「はぁ」
 その微かで、小さなため息は、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナにかつてない衝撃をもたらした。
 ロディアーナ宮殿は王位継承者居所の中、豪奢な飾りはないがシンプルながらも贅を極めた造りが深い落ち着きを醸し、二代女王が秘密の恋人と最後の逢瀬を交わした伝説があるためだろうか、どこからともなくこぼれる落日光サンセットライトの力もあいまってロマンチックな雰囲気が漂う部屋。
 そこに用意させた、食卓。
 およそ一ヶ月半前、やたら機嫌の良い姉が『久しぶりにそっちに泊まるわ。そうだ、折角だしお姉ちゃんと一緒に寝る?』と連絡をくれた時から心待ちにし、誠心誠意もてなそうと準備を進めてきた二人きりの晩餐。
 ……おかしいと、ミリュウは思っていた。
 今日、姉を迎え、気を利かせてくれた姉の女執事が別室に移ってから、ずっとおかしいと思ってはいた。
 姉は、姉がこの邸宅の主人であった時からの料理長が作るフルコースを美味しそうに食べながら……美味しそうに食べながら楽しそうに話しかけてくれながら……なのに、どこか元気がなかった。連絡をくれた時にはあった陽気さ、底抜けの上機嫌は見る影もなく、表面上は特別変わった様子を見せないが、それでも物心ついた時――いや、産声を上げたその日から姉を目で追っていた自分には解る翳りを纏っていた。
 ――翳り……
 そう『翳り』だ。
 信じられないことに、光の中に影が射していたのだ。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 見る者の魂を吸い取る瞳、女神と淫魔が同居する類稀なる美貌の内に、王の血筋すら生温いと言わんばかりの才覚を押し込めた女性。希代の名君になると期待される慈悲と冷徹さを明晰なる頭脳に伴わせながら、その一方で初代王以来の暴君になるのではと畏れられる『クレイジー・プリンセス』。
 この星の上に、彼女以上に全てを備えた者はいない。
 そこに居るだけで他の者のオーラを奪い去る圧倒的な存在感。
 何をせずとも溢れ出る自信は、しかし嫌味なく、ただただそれこそがこの世の理だと納得せざるをえない。
 何気ない所作にも華が咲き誇り、今まさに何気なくワイングラスを持ち、唇にピジョンブラッドを伝わせるその動作一つ取っても涙がこぼれそうなほどに魅力が満ちる。
 自慢の姉だ。
 銀河中、全ての国で胸を張っても足りない。あらゆる時間、あらゆる世界あらゆる次元で叫び回っても、決して自慢し切ることはできない大好きな姉姫。
 だからこそ、ミリュウにはどうしても信じることができなかった。
 もし、今この瞬間、純白のクロスに覆われた二人掛けのテーブルを挟んで座る姉が何の脈絡もなくふと剣を取り出し、それをこの身に突き立ててきたとしても、むしろそちらの方が疑念一つなく信じられることだろう。
 ――『はぁ』
 その微かで小さなため息
 会話に挟む相槌としての吐息にはない、虚しさと哀しみを包んだ無言のつぶやき。
 ミリュウは息を止めていた。
 どんなに思い返しても、姉がそのような嘆息をついた姿はない。ため息や嘆息を吐くことはあっても、肩を落として弱々しく……それどころか、たった一つの小さなため息を契機にして何かタガが外れたのだろうか、姉がこんなにも『しょんぼり』と『落ち込んで』いる姿を晒すことなどこれまで一瞬たりとてあり得なかった――そう! あり得なかった
 姉が――
 クレイジー・プリンセスが、
 あのティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが、
 しょんぼりと、力なく落ち込むことなど!
「あの……お姉様」
「ん?」
「料理が、お口に合いませんでしょうか」
 ここに料理長がいたら卒倒するであろう問いをかけてきた妹を、ティディアはきょとんとして見つめた。
「いいえ、とても美味しいわ」
 ミリュウは姉の答えが想像通りのものであったことに、失望した。
 これまで運ばれてきた料理は、料理長がいつにも増して気合を入れて作ったもの。頬が溶け落ちそうなほど美味しく、姉も喜んでいた。
 そんなことは解りきっているのに、それでもミリュウが姉の気落ちの理由を料理に求めたのは、彼女自身がその『理由』に見当をつけていたからだった。
 そう……それも、解りきっていることなのだ。
「どうして?」
 無防備に――これも『これまで』からは考えられないことだ――疑問を投げてよこすティディアの澄んだ瞳を見たミリュウは、その美しい瞳にいっそ命を吸い取られたい衝動を堪え、手にしていたナイフとフォークを置いた。
 そして膝にかけたナプキンの上でぐっと拳を握り、
「お姉様は、落ち込んでいらっしゃるようです。
 ……ですので、もしかしたらと」
「そう?」
 聞き返しながら、ティディアは――テーブルの下で拳でも握っているのだろうか、肩を強張らせているミリュウから出てきた指摘に、これは失態だと内心苦笑していた。
「そう見える?」
「……はい」
 恐る恐るうなずくミリュウを見つめながら、ティディアも手にしていたナイフとフォークを置いた。ワインを一口飲み、マナーには反するが両肘をテーブルに突き、組んだ手の上にそっと顎を乗せる。
 自然、ミリュウを見る瞳が上目遣いになる。
 ミリュウは、どこか恥ずかしそうにうつむいた。
