「何を笑ってるんだよ」
「オーナーだけが、ここの問題じゃないわ」
「?」
「ロセリアにも、ニトロみたいな人がいたら良かったのにね」
「俺みたいな人?」
「ええ。少なくとも先代は跡継ぎ娘を今からでも厳しく教育し直すべきだわ。それとも、セド・ウォゼットが。彼の責任だって重いんだから」
 思わぬ展開に、ニトロは黙してティディアを注視した。友人の話を聞く限り悪い印象を得ていなかった支配人のことをそう評され、驚きを禁じえなかった。
 ティディアは自分を見つめるニトロを見、
「実質的には名義だけ、だったとしても、支配人である以上はそれなりの勤めを果たさないと。大体、私に取ってのニトロみたいに、フォローができて、私が間違っていると思った時にははっきり止められる人になれる一番の位置にいるのに、それをしていないんじゃあ職務怠慢も甚だしいわよ」
 ニトロは眉をひそめた。何だか自分とティディアがベストパートナーになっているような言い方をされているが、まあ、それはここでツッコむべきものではないだろう。
「大学で経営を学び優秀な成績を修めているくせに、今はその能力を発揮することもなく妻の尻拭いに一生懸命。オーナーの立案に対して多少の口を出すものの、例え良い結果を招かないと分かっていても結局は身を引いて妻の機嫌を取るばかり。確かに彼のフォローは評判が良いみたいね。だけど、例えばホテルの敷地内に入る時、安っぽく思わせないためだか知らないけど自動案内を切った門のせいで待たされたことはどう? 細かいことだけど、そこで感じた客の苛立ちや戸惑いの記憶は消えないものよ。この競争激しいシゼモでそれを無視できるものかしら。そしてそういったところへのフォローが行き届いてないのは、彼の視線は客へのサービスに注がれている一方で、あくまでロセリアを助けることに向かっているから。そしてまた、彼は彼の目に入らなかったでしゃばりオーナーの失態までもフォローしきれない。
 悪く言ってしまえば、セドがやっていることはホテル・ウォゼットを緩慢に絞め殺す手伝いでしかないわ。いくらロセリアにとって良き夫でも、共同経営者としては失格ね。彼の最大の短所と言ってもいい」
 さらさらと淀みなくティディアに論じられ、ニトロは苦笑して訊いた。
「お前、どれだけここのこと調べたんだ?」
「きっとニトロに阿呆って言われるくらい」
 しれっと言われてニトロは苦笑を深め、
「けど……夫婦だからこそできないこともあるんじゃないか? セドさんだって力関係って言うか……立場もあるだろうし」
「それは一理。だけどそれを言い訳にして家業ホテルを潰したら元も子もないんじゃない? 二人して路頭に迷うくらいなら別にいいけど、従業員はいい迷惑だし、ここの料理と露天風呂のファンもがっかりね」
「それはそうだけど」
「見たところあの二人の場合、ロセリアが改革改善と錯覚独善の分別を知るか、露骨にでも婉曲にでも形はどうでもいいからセドが主導権を握るか……そうして彼女のセンスを彼が『ホテル・ウォゼット』へ適確に取り入れることができるなら、ここは良くなる。経営も悪化することはないでしょうね。以前より評価の高いホテルにだってなれるかもしれない。なのに、それをしようともせず、できず、結果、二人の短所だけを噛み合わせて中途半端に無能を晒すことになっている」
 そこで彼女は頭の上で手を組み、うんと伸びをした。その拍子に彼女の乳頭が湯から現れそうになり、慌ててニトロは顔を背けた。
 ティディアは顔を背けたニトロに横目を流し、にたりと笑った。
「だけど、わざわざこのティディア様と愛しいニトロが『宣伝材料』を提供したからには、ここをこのままにしておくわけにはいかないわねぇ」
 その眼差しに、ニトロは得も言われぬ悪寒を感じた。
「お前……何を企んでる?」
 反射的にニトロの口をついた問いに、ティディアは、今度はすぐに答えた。
「心配しなくていいわ。別に営業許可を取り消して乗っ取るとか……あ、いっそそっちの方がいいかな……」
「おい」
「あ、冗談冗談。そんな怖い目しないで。ただオーナーに冷や水ぶっ掛けてやるだけだから」
「……冷や水って何だよ」
「よくもニトロを軽んじたなって、そんな感じで怒ってやるのよ」
「それは「やらなくていい、ってニトロが言ってもやめないわよ。それに、良い方向に転んだらオーナーが心変わりをするキッカケになるかもしれないんだから」
 こちらの言葉に被せて言ったティディアの意図が解らず、ニトロは彼女を説得しようとしていた口を閉じ、次の言葉を待った。
