「やっぱり?」
 身を乗り出して、ティディアは喜ばしい意見をくれたハラキリに訊いた。
「私に惚れてくれちゃったり――は、言い過ぎね」
「お姫さんは実に賢明な方です」
「……いけずー。
 でも、結果的にポイントは稼げたわよね」
「ニトロ君にも話を聞いてみないことには判りませんけどねぇ。まあ、結果的に、無欲の勝利だと思いますよ。その点に関しては」
 ティディアはソファにどかりと背を戻した。ハラキリの同意を得て、急に自信が――ニトロの好意を引き寄せられるという自信が急激に膨張する。
 いや、これまで何をしても頑ななまでに好い感情を向けてくれなかったニトロが、ここにきてようやっと評価を上げてくれたのかもしれないのだ。
 これは、あるいは絶体絶命の戦局を覆す一手なのではないのだろうか。
 今日この良き日の一得点が突破口となって、っつーかうまくいったら一足飛びに――
(やー、それはないわね)
 ティディアはとめどなく突っ走りそうになっていた夢想をそこで止めた。軽く頭を振り、その時ふと携帯電話のディスプレイに大きく時計が表示されたのを見て、一つ息を吐く。
 彼女は立ち上がるとコップをテーブルに置き、携帯電話を手に取った。
「そろそろ『練習』の時間だから切るわね。電話、ありがとう。楽しかったわ」
「こちらも貴重なお話を頂けて、楽しかったです」
「帰りは明日?」
「いいえ。ついでですので何日かふらついていきます」
「そう。楽しんできてね。もし王・国立施設に立ち寄りたくなったら、私の名前を使って」
「お心遣い感謝します。その時は遠慮なく。
 では、根を詰めすぎて明日に差し支えなきよう……お休みなさい」
「お休みなさい」
 一拍を置き、ハラキリが通話を切った。
 それを待ってからティディアは携帯を操作し、隣室のニトロへと『仕事用』の回線で電話をかけた。
「――もしもし?」
 ティディアは――てっきり芍薬が取り次ぎに出るだろうと予想していた。しかし受話口から届いたのは予想に反してニトロ本人の声で、彼女は一瞬面食らってしまった。
「あれ? もしもし?」
「――ああ、ごめんなさい」
 再度の呼びかけにはっとして、ティディアはニトロに応えた。
「何だよ」
 短く用件を訊いてくるニトロに、ティディアは言った。
「練習のことだけど」
「ん、そろそろだろ? 今そっちに行こうとしてたところだよ」
 ――え?
 と、ティディアは口を開けた。
 我ながら間の抜けた問い返しをしなかったことを偉いと思う。
 それ程にニトロが言ったことは予想の外……いや、思考の彼方にもなかったセリフだった。
『今そっちに行こうとしてたところだよ』
 ……来る?
 ニトロが。
 あの野生の草食動物並み――ともすればそれ以上の警戒心を見せる、あのニトロが……
 こっちに来る?
 私の部屋に!?
「……何か、不都合でもあったのか?」
 ニトロが声のトーンを落として聞いてくる。それは、もしかしたら王女が出ねばならない程の大事でも起きたのでは? と訝しんだからかもしれない。
 ティディアはほんの僅かな時とはいえ動揺していた心を治め、
「不都合なんてないわ。台本のデータをそっちに送ろうと思っていたんだけど」
「いいよ、そっちに行った時にもらう」
「ええ、その方が手間もないわね。それじゃあ、待ってるわ」
「ああ」
 素っ気無くうなずきを返して、ニトロは通話をぷつりと切った。
 ティディアは耳に当てていた携帯電話を何となくジッと見つめ、妙に喉が渇いていることに気づいてジュースを一気に飲み干し、ぐっと握り締めていた携帯を切子ガラスのコップと共にテーブルに置いた。
 ――手の平には、びっしょりと汗があった。
「あれ?」
 ティディアは胸に渦巻く疑問をあえて口に――音にした。
 ニトロが……まさかこっちの部屋に練習に来るなんて……この後は、もちろん自分がニトロの部屋に行くつもりだったのに……ニトロの部屋、ニトロの領域、強大な力を有する芍薬の監視下へと、自ら。
「……ああ、そっか」
 そこまで考えたところでティディアは猛烈な自嘲に襲われた。
 何と信じ難いことかと思う。ニトロにこっちに来ると言われたくらいで、何と呆けた頭になってしまっていたのか。
 芍薬。
 そう、芍薬がいるではないか。
 ついうっかり――それはおそらく都合良く――忘れていた。
 ハラキリが提供した無駄に凶悪な機能を備えるアンドロイドに乗るニトロの戦乙女は、当然彼と一緒に来ることだろう。
 そうだ。そうであれば、何もニトロが自分のテリトリーにこちらを誘導する必要はない。何しろこっちはこの身一つ。怪力無双の女執事もなく、ホテル・ウォゼットの部屋着をまとうだけ。
「……参ったな」
 ティディアは自嘲に歪む唇を、苦く引き締めた。
 何をうろたえているのだろうか、自分は。
 たかだかニトロに部屋に行くと言われたくらいで。
 何を――淡い希望を胸に秘めて、こんなにも狼狽しているのだろう!
