「いいよ」
 ニトロが受け入れると、ほっと『彼』の顔から幾ばくかの緊張が消えた。ひとまずのミッションをクリアした安堵と、嬉しさが垣間見える。
 その僅かな表情の変化はやけに人間臭く、『彼』がアンドロイドのようにはどうにも思わせないが……
(いや、だからこそアンドロイドか?)
 つい『二択問題』への答えを求めようとしてしまう己の心――その誘惑をあえて逆の可能性をぶつけることで諌めつつ、ニトロは携帯電話のキーを押した。
「あ、だめっ」
 それに気づいた『彼』が顔を青褪めさせて両手を突き出し駆け寄ってくる。その目はニトロの裏切りを責めていた。ニトロが、セキュリティセンターに連絡していると思っているらしい。
「ああ、違うよ」
 ニトロは『彼』の勘違いを察して、穏やかに言った。
「この後人と会う予定があるから、その人に遅れるかもって連絡しておきたいんだ」
「……本当?」
「本当だよ」
「……本当?」
 繰り返された問いにニトロは苦笑した。
「本当だよ。相手は……知ってるかな、ヴィタっていうティディア姫の執事。何なら一緒に電話する?」
 ニトロがそう言うや、『彼』は無言で退いた。ニトロの足でたっぷり五歩は離れ、そこでようやく首を振って否定を返す。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 何だか吹き出してしまいそうなのを堪えて言いながら、ニトロは手の携帯の画面を一瞥した。ヴィタに連絡を取ろうというのは嘘ではないが、先ほど一番に押したキーは芍薬を呼び出すためのショートカットだ。既に画面には芍薬のデフォルメ肖像シェイプが映っていて、そのユカタの袖をまくり腕組みをした様からは凛とした勇ましさが感じられる。マスターの一瞥に呼応してうなずいたA.I.の周囲にはいくつかのアイコンがあり、そしてそれらの全てが『戦闘準備完了』を報せている。
 頼もしいパートナーが期待通りに何を言わずとも異変を察知し身構えてくれていることを確認したニトロは、ベンチから腰を上げ、話し声が『彼』に聞こえないよう少し離れようと――
「そうだ、まだ名前を聞いていなかったね」
 と、大切なことを忘れていたとニトロが振り向き訊ねると、『彼』はうつむき、ややあってから答えた。
「……ミリー」
「ミリー?」
 こくりと、『ミリー』がうなずく。
 ニトロは微笑み、
「それじゃ、ミリーちゃん」
「ミリー」
 言下に『ミリー』は言った。その声には強い否定の念が濃く塗り込められ、口を尖らせた『ミリー』は明らかに不機嫌な様子で目を背けている。
「あれ? ミリーちゃん?」
「……」
 思わぬ反応に面食らったニトロが声をかけるが、『ミリー』は応答しない。目を背けたまま、スカートを握りこんで沈黙を続けている。唐突な相手の感情の悪化にニトロは困惑するほかなかったが、やおら、もしやと気づいて言い直した。
「えっと……ミリー?」
 すると『ミリー』から不機嫌さが消え、代わって相変わらず自信なさげで上目遣いの瞳がニトロへと戻される。
 ――やはり、ちゃん付けが気に食わなかったらしい。
 訂正を求めてきた反応速度といい妙なところにこだわりがあるなと思うが、まあ特に問題があることではない。ただ、これは『彼』の姉とはまた違った意味で一筋縄ではいかない相手のようだと直感したニトロは一つ息をつき、
「それじゃあ、ここで待っててね」
 返答の代わりにジッと見つめてきた『ミリー』を背後にして、距離を取り、芍薬への接続を保ったままキーを押してモードを電映話ビデ-フォンに合わせると、忌まわしきクレイジー・プリンセスの女執事に呼び出しをかけた。
 三度目のコール音の後、接続がされる。
 画面に現れたヴィタはいつもと変わりない涼しい顔をして、優雅に頭を下げた。
「こんにちは、ニトロ様」
「何か言うことはない?」
 先手必勝、挨拶も前置きすらもなく単刀直入にニトロは問うた。
 さすがに虚を突かれたらしく、ヴィタの前頭部で、神秘的な藍銀あいがね色の髪に隠されたイヌの耳が片方、珍しくも微かに波を打つ。
 それを、ニトロは見逃さなかった。
 ヴィタがティディアの執事に就任してからいかほど経った頃だったか……彼女がイヌ耳を持っていることは、その美しい髪の中に巧みに伏し隠された獣の耳を『発見』したテレビ局の報道で世に周知された。
 だがその発見は、彼女が『発見』以前の普段から本物イヌの耳が目立たぬよう『猿孫人の耳カモフラージュ』を作り出していたために、大きな議論を呼んだ。
 果たして、ティディア姫の麗人は真にイヌ耳を持っているのか・それともクレイジー・プリンセスの遊びで付けさせられているのか――と。
 今日に至ってもその論争に決着はつかず、というか今となってはもはや論争と言うより何だかどっちの方がより面白いかという個々人の趣味暴露合戦の様相を呈し、もちろんその不毛な言い争いをヴィタは彼女の主と共に楽しんでいる。
 それ故に。
 彼女らは論に決着をつける決定的な証拠は公にせず、そのためもあって普段からヴィタがイヌ耳を感情に従わせて動かすことは極めて少ない。
 なのに彼女の耳がそよいだということは……少なくとも、何かしら強い情動が彼女の中にあったということだ。