「……うん。当たり」
 つぶやくように言って、ティディアは眼前の皿に乗る牛フィレのステーキを一瞥した。
 再び、シゼモでのニトロとの楽しいディナーが脳裡に蘇る。
 今、そこにある食材……それはちょうどあの時、気を利かせたつもりのホテルのオーナーが用意していたものと同じ産地のものだ。
 まったく、己の記憶力を生まれて初めて恨めしく思う。せめて一読したきりのメニューなど忘れていれば、つられて『大失敗』の重苦しい痛みまでが胸に蘇ることも――妹にこんな情けない姿を見せることもなかったろうに。
「ちょっとね、落ち込んでる」
 しかし、見せてしまったからには遠慮はいるまい。むしろ努めて隠し気丈に振舞う方がおかしい。ティディアは目を上げたミリュウを見据え、心の内に止め置いていた苦笑いを頬に解放した。
「シゼモでニトロをひどく怒らせちゃってね」
「シゼモ?」
 ティディアの口から出た地名を聞き、ミリュウは何が信じられないのか眉をひそめた。思わず指折り数を数え、
「もう十日も前のことですが」
 姉が落ち込んでいる理由は思った通り『ニトロ・ポルカト』に関することであったが、それにしてもそんな昔のことをいつまでも引きずっているとは、ミリュウは思ってもみなかった。
「そうね。もう十日も前のこと。それで……十日も前から、ニトロ、ずっとまともに口をきいてくれないのよ。仕事中は私の『相方』として喋ってくれても、それ以外はまるきり無視。毎晩の練習でだって、電映話ビデ-フォンがつながった途端に台本の読み合わせを始めて、終わったら無言で回線を即切断」
 はぁ、と、ティディアは嘆息をついた。
 姉に驚かされてばかりのミリュウは、またしても驚いた。いや、ここに至るとその驚きはもはや驚天動地、心身へ多大なダメージを与える衝撃そのものだ。
「ポルカト様は……未だに、お怒りなのですか」
「ええ」
「許させることは」
「できないわ。いくら謝っても……一言も返してくれない。悪いのはお姉ちゃんだから、仕方ないんだけどね……」
 ミリュウは眩暈を覚えていた。
 姉が姉を許させることのできない者がこの国に存在するなど一度たりとて思いついたことすらなかった。無論、それは姉がどんなに「愛している」と表明する相手であっても変わらない。主導権はあくまで姉のもの、『恋人』は本質的には恋人とは名ばかりに、ティディア姫の最も近くにいるだけの気に入りの従者になるのみだ――と、心の隅でそう感じていた。
 そしてその感覚は、現在この時点においてもどうしても間違っていたとは思えない。
 しかし、現実は違う、違った!
 ……現実を正視できないことは、とても愚かな行為の一つだと姉に教わっている。
 ……ならば、くらむ視界の中でうなだれている姉の姿を、どれほど認めたくなくても、どれほど意にも希望にも反することであっても、わたしは認めねばならない。
 これまで抱いていた『ティディア姫とその恋人』への認識が誤っていたことを思い知らされたミリュウの胸から脳裡へと、何か得体の知れないモノが染み上がってぐるぐると渦を巻いていた。それと入れ替わるように眩暈は腹の底へと沈み込み、十七年の人生で味わったことのない気持ち悪さを伴う塊となってそこに居座る。
 だが、彼女はそれら一連の気色悪い情動を決して面に出すまいと努力を極めていた。この姉との夕食を一月半の間ずっと楽しみにしていたのだ。それを自分の悪感情で台無しにしたくはない。
「ま、でも何とかなるわ。ニトロは優しいから」
 そう言って笑うティディアはどこか物憂げな影を含んで、しかしその憂鬱は皮肉にもティディア姫に新たな魅力を与えていた。
 憐憫を誘う女の美しさ。
 強靭なカリスマをまとう王女にはなかった、負の色彩の艶姿。
 同性――それも肉親でありながらミリュウの心臓はドキリと高鳴った。
 そして、己のその反応をミリュウは悔しく感じた。
 姉の美しさに心を掴まれたことは何もこれが初めてのことではない。生まれてからこの方、もう回数を覚えるのも馬鹿らしいほど姉に心奪われてきた。されど今、彼女は初めて、そのことにしくしくとした痛みにも似る悔しさを感じてならなかった。
「そうだ、相談の途中だったわね」
 ミリュウの表情の微かな変化を観ていたティディアは、やおらぱっと明るい笑顔を見せると再び食器を手に取った。厚いフィレ肉を切り分けながら言う。
「ビネトス領主のことは、あれが口やかましくわめくのは単に領主会議ラウンド・テーブルで自分の存在感を示しておきたいだけだから。聞くべき内容はほとんどない、話半分に聞いておけばいい。好きなだけ文句を言わせた後に一言面子を保たせることを言ってやればそれで満足する。気にしないで、中央大陸セントラルの主はミリュウなんだからドンと構えてなさい」
「――はい、そうします」
「うん、いい子ね」
 ティディアにそう言われたミリュウは嬉しそうに固く結んでいた唇を緩ませた。
 現王・王妃の子の中で最も地味で目立たず、時に『劣り姫』とまであだ名される妹だが、兄弟の中で最も人当たりの柔らかい眉目がほころぶと、そこには他の誰にも真似できぬ可憐さがあるとティディアは思っていた。
 目も心も和ませる妹のその微笑を眺めながらフィレ肉を味わい、そして一息の間を置いたティディアは表情を引き締め、

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