ロディアーナ宮殿、ティディアとミリュウの晩餐から四日後――
 シゼモ出張漫才より、二週間。




 王都外縁のウェジィと接する地区・ラトラダには、その地区面積の十分の一程度を占める広大な敷地にコンベンションセンターや大小様々な多目的複合劇場シアターコンプレックスが集まる場所――通称ドロシーズサークルがある。
 ここの施設全体のスケジュールを見れば、年中一日一分一秒たりとて『何も行われていない』時間はない。
 常にどこかの展示場等施設では何らかのイベントが行われ、常にどこかの劇場では何らかのショーか映画上映が行われている。
 もちろんそれは今日とて例外ではなく、本日の目玉イベントは、フーバーリード・センターで行われている『アデムメデス・レアフードマーケット』だ。
「はぁ」
 雑踏賑わうフーバーリード・センターから出てきたニトロは、最寄駅や駐車場に向かう人の流れ――逆にそれらから向かってくる流れを避けて展示場の裏に回りこみ、ドロシーズサークル内の公園エリアに辿り着いたところで安堵と達成感に満ちたため息をついた。
 ベンチを見つけて腰を下ろし、商品を詰めたレアフードマーケットのロゴ入りショッピングバッグを脇に置き、ショルダーバッグから携帯電話を取り出す。モードを電映話ビデ-フォンとし、
「オ疲レ様」
 すると、モニターに芍薬のデフォルメされた肖像シェイプが現れた。二頭身化されながらも勝気な性格をうかがわせるA.I.は、携帯電話のカメラを通してマスターの表情を見るや愛嬌たっぷりの笑みを浮かべた。
「無事ニ買エタミタイダネ」
「うん」
 ニトロは携帯の向きを変え、芍薬にショッピングバッグを見せた。
「父さんに頼まれた金冠鶏きんかんけいの卵、ここに確かに」
 アデムメデス・レアフードマーケットは、その名の通り手に入れにくい食材・食品の即売会だ。希少価値が高く市場に多く出回らない高級品はもちろんのこと、スライレンドの蜂蜜のように『通販もせず、その土地、その場所でしか買えない品』の数々もこのイベントは特別とばかりに一堂に会している。
 主要ニュースでも取り上げられるほど有名なイベントで、当然人出は多い。
 不本意にも全国クラスの――あるいは銀河クラスの――有名人になってからというもの、人込みを意識的にも無意識的にも避けるようになっていたニトロが今日この場に来たのは、ひとえに父の頼みがあったためだった。
 金冠鶏の卵。
 東の大陸の辺境に行かねば手に入れられず、されどそこに行っても必ず手に入れられるとは限らない、金色のトサカを持つ希少な地鶏が産み落とす一つ千リェンの超高級卵。
 味がいいのは当然として、面白いのはその味が料理人の腕によって大きく左右される特性だ。手軽に扱うとむしろ普通の卵の方が美味しく感じられるのに、一流の料理人がそれを用いて作ったオムレツは二度と忘れられない極上の一皿となるという。
 基本『ありものを美味しく』が身上で高級志向ではない父だが、唯一、この卵にだけは目の色が変わることをニトロは幼い頃から知っていた。このレアフードマーケットも前回金冠鶏の卵が出品された五年前に『行列要員』として父に連れられて来たことがあり、結局売り切れ御免のこの市場、寸前で手に入れられず肩を落とした父の背中は今でもよく覚えている。
 そしてまた、父の執心の理由も、ニトロはよく知っていた。
 それはとても単純な理由で、父はただ自分の腕を試したいのだ。高い卵を食べることよりも、現時点の自分の腕がどれほどのものかと。
 正直、それほどの料理への情熱を思えば父がなぜ料理屋をやらずに地方公務員の道を選んだのか首を傾げずにはいられないのだが、母が言うには、その情熱はどうやら『家族に美味しいご飯を食べさせたい』という一心からきているのだそうだ。だから、好きな時に好きなものを作れない『仕事』にするつもりはなかったらしい。
 そう言われれば合点が行くが、まぁしかし五年前、卵を手に入れられなかった父が帰りの電車でぽつりと「母さんに喜んでもらいたかったんだけどな」とつぶやいたことを思えば何より妻に美味しい手料理を食べてもらいたいのだろうし、父の手料理を食べる母は本当に幸せそうな顔をするから、その気持ちも解らなくはない。
 ……だからって、いくらその思いが強くて目の色変えてるからって、ついでにいくら速く手に入れたいからって、先月公式サイトで行われた購入予約抽選会にマーケット開催初日の土曜日(夫婦揃って出勤だったことを見事に忘却)で申し込んだのは父の迂闊以外の何物でもないが。
父様チチサマモ主様ニ泣キツイタ甲斐ガアッタネ」
 携帯の向きをショッピングバッグから戻したニトロに芍薬が笑顔で言う。
「まあね」
 うなずいて、ニトロは口に出すより先に笑いながら、
「待望の――だからね」
「デモ主様、買ウノハ大変ジャナカッタカイ?」
「当選者用のは別に取ってあったから楽に買えたよ。だけど当日販売分は俺が行った時点で売り切れてたから、開場してすぐは凄かったんじゃないかな。予約キャンセル待ちの整理券も配られてたみたいだ」
「アレ? 時間カカッテタカラ、テッキリ並ンデルンダト思ッテタヨ」
「ああ、初めは面倒なことになったら嫌だから早く出ようと思ってたけど……何だか楽しくなっちゃってね。来て良かったよ。色々試食させてもらえたし、予定にないものも色々買っちゃった」
「ソウカイ、ソリャ良カッタ」
 芍薬の笑顔の周りに、それを強調するキラキラとしたアニメーションが加わる。マスターの喜びを我がことのように喜んでいる様子だった。