「ティディア様から、御伝言はお預かりしていません」
 適度な間を置いて、ヴィタは答えた。
 その口調には耳を動かした感情の正体を窺わせる気配はない。電話に出た時と同じく涼やかな声色で、その態度にも不審な点は微塵もない。
 ――が、
(動揺、というより単純に驚いたって感じだったな……)
 ニトロはそう思いつつ、
「それならいいや。ティディアは?」
「現在、会議に出席されています」
 それはニトロも知ることだった。公開されているティディア姫のスケジュールには、この時間は王都の王立施設に関する運営企画会議だと記されていた。
「そっか……」
「何かございましたでしょうか」
 ヴィタが表情を変えずに訊いてくる。ニトロはレンズ越しにヴィタをジッと見つめ、
「アクシデントかもしれないことがあってね。もしかしたら収録に遅れるかもしれないんだ」
「アクシデントかもしれないこと、ですか」
 興味をくすぐられたか、ヴィタの目の色が少し変わる。
「どのようなことでしょう」
「ちょっとね」
 ニトロは姿勢を変え、と同時に、一瞬、己を映すカメラを背後の『ミリー』に向けた。
「迷子に遭遇した」
 カメラの視線を自分に戻し、またレンズ越しにニトロはヴィタをジッと見つめた。
 ヴィタはニトロの『熱視線』を真正面から軽く受け止め、
「その子の携帯端末モバイル、もしくは迷子防止札アンミスカードを使用したらいかがでしょうか」
「それがどっちも忘れたって」
「では、セキュリティセンターへ連絡されたらよろしいでしょう」
 これでも何か言うことはないかと目で問い続けるニトロに、ティディアの執事は素晴らしいポーカーフェイスで応える。
「本人が自分で見つけたいそうでさ、手伝って欲しいって言われたんだ」
「幼いながらの意地、でしょうか」
「解らないでもないけどね。俺もそういうことしたことあるし。まあ、その時は結局親を見つけられなくてセキュリティの世話になったけど……」
 ニトロは思い出話を軽く振りながらヴィタを注視していたが、しかし彼女がやっと見せた変化はその思い出話への相槌一つだけだった。そこでこれ以上詮索したところで得られる情報はないと見切りをつけたニトロは口の片端を引き上げ、
「そういうわけだから、あいつに伝えてくれる? 話したいこともあるから、かけ直すように」
「かしこまりました」
「それじゃ、また後で」
 頭を垂れていたヴィタが顔を上げるのを待ち、ニトロはカメラに向かって一度軽く手を振った。
 ヴィタが澄んだマリンブルーの瞳で目礼を返してくる。
 そしてニトロが通話を切ると画面に芍薬が現れ、その肖像シェイプの横に漫画表現のフキダシを描いて、
承諾
 と、『筆談』で言う。
 事情・状況、諸々を今のヴィタとの一連のやり取りで理解した芍薬の行動は速く、
<車は常に近場に>
 その一言を追って、画面の左上にアナログ表示式の時計が表示された。
 一見何の変哲もない時計だが、よく見ると時計盤の白い地の中にそろそろと動く青い点があった。それは7時の方向から3時の方向へと移動を開始している。盤の中心をこちらの現在地として、この青点は車の位置方向を示しているのだ。正確な距離までは出されていないが、情報としては十分なものだった。
 ニトロは目礼を芍薬に送り――
 ふと、妙な視線を感じて周囲を見渡した。
「…………」
 見渡す限り……視界に入る限り十何人かの人間がいるが……声をかけられる程度の距離には『ミリー』以外に誰もいない。
 見渡す限りは……『ミリー』以外にこちらへ目を向けている者も、誰もいない。
<どうしたんだい?>
「……気のせいか」
 芍薬の問いかけに、ニトロはぽつりと独り言を言った。
 それだけで十分だった。
 マスターの『気がかり』。そして彼が周囲を見渡した様子から芍薬は合理的に結論を下し、
<ちゃんと警戒してるよ>
 芍薬はアデムメデスの最高権力者から公的な警備システムへのフリーアクセス権を与えられている。
<現時点での不審者候補は黄色。確定したら、赤に>
 既にドロシーズサークルのセキュリティへ干渉していた芍薬が表示したセリフを見、アナログ時計型レーダーの盤面に車を表す青点とは別に現れた数個の黄色い点を確認したニトロは、そこで携帯をショルダーバッグの専用ポケットにしまった。
 と、すると、ニトロの視界左隅上の空中に、今まで携帯電話の画面で見ていた映像がうっすらと表示された。
 芍薬が携帯電話のコンピューターとニトロのかける変装用伊達メガネの内蔵コンピューターをリンクさせ、モニター機能のあるレンズへ目の邪魔にならない程度に映しこんできたのだ。
(よし)
 これでこちらの体勢はおおよそ整った。
 後は電話をよこしてくるはずのティディアへの詰問と――
「お待たせ」
「……うん」
 目を伏せ小さくうなずく、この限りなくパトネト王子な『ミリー』との一時にどう応対していくか――
(それにしても……嗚呼……親との思い出が強い場所に一人で行くと何か事が起こるってジンクス、こんな突発イベントに対しても適用されるとはなー)
 ――それだけだ。

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