「ただ、前にも言ったけどハロウヅ領主にだけは決して心許さないように。あれは人道派の人格者ぶっているだけの、油断ならない毒狸だから」
「はい。しっかりと心得ています」
「それならいいけど……」
ティディアはワインを口にした。料理長とソムリエが吟味に吟味を重ねた様子が目に浮かぶほど、肉料理と酒がお互いを引き立て合う。
彼女は一息の間にだけある極上の味わいを楽しんだ後、一つ、決めた。
「ちょうどいい機会だし、もう、教えておいてもいいわね」
「何でしょうか」
「ハロウヅ領領主ミダ・ヒューゼ・ハロウヅ、彼には隠し子がいる」
ふいにティディアが明かした情報の重大さにミリュウの眉がピクリと跳ねた。彼女は姉の所作を追うように動かしていた食事の手を止め、ノンアルコールワインのグラスを置くと、居住まいを正して姉と視線を合わせた。
「当然、認知はしていない。
引き取り手がなかった娘は、今はカァロ領内の町で元気にやっている。居場所は私と『犬』……ああ、前の執事のことよ? それと、執務室副室長が知っているから」
姉の言外の意図も把握し、真剣な表情でミリュウはうなずく。
「『猛毒』として憶えておきなさい。そしてもし使う時は、娘を前もってこちら側に引き込んでおくこと。善後策としても、ね」
「はい」
ミリュウの素直な返答を聞きながらティディアは、ふと、
――「猛毒ってお前、何だか色々あくどすぎやしないかな」
ニトロがここにいたら、そう言って非難の眼差しを向けてくるだろうと思った。
(――あくどくても何でも有効な手段は取るわ。政治は清濁併せ持つものだもの)
――「その場合はむしろ権力闘争だろ。大義立てるために政治なんて大枠に落とし込むなよ。ってか、そもそも人としてだな、」
(あら、ニトロはハラキリ君に習っていない? 『汚い手』って他人や社会が作った常識が決定することで、純粋な闘争には本来クリーンもダーティもないって。目潰しとか噛み付きとか、世間じゃ卑怯って言われる戦い方もハラキリ君なら教えていると思ってたけど?)
そう言ったら、ニトロはどういうツッコミを返してくるだろう。きっと反論はしてくる。しかもこちらの理屈を飲み込んだ上で、そのくせわりと痛いところを突く一撃をもってツッコンでくる。それだけは確かだ。ただ、それがどういう方向から飛んでくるかは想像つかないが……
――「……少なくとも、メシ時に話すようなこっちゃないだろ。不味くなる」
だが、最後には、そう言って場を取り成してくるだろう。
もちろんそれに異論はない。
テーブルを挟んだ先のミリュウは苦渋い虫を噛み潰したような深刻な顔で、心身を固めている。
「……」
そこまで思考を巡らせたところで、ティディアはまた内心苦笑した。
これは何らかの禁断症状だろうか。まさか脳裏にニトロの声が自動再生され、その上それと何の疑問もなくシミュレーションしてしまうとは。
(これは重症ねー)
ティディアは自嘲を溶かし込んだ息を小さく吐くと、
「ごめんね、折角の料理が美味しくなくなっちゃう話だった」
「いえ!」
ティディアにごめんと言われてミリュウは慌てて首を振った。背中まで伸びるストレートロング、よく手入れされた黒紫色の髪がはらはらと踊る。
「そ、そういえば『ラクティフローラ』のイメージキャラクターの件には目を通していただけたでしょうか」
姉に謝られたことそれだけで明らかに動揺し、ともすれば目を回して椅子ごとひっくり返りそうな勢いでミリュウは言う。
耳まで赤らめている妹が可愛くて、ティディアはもう少しその姿を見ていたくもあったが……話を変えるのは自分の意図にも沿うかと、ミリュウの振った話題に乗った。
「見たわ」
「どう……でしたか?」
王家が経営するファッションブランド――その意匠は
ティディアはこの新ブランドを、ゆくゆくは王家が携わる会社のいくつかで会長(事実上の最高経営責任者)に着くことが定められているミリュウの手習いの場としても考え、信頼できる優秀なスタッフを集めた後は運営のほとんどを彼女に任せていた。
現状、ティディアは妹の働きに満足をしている。
ミリュウは懸命に学び、スタッフが実力を発揮できるよう心を砕き、こちらの出す合格ライン最低限に至るまでには成果を出してきた。中でも、モデルの選定では、特に良い成果を。
ティディアは答えを待つミリュウに極上の笑みを見せ、
「いいモデルを選んだわね。それにお姉ちゃん、びっくりしちゃった。ミリュウにしては大胆な決断をしたなって」
てっきり既に名の売れたトップランクのモデルやプロダクションが売り込んできたモデルを挙げてくると思っていたが、意外やミリュウは地方雑誌で一・二度仕事をしたくらいの新人を抜擢してきた。
