどうだ?」
 ニトロは悪い癖が首をもたげた心を鎮め、適当に思いついたアイディアをそのまま口にしてみた。
 ここまででティディアの『意図』を掴めるような情報はない。いや、むしろ、この『ミリーの件』は彼女とは無関係だと思わされるものばかりが集まっているようにも思える。とにかく、もっと『反応』を集めたい。
「お前に取っちゃ『得』だろ? 恋人が善人であればあるほど、外からのプレッシャーはどんどん良くなる」
「そうねー。それはいい手かもねー」
「……いい手かもねー、か。
 軽いな、どうも」
「そりゃあねー。だってニトロのイメージを良くするのに、そんな面倒なことしなくてもいいもの」
「どういうことだ?」
「『ニトロ・ポルカト』は、今となっては『クレイジー・プリンセス』の隣にいるだけでイメージが良くなるのよ。ほら、汚い布の横に綺麗な布があったら、それってより綺麗に見えるじゃない」
「相対的に、ってか。つか、お前自分のことをよくも爽やかに汚い布呼ばわりできるな」
「だから私は『はばかり』を知っているって言ったじゃない」
 さらりと言い切るティディアは実に清々しい。
 ニトロは――本当に――思わず笑ってしまった。いや、もう笑うしかなかった。
 受話口から、ニトロの笑い声を聞いて嬉しくなったのだろう、ティディアの揺れる吐息が聞こえてくる。
(参ったな)
 ニトロは、悔しかった。
 何を言いながらも、喧嘩腰の調子の時でさえもティディアの声には終始機嫌の良さが溢れ、そして彼女はそれを隠そうともしていない。実に素直な様子だ。それなのに、嘘をついている気配が微塵も感じられない。
 こっちは彼女からこの件に関する決定的な情報を得ようと思っていたのに……一度はそうなることを避けてペースをこちらで握ろうとしたにも関わらず、いつしか見事にあちらのペースに呑み込まれてしまっていた。
 辛うじて、何とか得られた有意義な情報でありそうなものと言えば、たった一つ――

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