 今日一日で珍しく稼げた貴重なポイントくらいで、ニトロが、自分に、心を許すなんてことはない。それは十二分に解っている。それくらいで彼が何とかなるなんて、それこそただの妄想、高望みにも程がある。
 ……だが。
 だが、もし、その貴重なポイントが、予想以上にニトロに効いていたらどうなのだろう。
 もし、高望みに手を触れるための踏み台くらいにはなる程度に、そうだったらどうなのだろう。
 だとしたら、もしやこれは、千載一遇のチャンス……なのではないだろうか。
 いつもは効かぬ色仕掛け。
 いつもは効かぬ誘惑の言葉。
 しかし、今日はその『いつも』ではない。
 確かに今日は、ハラキリも同意をしてくれたように、ニトロに好印象を持ってもらえたかもしれない。いや、持ってもらえたと思う。その印象を残しておくのは得策だろう。それこそが正解、それこそが好手であるだろう。
 だが……だが、しかし!
 自分のニトロに対する考えがいつもいつも裏目裏目となることばかりであることを考えれば、今ばかりは、あえて逆――あえて悪手を打つのが正しいのではないだろうか。
 ――否! 違う! それは間違い、希望的観測に根付いた単なる妄想だと、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは言う。
 それなのに、そうじゃないのでは? とまた、私――ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ自身が疑問を投げかける!
(――どうしてかしら……)
 ティディアは苦々しく、そして何故だかひどく恥ずかしく、思った。
 どんなことに対しても明晰に考えをまとめられるこのティディア姫が、ニトロのことに関してはこんなにも愚かに迷ってしまうのは、どうしてなのだろうか。
 まさか、苦手意識でもあるのだろうか。
 これまでの生涯で最も誰よりも思い通りにならなかった少年に、だからこそ自分の思うことは彼には通じないという苦手意識が、この心に刷り込まれてきたというのだろうか。
 コンコン……
 と、ドアがノックされた。
 ティディアはドアを見つめ、
(今日は、何もしない。それが正解)
 そう自分に言い聞かせ、ドアに向かうとロックを外した。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
 定型文的な挨拶を交わして部屋に入ってきたニトロは、一人だった。彼が後ろ手に静かにドアを閉める。オートロックが作動したことを知らせる確認音が、部屋にニトロと二人きり、ティディアの鼓膜をやけに大きく叩いた。
「……あれ?」
 思わず、ティディアは疑念を口に漏らしていた。
「どうした?」
 自分と同じ部屋着――貫頭衣のようなだぼついた上着と膝下までのズボン。ゆったりと作られ締め付けのない、ホテル・ウォゼットのマークがワンポイントと打たれた服を着て、小首を傾げるニトロはあまりに無防備だった。
「芍薬ちゃんは?」
「待ってるよ」
「……何故?」
 佇むティディアの脇を抜けるニトロの面には、感情を掴みきれない笑みが刻まれていた。
「今日のお前ならいいだろ」
 ニトロは自分の泊まる部屋との差異を探すように視線を巡らせながら内へと歩み入る。彼の後ろに続き、その力の抜けた背を見ていたティディアは、いつか彼に背負われた時の安堵感と心地良さを思い出していた。
「だから、休憩してもらってる」
 ちょうどベッドの脇で足を止め、肩越しにティディアを見る彼の目は細く、普段であれば警戒を解かぬ彼が――それこそ二人きりでは決して見せてくれることのない屈託ない笑顔が、そこにはあった。
「……」
 ティディアは、ニトロを見つめていた。
「……どうした? ティディア」
 彼女は己の名を柔らかく呼ぶ彼に目を奪われていた。
 ――もしや、これは、千載一遇のチャンス……なのではないだろうか。
 先ほど脳裏を巡った思考が舞い戻り、瞼の裏を駆け巡る。
 いつもは効かぬ色仕掛け。
 いつもは効かぬ誘惑の言葉。
 しかし、今日はその『いつも』ではない。
 確かに今日は、ハラキリも同意をしてくれたように、ニトロに好印象を持ってもらえたかもしれない。いや、持ってもらえたと思う。その印象を残しておくのは得策だろう。それこそが正解、それこそが好手であるだろう。
 だが……だが、しかし!
 自分のニトロに対する考えがいつもいつも裏目裏目となることばかりであることを考えれば、今ばかりは、あえて逆――あえて悪手を打つのが正しいのではないだろうか。
 そう、今ここでこの好機を逃してしまうことこそが、我が人生最悪の一手となるのではなかろうか!
 コラ待て考え直せと『私』の声が耳を叩く。ウルサイ!
 ……っそうだ、そうなのだ! いつもは裏目に出るこの『私』! ここでこの機を逃せば、きっともうチャンスは来ない!!
 そして、気がつくと――
「あれ?」
 ティディアの耳を叩いていたのは、ニトロのぼやけた疑念だった。

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