「小学三年生の時。母さんとショッピングモールに行った時、エスカレーターの段に足を引っ掛けて転んでね」
 そう言って、ニトロはミリーに右手を見せた。
「この手を下手に突いちゃって、中指が折れて逆に曲がった」
 ミリーは眉をひそめ、
「いたかった?」
「痛かったよ、すごく。今でも憶えてる。けど……」
 ニトロは口元に小さな笑みを浮かべた。記憶の箱から飛び出してきた過去のシーンが瞼と鼓膜の裏に再生される。
「それより、母さんにツッコミまくったことの方が、よく憶えてるかな」
「……?」
「母さん、俺の曲がっちゃいけない方向90度に曲がった指を見てさ、笑って言ったんだ。あらー、ニトロ凄いわ。そんなに指が曲がるなんてお母さん知らなかった。才能ね、天才よ、将来はそれで食べていけるわ有名人よって。
 もう俺は母さんの素っ頓狂なセリフに頭にきちゃって、心配もしてくれないのかって思うと悲しいやら悔しいやらでさらに頭にきて、怒鳴ったんだ。これは曲がってるんじゃねえ折れてンの! 解るでしょお母さんほら僕の指曲がってるんじゃなくってぽっきり骨がつながってないの、ほらほら振ってみたらもうぷらっぷらじゃアアアしまった痛ああああ!」
 右手を震わせ掲げ、その時の様子を再現しながらニトロは続けた。
「そそそそれにこんなんじゃ食べてなんかいけないよ、世の中そんなに甘くないって僕思うんだ。中指が単に逆に曲がるだけじゃすぐに飽きられてポイだよ!――『そうかしら? お母さんニトロのこと信じてる!』――ありがとうでも世間も見つめて! 大体お母さんだってすぐに飽きるから見てなよほらほラってあやッ痛ッダーター僕のバカァ!!」
 ティディアと関わってから図らずも培われた演技力。ミリーの意識が怪我した膝からこちらに集中したと確信したところでニトロは脱力したように肩を落とし、
「その間ずっとエスカレーターに乗っていたから言い合ってる最中も上の階に運ばれていてね、最後はエスカレーターの終わりでまた足を引っ掛けて母さんと仲良く一緒にすっ転んだ」
「……いたかった?」
「痛くなかったよ。母さんがとっさに俺を抱えて下敷きになってくれたから」
 ニトロはミリーの目から涙が消え去っているのを見て、微笑んだ。
「その後病院に行って……そこで父さんから聞いたんだけど、母さん、俺の折れた指を見たら頭真っ白になっちゃって、どうしていいか分からなくって、だけど俺を不安にさせちゃいけないからってとにかく励まそうとしてたんだってさ」
「……いろいろ、まちがってる」
 思わぬミリーからの『ツッコミ』に、ニトロは口角をニッと大きく引き上げた。しかもその言葉、『漫才』でよく使っている言い回しだ。
「うん、正解」
 ニトロはそっとミリーの頭に手を置いた。
「母さんもまさか指を折った俺にツッコまれるとは思ってなかったらしくて、だから余計にしばらく凹んでた」
 それに、母は何もできなくてごめんねと謝ってもいた。あの時応急処置をしてくれたのは即座に駆けつけてきたショッピングモールの警備アンドロイドだったし、病院への手配をしてくれたのもそこのスタッフだった。
 子どもだった自分はしょげる母に何を言えばいいのか分からず黙ったままだったが……その時から母の思いに抱く感謝こそあれ、恨みの一つも感じたことはない。
「ミリー」
 意図せず胸に込み上げてきた温かな感情に目を細め、ニトロは小さな『仕掛け人』の頭を優しく撫でた。
「もう、大丈夫だね」
 訊ね、手を離すと、ミリーはややあってから小さくうなずいた。
 そして、ニトロを見上げ、じいっと見つめる。
「……何?」
 そういえばミリーとの距離が縮まっている。それどころか頭に触れて撫でる、なんてことさえしていた。ミリーは今も手を伸ばせば届く位置にいて、そこから離れようという素振りもなく、前髪を盾にして窺い見るような眼は相変わらずだが、しかしこれまでになかった視線を向けてきている。
「……ミリー?」
「……」
「…………えっと……?」
「おんぶ」
 手を伸ばして、おもむろにミリーは言った。
 落ち着かない沈黙に当惑していたニトロは仰天し、あまりに想定外な要求に言葉を失った。
 ついさっきまで警戒心全開だった内気な『ミリー』が――おんぶだと?
