「あれ?」
何気なく振り返ると、ミリーがいなくなっていた。
慌てて周囲を見渡すと……いた。
ミリーは左方にある大きな花壇に向かっていた。
膝を包み込むように脚に当たるスカートを気にしているのだろうか、少したどたどしい早足でそこへと向かうその背姿に、何か興味を引かれたらしい様がありありと表れている。
ニトロはミリーを追った。
七歳――あくまで『ミリー』がパトネト王子だったとして――同年代の中でも小さい『彼』の足を追いかけるのにニトロが走る必要はなかった。相手がひらひら動くスカートの裾にやりにくそうにしていることもある。歩幅をやや広げるくらいの並足で、花壇の前にしゃがみ込んだ小さな『仕掛け人』を待たせることなくすぐに追いつく。
「どうかした?」
ニトロが訊くと、ミリーはしゃがんだまま隣に立つ彼を見上げ、
「これ……」
ミリーの人差し指が示したのは、糸状の葉を編み合わせるようにしてふっくらと、少しひしゃげた球状に茂らせているものだった。大きさはグレープフルーツほど。さながら目の粗い鳥の巣のようでもある。花壇の一画に整然と並ぶそれらの内部では、葉と葉の隙間を縫って小さな花がいくつも開いていた。
「何?」
問われてニトロは、即答した。
「カバードエモニフラワー。お店では『
誰もが知る――というわけではないが、わりとメジャーな品種だ。一年草で、何度か母が育てていたことがある。
「面白いことに同じ株の中で色んな色の花が咲いてね、赤や青や白や黄色、その上同じ色のものでも一つ一つ薄かったり濃かったりするんだ」
「……ホントだ」
「まだ咲き始めみたいだからあまり分からないけど、もう少ししたらもっとたくさん花が開いて綺麗なモザイク模様を見せてくれるよ」
そこまで言って、ニトロは、思わずぎょっとした。
こちらを見上げるミリーの瞳が奇妙なほどに輝いている。
ニトロはこれまで内気を源にした無愛想な表情しか見ていなかったから、突然、そう、歳相応の子ども特有の輝きを見せられて驚いてしまった。
「……これは?」
ミリーが次に指差したのはカバードエモニフラワーの隣の区画に植えられている花だった。日に透ける薄い花弁を濃いオレンジ色に染め、花開く形は椀型、鮮やかで、華やか。これはメジャーな品種だ。
「リトルポピー」
「……あれは?」
さらに隣のものをミリーが差す。
「ペチュニア」
「こっちのは?」
「アジサイソウ」
「まん中の」
「四季咲きレンゲ」
「あ、ちょうちょ」
「んー、ルリシジミか」
「それじゃ、それじゃあね、ニトロ君」
矢継ぎ早に答えを返されて、ミリーは少し興奮したように立ち上がり、別の花壇へ向けて走り出した。
「あ」
それを見てニトロはうめいた。さっき、ミリーは早足程度でもスカートを気にして脚をもたつかせていたのだ。しかもその走るフォームには明らかに体躯を扱い切れていない不器用さがある。
「危ないよ!」
と、ニトロが言ったか言わぬかの刹那、ドダッと鈍い音を立ててミリーが膝から腹這いに転倒した。
瞬間的に、『レーダー』に散らばる赤と黄の無数の点がほぼ一斉に
<本物、だね>
レーダーの下に芍薬のメッセージが流れる。ニトロも同意見だった。論理的な思考だけでなく、非論理的な直感もそう断定している。ここにいる『ミリー』は、英知を注ぎ精巧に造られたアンドロイドなどではない。間違いなくパトネト本人だ。
一つの結論を出しながら、しかしニトロは一瞬も躊躇することなく、コンクリートの硬い地面にうつ伏せ四肢を投げ出したままのミリーに駆け寄っていた。
「大丈夫?」
レアフードマーケットのバッグを置きながら屈みこみ、ニトロが声をかけたと同時――がばっとミリーが勢いよく立ち上がった。