「ソレデ、コレカラドウスルンダイ? モウTV局ニ行クナラ車ヲ回スヨ。ソレトモ、一度帰ルカイ? オ弁当ノコトモアルシ」
「ん、そうだな……」
 言われたニトロは急に夢から現実に引き戻されたような感覚を味わい、僅かに気を落とした。
 今日は、『漫才』の収録日。
 この後あのバカと直接顔を合わせねばならないのかと思い出すと、つられて二週間前のシゼモでの一件も思い出し、ぐらぐらと煮え湯が腹に戻ってくる。
「局には、ぎりぎりで行くよ。弁当はいいや。あいつに作ってやる気はないから」
「御意」
「ヴィタさんには悪いけど――」
 ニトロはショッピングバッグを一瞥した。
「そうだ、ちょうどハムを買ってあるから、ヴィタさんには途中でパンでも買っていってサンドイッチを作ればいいかな」
「御意。ソレデイイト思ウヨ。上手クイケババカガ羨マシガッテ主従デ問答シテクレルカモシレナイ」
「ああ、そうなりゃこっちは楽だなー」
「ソレジャア、時間マデドライブデモスルカイ?」
「いや、折角だからここで遊んでいくよ。時間を潰すには最高なところだから」
「承諾。適当ニリストヲ作ッテ送ルネ」
「うん。よろしく」
 ニトロがうなずくと画面上の芍薬がユカタの袖から何やら取り出す素振りを見せ、すると芍薬の動きに合わせるように、十秒も経たないうちに携帯にデータが送られてきた。
 芍薬の肖像が消えると入れ換えにデータファイルが開かれ、現在ドロシーズサークルで行われている演目が劇や映画等カテゴリ別に分けられて表示される。試しに映画を選択してみると、公開中の作品群がさらに分かりやすくジャンル別に整理されて示された。
 素晴らしく速く、しかも丁寧な仕事だ。
「ありがとう」
 ニトロが礼を言うと再び画面に芍薬が映り、そのポニーテールが嬉しそうに左右に揺れる。
「楽シンデキテネ」
「うん」
 ちょこんと座った芍薬が手をついてぺこりと頭を下げる。同時に通信が切れ、画面は再度芍薬の作ったリストを映し出した。
「さて、と」
 どれに行こうかなと、ニトロはリストに目を落としながら思った。
 ここの通称、『ドロシーズサークル』の由来となったドロシーズ劇場ハウスに行ってみようか。大昔、資産家ドロシー・メリジズが自ら見出した有能な俳優・女優を育てるために作った劇場は、今でも無名の役者や劇団のために門戸を開き賑わっている。
 それとも同じくドロシー・メリジズが晩年作った映画館に行こうか。彼女がパトロンとなってくれたお陰で世に出ることができた三人の監督の、古典となったフィルムを昔の上映方法を再現した銀幕スクリーンで観てみるのもいいだろう。
 もちろん他のシアターコンプレックスへ行けば最新の映画や劇もやっている。
 前衛的過ぎるショーを観て、作品世界に全くついていけなくて唖然とするのもいい経験になるかもしれない。ロングランヒットを飛ばす作品でエンターテインメントを存分に味わうのも当然良い。一人芝居やコメディショー、コンサートにライブにマジックショー、大道芸やストリートパフォーマンスもある。
 その上さらに様々な展示会にイベントもあるのだからあまりに選択肢が多すぎて、あれこれ迷っている間に一日が終わってしまいそうだ。
(しかしそれではもったいない、と)
 ニトロはとりあえず人目を気にせずゆっくり楽しめるものにしようと狙いを映画に絞り、ドロシーズサークルまで来てどこででも観られる商業作品を選ぶのは興がない、評判の良いインディーズ作品でも観ようと携帯を操作し――
「ニトロ・ポルカト」
 ふいに声をかけられ、驚きニトロは顔を振り上げた。
 そのニトロの反応に声をかけた主も驚いたらしく、小さな体をびくりと震わせ一歩身を引く。
「………………ニトロ君」
 やや間を置いて、その子は精一杯の勇気を振り絞るかのように、か細くまたニトロの名を口にした。
 ニトロは、未だまともな反応を返せずにいた。
 ――自分は、変装をしている。
 瞳はカラーコンタクトレンズで明るい鳶色に変え、そこに暗い臙脂色のフレームの眼鏡をかけている。型を変えた髪には軽く茶色を乗せ、服装はジーンズに落ち着いた風合いのシャツだ。
 全体的なイメージとしては大人しめの文系大学生といったところか。大した変装ではないものの、とはいえクレイジー・プリンセスをドツキ回し、スライレンドで魔女から人々を守った『ニトロ・ポルカト』の最も流布している強力なイメージからは離れている。少なくとも――人の多さが逆に幸いしてもいたこともあるだろうが――レアフードマーケットの会場で、何百何十と並ぶ店舗の間にごった返す客達には気づかれなかった。
 加えて、今の今まで手中の携帯電話を見ていて、外から見れば大きくうつむいた格好だ。顔は下から覗きこみでもしなければよくよく観ることはできない。まさか体格で正体を見破ったなどということはないだろう。それなのに――
「……ニトロ君……」
 何だか泣きそうな様子で、ニトロの目前に立つ子はそれだけを繰り返した。レースのフリルで飾られたスカートを握る両手は小さく震えている。
「……」
 ニトロは、小さく息をついた。
 ある懸念が物凄い勢いで脳裡に溢れ出しているが、とにかくまずやらねばならないことがあるらしい。
「どうかしたの?」
 微笑み優しくニトロが問いかけると、伏し目がちに彼を見つめていたその女の子はホッとしたように言った。
「迷子に、なっちゃったの」

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