そこでティディアは、今自分がニトロにタックルをかまし、いつの間にか彼をベッドに押し倒していたことを知った。
ふと、きょとんと呆けたニトロと目が合う。
見る間にニトロの顔が引きつっていき――
その、刹那――
ティディアの脳裡を今一度逡巡が支配した。
あ、やっぱこれヤバイんじゃない?
ティディアは今一度迷った。
どうする?
ティディアは、思い切った。
こうなったら
――イクしかない!
「お前――っ!」
「ニトロ!」
怒鳴り声を上げベッドに己を組み敷く女の体を押しのけようとニトロが腕を動かすよりも速く、ティディアは彼にぎゅっと抱きついていた。
「離せ!」
「嫌!」
「この……ティディアっ! 結局これが狙いだったのか!」
「そんないつもいつも計算ばかりしてないわよ!」
一年前ならいざ知らず、今やニトロはティディアの体重を軽く超える質量を持ち上げられる。もし少しでも二人の間に隙間ができればそこに腕を差し込まれ、撥ね退けられる。純粋な腕力勝負では分の悪いティディアは懸命に『技』を繰り、重心を操り、ニトロに体を合わせ続けた。
「じゃあ何だ、何でこうなってる!?」
「ニトロが悪い!」
「ぅおおぃナ・ン・デ・ダッ!!」
「言ったでしょ、ニトロのこと、あなたが思う以上に好きだって!」
「こういうことする奴の言葉が信じられるかぁ!」
「だってこんなこと、好きじゃなきゃしないわよ!」
「お前の好きは俺の思う好きとは絶対違う! っつーかそもそも好意を犯罪の理由付けに使うなクソ痴女!」
「じゃあ魔が差したってことで」
「なおさら悪いわ!」
ニトロが身じろぎをするが、腕を自身と痴女の間に入れることができずにうめく。背にしているのは柔らかな羽毛、クッションの利いたマット、支えが効かず、さらに膝から下がベッドの外にあるせいでブリッジをして上に居付くバカのバランスを崩すことすらできず、そのくせ体は固定されて横にも後ろにも動けない。
ティディアはもう冷静にはなれない頭の中で、しかしこれはチャンスだと、はっきりと認識していた。
本当に稼げた『ポイント』は強力だったのか。ニトロの抵抗が普段より弱い気がする。何しろ事ここに至っても未だあの『馬鹿力』が出てこない!
適度に鍛えられた少年の肩に顔を埋め、背に腕を回し、そのせいで両腕は彼の下敷きになっているが、柔軟なベッドのお陰で痛みはなく、むしろそれが彼を捕まえおく重要な支点となって機能している。
ふいに、ティディアは必死にもがこうとするニトロの首筋の上に、彼の耳を見た。
「……」
彼の、耳たぶが、視界に入った。
「離せってンだティディア!!」
――甘く、噛んでみた。
「ッ!」
その瞬間、ニトロの体がびくりと跳ねた。
「うひぃぃぃぃぃぃ」
そして奇妙な悲鳴を上げたニトロの体から、急速に力が抜けていった。くたりと、嘘のように、抵抗が消えた。
ティディアは内心で歓声を上げた。
(これは――!)
もしかするとニトロの急所を突いたのだろうか。
ニトロは観念したかのように脱力し、ふと、腕を背に回してきた。そっと、軽く抱き締め返すように。
――これは――やはり……っ!
(とうとう!?)
ティディアは目に涙が滲むのを止められなかった。全身を歓喜に強張らせ、ニトロはどんな表情をしているのだろう、顔が見たいと体を離そうとした、
その時、
「、ん」
背に回っていたニトロの手が、背から脇、乳房を触ろうとしているのか肋骨に沿って親指を這わせ、ティディアはくすぐったさよりも異様な快感を覚えて思わず身を震わせた。
ニトロの指は――やおらティディアの胸部を横から挟み込むよう左右対称の位置で止まり――くっと骨の間に入っ――
ギャッ!?
「いィ――――!!」
刹那、肋骨から背骨、背骨から脳髄へと駆け抜けた尋常ならざる激痛にティディアは喘いだ。
喘ぎ、身をよじり、そして見た。
己の下で、ものすっごく冷めた目つきをしている少年を。
コメカミには青筋が立っている、尖らせた親指を力ずくで肋骨の隙間にめり込ませ、あるいは……肺にまで突き刺そうとしている愛しいニトロを!
