思っていたよりも、事態は遅々として進まなかった。
いるかどうかも分からない『ミリー』の母親を当てもなく探し歩き、あっちだかやっぱりこっちだかはっきりしない方向指示に従い続け、ニトロはいい加減精神的な疲労を感じ始めていた。
土曜日――週末のドロシーズサークルは当然のように人出がある。地下鉄やバス等の交通が充実しているため『公園』とされている各種施設間区域までごった返してはいないが、それでも人の往来は少なくない。
常に、人とすれ違う度に自分が『ニトロ・ポルカト』であることに――同時に、三十分経っても未だ距離を置いて歩くミリーが、それも人目を思いっきり集めてくれる可愛らしい『ミリー』が『パトネト王子』であることに気づかれやしないかと緊張が続いている。
一度はミリーに名を呼ばれたちょうどその時にすれ違おうとしていた初老の夫婦と気忙しそうな中年の男性にマジマジと見られ、怪訝な顔をされ、いつ声をかけられてしまうかと気が気ではなかった。やり過ごすことができたのは、幸運以外の何でもないと思う。
さらに並行して複数の方向へ警戒も続けているのだ。そりゃあ嫌気も差してくるし、むしろそうでない方がおかしいってものだろう。
なおかつ即座に返って来ると思っていたティディアからの電話も未だ無いときた。
「お母さん、いた?」
「……いない」
右に三歩、後ろに一歩。
常にその距離を保ち明らかな警戒心を解かずについてくるミリーは、振り向いたニトロの問いに首を横に振った。
「そっか」
もう何度目かの変化のない質疑応答を繰り返したニトロの視界には、とぼとぼとついてくるミリーの頭上に芍薬の時計型レーダーが薄くある。伊達メガネのレンズ・モニターは芍薬の
そして、そのレーダーには、今や車の青点が星空に輝く月のごとく異彩を放って見えるほど、黄と赤色の点が多く表示されていた。
母親を探し始めてから三分と経たずに
遠間にいる赤点はカメラを構えていると、付随情報として芍薬はそう伝えてきた。
また、三つの赤点が一定の距離を保って常についてくる一方で、多数の黄点は時折消えては現れを繰り返している。
おそらく近い赤の二人は『ミリー』のボディガード、遠い赤は直属のカメラマンか。
活発に動く黄色達は、おそらく、存在をこちらに気づかれないよう尾行のセオリー通りに人員交代を繰り返している――時折点が消えるのはそのためだろう――スタッフの皆様。
やはり、この『迷子』は仕組まれたことであると確定して良さそうだ。
だが、とすると――ふとニトロは、この件にはティディアが仕掛けてきたにしては変なところが多いな、と、そう感じていた。
どれもこれも、通じてどこか甘い。
阿呆なことをする時は前面に出たがる――というかほぼ確実に矢面に立ってくるバカも近場にいないし、何よりカメラの存在を隠さずにきたことはおかし過ぎる。
芍薬がセキュリティシステムを利用してこちらの周囲にいる人間を目視確認することぐらい考えずとも理解しているだろうに、ティディアがあえて記録していますよと記録者の存在を報せてきた意味は、何だ?
(……『ドッキリ』か? ひょっとして)
考えられる。
もしミリーが『パトネト王子』だとこちらが気づいていなければバラシの時に反応を楽しむだろうし、『彼』の正体に気づけと言わんばかりのなめた変装レベルを考慮すれば、それともこちらがパトネトだと気づいていながら『ミリー』に対してどういう対応をするのかを楽しむつもりなのかもしれない。
加えてあいつは以前から弟と会わせたいと口にしていたから、これはそれを叶える一石二鳥の機会でもあろう。『パトネト王子』が変装――女装しているのは、あるいはそうやってミリーという別人になりきることで、姉が傍にいなくとも他人と接する度胸を生み出させるためのものかもしれない。
もしそうであるならば、『彼』が『ミリー』という名に妙なこだわりを見せたことにも納得がいく。この当て所ない『迷子ごっこ』もティディアが来るまでの時間稼ぎだと仮定すれば、筋を通すに無理はない。
(……――いやいや……)
脳裡に溢れる推測の渦を、しかしニトロは小さなため息と共に打ち消した。
ドッキリ説も、ミリーと出会った時に思い描いた可能性も全てまとめて思考の棚の最下段へと押し込む。
(いくら考えても、仕方がない)
推測に推測を重ねても、あのバカが作り出す選択肢は無限とも思える『悪夢』だ。そして推測に推測を重ねても、その労力が一気に徒労と変わることも少なくない。
それは、つい二週間前にもシゼモで痛烈に実感させられたこと。
不可解な行動を取るティディアに対し、考えに考えた行動予測は彼女の意外な想いに裏切られ、かと思えば日も変わらぬ内にもう一度最悪な方向へ裏切られた。
そしてまた、目の前には不可解な事案がぶら下がっている……
(……何だか、馬鹿らしくなってきたな)
ニトロは精神的な疲労がことさら重くのしかかってきたように感じ、うんざりと思った。
まるで居もしない敵を自ら創り上げ、誰も彼も彼女も何も存在しない空間に向かってあれこれ喚いているような気にもなってくる。そんなことをしていても、虚しく疑心暗鬼に内から食い尽くされていくだけのことなのに。
(――うん、やっぱり馬鹿らしい)
先日ハラキリと話している時、彼が、ふいに思い出したようにシゼモでの失敗について忠告しておかねばならないことがあったと、こんなことを言ってきた――「お
現状分析、あのバカの仕掛けてきそうな可能性の吟味は、今も芍薬が的確に行ってくれている。もちろん、だからといって芍薬に任せ切りにせず、自分でも考えることは悪くない。止めるべきことでもない。経験・知識、以前とは比べ物にならない力でより多くのことを考えられるようになった。頭をよぎる
だが、自分は今、そこにあるべき加減を見誤りつつあるのではないか? パートナーに任せ切るべき領分にまで踏み込みかけてはいないだろうか。ひょっとしたら芍薬の強力なサポートをないがしろにしていて、だから戦う前から精神的に疲労し続けて……
それは、得策ではない。愚かなことだ。いや、それどころか芍薬に対する重大な背信行為でもあろう。
(最近の悪い癖だな。ハラキリの言う通りだ。こんなんじゃ、いつか『考え過ぎ』で独り勝手に動けなくなる)
そう、自分がすべきことは、そんなことではない。
すべきは、どんな事態の急変にも対応できるよう余裕を持って心構えつつ、目の前のことに適切に対処していき、いざ『本命』が襲い掛かってきた時にはそれに全力で打ち克つことだ。
初心でありあるいは究極でもあるそれを果たしてこそ、芍薬の期待にも応えられるマスターというものだろう。
(反省反省)
自省と共にニトロが改めて思い新たにした、その時――