その顔は硬直し、大きく見開かれた双眸の中で青い瞳だけがぽかんと力を失っている。
まるで一体自分の身に何が起こったのかよく分かっていないような様子だった。目をぱちくりと閉じ開いて、慌てたように一度きょろきょろと周囲を見渡したかと思うと、傍で屈んで自分を見ているニトロに目線を落とす。
激しく狼狽し、ともすればひきつけを起こしそうなほど気を動転させているようにも思えた。
(……まさか)
本当に……自分の身に何が起こったのか理解できていないのだろうか。
思えば、あるいは、彼は生まれて初めて転んだのかもしれない。いや、物心ついてからだろうか――ああ、いやいや、そんなことはどちらでもいい。だが、これまで彼の周囲には常にその身を守るものが大勢あっただろう。加えて内気で閉じこもりがちな性格だ。活動的でもない。王子の走る姿が映った映像は、少なくともニトロの記憶の中には一つもなかった。
実際、ここまで派手に転倒したことがないとしても不思議はないことだ。
「――大丈夫?」
ニトロがもう一度問うと、ミリーははっとして顔をしかめた。ようやく自分が転んだことを理解したようだ。ミリーは両手の平を見、それから、
「いたい……」
「手をすりむいた?」
ミリーは首を振った。手は大丈夫なようだ。
「どこが痛い?」
ミリーは涙ぐみ、ぐっとスカートを握るとそれを軽く持ち上げた。裾が腿まで上がり、生地に隠されていた膝が露になる。
少し、左膝を擦りむいている――が、その程度だった。
子供服の生地は転倒時に衝撃を幾分和らげ擦り傷を負わないように加工されているものが多く、このワンピースに使われているものは中でもかなりの高級・高性能品であるらしい。受身も何もなく膝を打ったのに傷は極浅く、血は少量滲み出るのみだ。周囲の赤らみ方も薄く打ち身の程度も軽い。
このまま放っておいてもいい軽傷……ではあるものの、自分でも膝を見たミリーがさっと青褪めたのを見て、ニトロはショルダーバッグに手を突っ込みながら言った。
「ちょっと沁みるよ」
バッグの内ポケットから手の平サイズの救急箱――もちろん何らかのトラブルに巻き込まれた時のための備えだ――を取り出し、小指サイズのスプレーをミリーの傷に吹きかける。消毒と血止め、痛み止め、それに傷の治りを早める成分の入った薬だ。宣告されていた通りに沁みたのだろうミリーが小さく短いうめきを上げた。それと時を同じくしてたちまち血が止まり、気のせいか、既に薄皮が傷を隠し始めたようにも見える。
ニトロは次にガーゼを取り出すと余分な薬を拭き取り、最後に手際よく傷を絆創膏で保護した。
「はい、終わり。もう大丈夫だよ」
「骨は、折れてない?」
スプレーを収めた救急箱をバッグの所定の位置にしまっていたニトロは、その質問に思わず笑った。
「折れてないよ」
随分大袈裟だなと思いながらバッグから目をミリーに戻すと、そこには目に涙を一杯にためて怯えている子どもの顔があった。
「……」
ニトロは、頬に浮かべていた笑みを消した。そして失敗したと反省する。
こちらに取っては大袈裟な物言いでも、あちらにとっては『真剣』なのだ。
笑っては失礼だし、それでは不安を消してやることもできないだろう。
「うん。折れてない」
真っ直ぐミリーの瞳を見据えて、ニトロは言った。
「本当?」
「本当だよ。骨が折れたらもっと痛くて立ってもいられない」
「……折ったこと、あるの?」
「あるよ。膝、じゃないけどね」
ニトロは立ち上がった。今にも涙をこぼしそうだったミリーの顔が上向き、涙の代わりに問いがこぼれる。
「いつ?」