それが、思い描く『ラクティフローラ』のイメージによくよく合っていたから堪らない。相手が誰であれその者の成長に触れることを楽しみに持つティディアは身悶えするほど激しく心をくすぐられたものだ。
辛辣な――『劣り姫』という世間の評価。
それははまんざら揶揄のみでできたものではなく、確かに、妹には特に秀でた才能はなく、数値化できる力はことごとく地味で凡庸だ。それは姉である自分も認めるところであるし、ミリュウ本人も自覚している。
だが、それでも妹は腐ることなく、けして高くない土台の上に彼女なりに王女として必要な能力を育んできた。加えて生来の健やかさもある。このまま教育を間違えなければ、上の兄姉のような無能にはならず、上限下限の程度の差はあれ思い描く『ミリュウ姫』になってくれるだろう。
「これといったキャリアはないけど下地は抜群。これからはアデムメデスを代表するモデルになっていくでしょうね。そういった意味でも、アイラ・リュート、私も彼女は『ラクティフローラ』に相応しいと思う。
ミリュウ、よく引き上げてきたわ。お手柄よ」
「そんな……」
存外にティディアから誉められ、ミリュウはうつむき目を背けた。それは照れているというよりも、むしろ崇拝の対象から与えられた大きすぎる言葉を真正面からは受け切れないでいる信者の様子に近い。
「わたしはただ……お姉様に倣っただけです」
消え入るような声でミリュウは言った。
「そう」
ティディアは妹の昔から変わらない態度にフフと吐息をこぼし、
「嬉しいわ」
ミリュウは目を上げ、その拍子にティディアとばちりと視線をぶつけた。姉にじっと見つめられていたことに気づくや途端に噴き上げてきた気恥ずかしさを誤魔化すよう動きも大袈裟にフィレ肉を大きめに切り、それを勢いよく頬張る。
素晴らしい味に――あるいは姉に誉められた喜びを噛み締め――頬をほころばせるミリュウをティディアがにこやかに眺めていると、ふと、次第に、ミリュウの表情に変化が表れた。目と眉の間に影が落ち、緩んでいた頬は料理を飲み込んでいくにつれて引き締まっていく。
「……お姉様」
「何?」
「もう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
ティディアはうなずいた。今やこれまでにない深刻さを見せる妹を訝しみ、何かおかしなことでも言ったかなと記憶を手繰りながら耳を傾ける。
ミリュウはナイフとフォークを握り締めたまま深呼吸をし、
「ポルカト様のことなのですが……」
先を促すティディアの目を受け、ミリュウは意を決して問うた。
「彼は――ニトロ・ポルカトは、本当に、お姉様に相応しい方なのでしょうか」
(ああ)
『相応しい』。さっき自分が口にしたセリフにその形容詞があった。なるほど、それがキッカケになったのかと納得すると同時、ティディアはミリュウの心情を察してもいた。
そうして、察しながらも、彼女の『希望』を裏切る言葉を返す。
「私はそう思っているわ」
「……そうですか……。
差し出がましいことをお聞きしました。お許し下さい」
「ミリュウは、そうは思わないの?」
ティディアの自然な問い返しにミリュウはすぐには答えなかった。
一拍間を置き、やおら、微笑む。
「わたしは、お姉様を信頼しています」
それは絶妙な返答だった。
ティディアの言葉を否定してはいないが、積極的に肯定もしていない。絶対的な意志の表明ではないが、かといって必要十分には辛うじて届く意見。
ティディアはゾクゾクしていた。
それこそ文字通り産声を上げた時から見守ってきたミリュウの成長に、また、本人は気づいていないかもしれないが微かに芽を見せた妹の『反抗』に――そして、遅かれ早かれあると確信していた一悶着への憧憬に……胸を、焦がされて。
(それまでには仲直りしとかないとね)
瞼の裏に愛しい少年のふくれっ面を映し、ティディアは微笑んだ。
姉のその微笑みに引きずられて、ミリュウの顔に柔らかさが戻る。
ティディアはステーキの最後の一切れにフォークを刺しながら、言った。
「この後、何か予定しているの?」
「特に何もありません。お姉様にはゆっくりお休みいただこうと思っています。もちろんご要望があれば承りますので、何でも仰ってください。すぐにご用意します」
「それじゃ、お風呂」
「はい。それは既に」
「ミリュウも。
か・ら・だ、洗いっこしましょ?」
「え?」
姉が誘い文句にあからさまに込めたいやらしい下心に驚き、ミリュウは思わず顔を上気させて大きく目を見開いた。
それを見たティディアが少し意地悪な片笑みを作り、そこで姉の意図を察した妹が少し責める眼を見せる。
目論見通りの反応を妹から引き出せたティディアは首を小さく傾げ――
ミリュウはこくりとうなずいた。
「はい、喜んでご一緒させていただきます」