「折れ――る骨ッ砕―け……っ! ぅァ――ぃぃ痛だたただだ!!」
ティディアは頭を抱え悶え絶叫し、体を起こすと無我夢中でニトロの手を振り払ってベッドの上から逃げ出した。
とにかくニトロにもう『お仕置き』されたくないと一心不乱にドア近くの壁際まで駆け、何だか脈打つ溶けた鉛を埋め込まれたようなアバラの痛みに唇を噛み、涙が滲む双眸をベッドへと振り向ける。
と、そこにはすでにニトロはいなかった。
「……どこへいく」
――と、すぐ隣から、耳に噛み付くようなニトロの声がした。
ティディアの顔が、体が、凍りついた。彼女は視野角の隅にある影には目をやろうとはせず、冷や汗を一筋頬に伝わせ、言った。
「……ひどいわ。こんな愛撫じゃ女の子は気持ち良くなれないわよ」
「悪いな。俺は師匠にゃそういう技術は教わってねーのさ」
「……ずるいな。ハラキリ君、ニトロにばっかり色々教えて」
「……」
「……」
「……なあ、ティディア」
「はい」
「『エフォラン』ってゴシップ紙、知ってるか?」
「知ってます、三流紙の見本です」
「これも師匠が教えてくれたんだけどさ、ああいうところって、貶めたい
「……うん、知ってる。上げて落とすのは、ゴシップ紙に限らず常套手段だもの」
「うん。知ってるなら、解るよな?」
「…………何が?」
「俺さ、今日、お前のことを本当に見直していたんだ」
「…………」
ティディアは沈黙した。
いや、肌に触れる殺気に、口が動かない。
「さて、バカ姫」
ニトロの声は、地獄の奥底を抜けたさらに底から響いてきているように、恐ろしい。
「自分から高いところに登って落ちる気分はどうだい?」
「ヒッ!」
喉を引きつらせ、反射的にティディアは脚の筋肉を爆発させていた。短距離走のアスリート並みにロケットスタートを決められる瞬発力を全身全霊脱出のために使用し、一息の間もなくドアへと駆け寄る。
ティディアはノブを掴むと同時、ドアを渾身の力で引き開けた。
すると目の前に、腕を組み、双眸を赤くギラつかせて仁王立つアンドロイドが現れた。
「――」
ティディアは半分廊下に飛び出していた体をぎしりと止め、息も止めたまま静かに後ずさり、そっとドアを閉め直した。
オートロックが作動したことを知らせる確認音が、ティディアの鼓膜を嫌に撫でる。
「……」
前門の鬼神。
後門にも、鬼神。
体幹に絶対零度の悪寒が走る。
「……ニトロ」
ティディアは背後から彼に抱き締められながら、言った。
「ほんとに、魔が差しただけなの」
「……」
「計算じゃない。企んでたんじゃない。それだけはお願い、信じて」
己を抱えるニトロの手は腹の前で組まれている。
ティディアの明晰なる頭脳は、この体勢が意味する未来を寸分の誤差なく予測していた。
ジャーマン・スープレックス――その美技、必殺の技。
「ね?」
「ド阿呆」
即一言で斬り捨てられ、ティディアは絶望に青褪めた。
(嗚呼、本当に私の阿呆)
ティディアの心身には激しい後悔が荒々しく巡っていた。悪手を打ってしまったからには、逃げ出そうなんてせず、素直にあのままお仕置きされておけば良かったのだとも思う。そうしておけば、せめて束の間だけでも温かなニトロの胸で眠れる可能性が残っていただろうに。
部屋には絨毯が敷かれている。
高級品の、素足で歩きたくなるほどの良い絨毯。
だがその直下の床はとてもとても固く冷たい。
ティディアは、無駄な抵抗とは解っていても、ドアノブに救いを求めて手を伸ばし――
「持ち上げてぇ!」
しかしそれより先にニトロの両腕がティディアの胴を締め、気合一発、彼女の体を一瞬にして抱え上げた。
虚しくティディアの手が宙を掻く。
凄烈な勢いでニトロの背が弧を描き、
「落とぉぉぉぉぉす!!」
「うひいいいいぃい!!
――――――。