「ニトロ君、おんぶ」
 確かに『おんぶ』と言っている。
(――ああ。そういやよくおんぶとか抱っことかされてたっけな)
 一時思考が停止していたニトロの脳裡に、過去、『彼』がもっと幼い頃、ティディア姫に抱っこされて公の場に現れる王子の映像が幾つも流れた。何の公務の際だったか歩き疲れて父王に背負われていたこともあったし、何のイベントだったか長時間の抱っこでミリュウ姫が腕をぷるぷるさせていたこともある。最近でも、ミリュウ姫に背負われている姿が流れたはずだ。
 だからといって、あの内気さと人見知りの激しさで有名なパトネト王子が『おんぶ』などと要求してくるものだろうか。こんなにも短時間で、まさか花壇での触れ合いだけで懐かれたというのか。と、思った時、ニトロは閃いた。
 ――そうだ。おんぶといえば、この子の姉を背負って歩いたことがある。彼女が可愛がっている弟にそのことを話聞かせていたのだろう。そしてその姉のことを大好きな弟が、姉と同じ体験をしたいと考えていたとしてもおかしくない。今ならタイミングもいい。『彼』も勢いに乗り、自らが他者との間に作り上げている高い壁も乗り越えられるだろう。
「ニトロ君」
 要求を繰り返すミリーの瞳には、いつの間にか涙が滲んでいた。
 ニトロがどう応えるか思案していたほんの数秒すら、『ミリー』に取っては我慢できないものであるらしい。僅かな間とて己の望みが聞き入れられていない現実への拒絶が今にも溢れ出しそうだ。
 それを見て、ニトロはしみじみと思った。
(結構、甘やかされてんのかな……)
 あのティディアが不必要に甘やかすとは考えられない。あいつは弟の人見知りをどうにかしたいとも言っていた。だが、では他の周囲の者はどうだろう。
「ね、おんぶ」
 ニトロは、決めた。
「自分で歩けるよね」
「……いたくて歩けない」
「嘘は駄目だよ」
 即、ニトロが強固な意思を口に出すと、どれだけ頼んでも無駄だと賢明に悟ったのだろう、ミリーは口を尖らせて腕をおろした。うつむいた頬は膨れている。
 ニトロは構わず脇に置きっぱなしだったショッピングバッグを持ち上げ、
「――ほら」
 そして、空いている右手を差し出した。
 ミリーは一度不機嫌そうに顔を背けたが、ニトロがいつまでも手を引っ込めずにいると……やがて、根負けしたようにおずおずとその手にまだ小さな手を乗せた。
「それで、お母さんはどっちにいると思う?」
 手を握ってきたミリーの手を握り返し、ニトロは訊いた。
「……あっち」
 ミリーが指差したのは、先ほど向かおうとしていた別の花壇だった。ニトロは苦笑うしかなかった。
「花が好き?」
 花壇へ歩き出しながら、ミリーは首を左右に振る。
「じゃあ、何で?」
「……聞いてたとおりだった」
「何を?」
「ニトロ君……お花のことよく知ってるって」
「知ってるって言っても、ちょっとだけだよ」
「でも、知ってた。ホントだった」
 その声には、これまでにない力強さがあった。
 きっと、ティディアが、『未来のお兄さん』は母の趣味に付き合わされている内に人並み以上に園芸植物に詳しくなっていると話し聞かせていたのだろう。あの花の名を答えていた時の目の輝き――奇妙に感じていたそれも、今なら『大好きな姉の言葉』が正しかったことを実際に体感した感動だったのだと理解できる。
「――」
 そこで、ニトロは思いついた。
「俺が花のこと知ってるって、どこで聞いたの?」
 子ども相手に気が引けるが、カマをかけてみる。
「…………インターネット」
 しかしミリーはニトロの期待に反して別の情報源を口にした。
 確かに、以前、ティディアがマスメディアに『恋人との近況』を語った際、ニトロ・ポルカトが園芸に多少の造詣を持っていると軽く触れたことがある。そのアーカイブはネット上にあるし、散らばってもいる。
 この答えが『彼』が機転を利かせたためのものか、それとも本当にそこから得た情報だったのかは判らないが……まあ、どちらでもいい。後者であればただそれだけのこと。前者であれば、この程度の小手先の技で『彼』は引っかからないと確認できたのだから上等だ。後は芍薬がこの情報を有効に活用してくれるだろう。
 ――それに、
(うん、俺も気になってた)
 それよりも、ミリーとの会話が一段落したところで芍薬がレーダーに示してきた変化の方が重要だとニトロは思っていた。
 今や車の青点以外は真っ赤となった二十数個の赤い印の中、一つだけ赤・黄と点滅を始めたものがある。
 それは、元々『赤』と断定されていた三つの内の一つで、カメラを所持していると伝えられていたものだった。こちらからある程度離れつつ一定の距離を保ち追跡してくる、何度かその方角に目をやり視認しようとしたが巧みに障害物を利用しはっきりとは姿を見せない相手。
 ……ミリーが転んだ時。
 他の全てが動揺を見せたその一瞬――
 それだけは、不自然なほど動きがなかった。
 まるで子ども一人転んだくらいが何だと言うように、微動だにしなかった。
 何が起こっても撮影に徹するプロの矜持と言われればそれまでだが、それにしては違和感がある。ニトロはそう感じたし、芍薬もそう思ったようだった。
(さてさて、本当に何だろうな。この状況)
 未だ、それを解き明かすに足る情報はない。
(ティディアの電話もおせえしなぁ)
 何だかここまでくると、諦観の故か、余裕を持つことを腹に決めたためか、それともやけっぱちか、おかしなことに愉快な気分になってくる。
「あ、ちょうちょ」
 ミリーが言った。
 見ると比較的大きな蝶が一匹、ひらりふわりと優雅に舞っている。
 視線を感じて目を落とすと、ミリーが答えを求める眼を向けてきていた。
「あれは、アデムメデスアゲハチョウ。
 ここらへんのは背中がティディア姫の髪と同じ色をしているよ」

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