「ほんと、ニトロは真面目よねー」
 音が止まったのは、ニトロのすぐ後ろだった。ティディアがしゃがみこむ気配が彼の背に伝わる。
 そして、そっと、ニトロの頬をティディアの手が撫でた。
 突然背後から視界に飛び込んできたその手にニトロは驚いたが、しかし、彼がそれを避けることはなかった。
「ニトロが罪悪感を持っているのは解っていたから、私はそれだけで十分。これも気づいてないんでしょうけど、結構、顔に出ていたわよ?」
「……そりゃ、気づかなかったな」
 ニトロの頬に当てた手を引き、ティディアは鍛錬により引き締まり男性的な筋を浮かべる肩に触れようとして……やめた。
 ――これ以上彼に触れては、絶対に抱き締めたくなる。
 さすがにそこまでは受け入れてもらえないだろう。
 あるいは、もし、例え彼が抱き締めるくらいは許してくれたとしても、抱き締めようとした瞬間に芍薬にいたく怒られる可能性が非常に高くて怖い。
「それに、利用されて嬉しかったし」
「嬉しかった?」
 思わずといったようにニトロが肩越しに振り向いた。すぐ後ろにいたティディアとばちりと視線をぶつけ、しまったと顔をしかめて即座に顔を振り戻す。
 ティディアは彼の様子に小さく笑いながら、
「ええ、利用される程度には信頼されているって分かったし、ニトロが私を頼ってくれることなんて滅多にないから、ニトロの役に立てたのも嬉しかった。おまけにオイシイ思いもたくさんできたわ。一緒に温泉にだって入れた」
 ティディアは立ち上がった。胸には彼に口づけをしたい気持ちが、自分でも驚くほどに溢れている。
「……ニトロ、私はね、きっとあなたが思っている以上にあなたのことを好きなのよ」
 その穏やかな声には、何の嘘も、何の飾りもない。
「だからこれくらいのことで謝られたらかえって困っちゃうわ。それでも、もしニトロの気が済まないって言うのなら……そうね、明日一日中、あの『けっこんゆびわ』を一緒につけていてくれる? そうしたら、あの子もとても喜んでくれるから」



 また後で、練習の時に――
 そう言い残してティディアが去った後、ちょうど羽のないスズメバチを少し太らせた形状の、表面を周囲の光景をまるきり映しこむほどに磨かれた銀色の小さな四足を持つ小型警戒機が一機、ニトロの傍に姿を現した。
 それは音もなく湯船の縁に着地すると、
「部屋ニ支配人マネージャーカラドリンクガ届イテルヨ。ヨロシケレバ、ッテ」
「うん」
「アト、メッセージモ」
「何て?」
「『頼み』ヲ聞イテクレタコトヘノ感謝ト、オーナーノ非礼ヲ詫ビル内容ダヨ。挨拶ノ時ノコト。今更ダケドネ」
「そっか……」
 つぶやき、ふとニトロはティディアが言っていたことを思い出し、
「レストランでのことは?」
「話題ニモナイヨ」
 芍薬はニトロが何を思ってそれを問うたか、察していた。
「バカ姫ノ言ウ通リダ。見テナイカラ、見落トシテル
 ニトロはうなずいた。
 なるほど、ティディアは、正しいようだ。クレイグの話だけを聞いていたら判らなかったであろう彼の従兄の欠点を、こうもすぐに確認できるとは……
「今、聞クカイ?」
「部屋に戻ってから聞くよ」
 ニトロは言って頭の上のタオルを手にした。そのまま手を頭の後ろで組み、吐息と共に星空を仰ぐ。
 しばらく黙したままちらちらと瞬く星々を見上げ、そこに小学校で習った一等星があることを今になって知ったニトロは、再び吐息を――長いため息をついた。
「今日は……何かこう……ティディアに、やられちゃったかな」
「……御意」
 警戒機の姿勢が、芍薬のうなずきを反映して傾いた。
「帰ッタラ大反省会ダネ」
 さらさらと、湯が流れる音がやけに大きく聞こえている。
 ふいに木立がざわめき、入り込んできた冷たい夜風に緑の匂いが一段濃くなり、湯気が幻想的に揺らめく。
 ニトロは不思議とこぼれた笑みを口元に、言った。
「うん。帰ったら、大反省会だ」

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