「ロセリア・ウォゼットは私のことを信奉しているそうよ。そこでその王女様の怒りを買った挙げ句、無能まで指摘されたら――どう?」
 問われ、しかしニトロは答えられなかった。
 ロセリアがティディアに対して格別の眼差しを向けていたことは知っている。その相手にいかられけなされれば、それはショックも大きかろう。単純にロセリアのティディア姫への感情が反転するだけで終わることも考えられるが、それを契機として経営者としての性質が変わる可能性も確かにあるだろう。
「それでも変われないのなら、スーミア君には悪いけど、私達が『デート』をした思い出のホテルはいずれなくなるわね」
「…………要するに、また協力してくれる……ってことか」
「ん?」
「このホテルの状況が上向くように、って」
「そりゃね。ニトロの顔を潰すようなことはしないわ」
 にこりと笑って、ティディアは言った。
「ま、それくらいしておかないと気が晴れないってのもあるんだけどね」
「こら待てお前、本当に冷や水ぶっ掛ける『だけ』だろうな」
「そのつもりよ。今のところ」
「って今のところって何だ。その場のノリで洒落にならないこととか――」
「ねえ、芍薬ちゃんもロセリアを震え上がらせることに賛成よね?」
「サン 」
 反射的に賛意を示したのだろう芍薬の声が、途中ではっと我に返ったかのようにぷつりと切れた。
 だが、それで十分だった。
 ティディアがニトロを見る。その目には、『反対?』とありありと書かれている。
 無論、ニトロにはもうティディアへ向けられる反意はなかった。この件に芍薬が――それこそ思わず賛成するほどであるならば、バカ姫がやりすぎないよう釘すら打てるわけもない。
(……しょうがないか)
 ティディアも、彼女らしくもなく我慢してくれていたということもある。
 それにここまで黙って協力してくれていたのだから、やりすぎるということもあるまい。
「分かった。それについては何も言わない」
 ニトロが言うと、ティディアは小さくうなずいた。
 と、洗われた髪に残っていた水か、汗か、それとも湯気の冷えた水玉がティディアの首筋に沿って落ち、細やかな玉肌に弾かれるように露となった鎖骨の上を滑るとすっと胸の谷間に吸い込まれて消えた。
 ニトロは図らずも――そして悔しくも――ドキリと胸を高鳴らせていた。
 湯殿の空気にある魔的な空間演出力とでも言うのか。それとも半日悩まされ続けたティディアの真意を知った今だからか、妙に彼女の女性としての魅力が目にまとわりついてくる。
 伏せられた睫毛、和やかな表情、髪の際の産毛も艶かしいうなじ。彼女の体を縁取る芸術的な曲線。湯から覗く乳房の見た目にも伝わる柔らかさ。その下には暗い湯の中でぼんやりと輪郭を滲ませてなお美しい――
 ほぅっとティディアが息を吐いた。
 温泉は、既に夜がもたらす肌寒さを感じさせぬほどに二人の体を温めている。
 ティディアの静脈が浮いて見えそうな白肌を、熱を帯びた肉が桃色に染め、また一筋彼女の体を水滴が滑り落ちる。
「……漫才の、新作のことだけど」
 ニトロはティディアからぱっと目を外し、湯の水面を、木立を、星空をと視線を移しながら言った。
「話していた三連ボケのところ、最後に俺が間違えるってのはどうかな」
「……私が三つ目はまともなことを言って、ニトロがそれをツッコンじゃう?」
「ああ。そしてそれにティディアがツッコミを返すと、俺は勢い任せに逆切れツッコミ」
「……そうすると『転・結』との繋がりがなくなっちゃうわね。そこからはケンカ漫才にしないとおかしくなるし……」
 ティディアは拳を顎に当て、しばらく考えた後、何やら得心がいったように大きくうなずいた。
「うん、でも、いいかも。ハイスピードなケンカ漫才もやってみたいし、流れ的にもダイナミックにできそうだし……。うん。いいわ、それでやってみましょう」
「言い出して何だけど、原型ほとんどなくなるぞ? 失敗作になる可能性だってでかい」
「問題ないわ、すぐに作り直しておく。それに『実験』するなら失敗上等、思い切ったことやった方が面白いじゃない? あ、一応言っておくけど、ビンタ食らうことは覚悟しておいてね」
「……分かった――けど、あまり痛くするなよ」
「んー? ふふふ。笑いを取れるくらいにはしておくわよぅ」
 ニトロが冗談めかして言った希望にティディアはサディスティックな口調で応え、それから彼女は片腕で胸を隠すと、
「そろそろ上がるわ」
 ニトロは視野に彼女が入らないように首を回した時、ざあっと、水飛沫が音を立てて湯に弾けた。
「台本を書き直したいから先に部屋に戻ってる」
「ああ」
「のぼせないようにね」
「気をつけるよ」
 ティディアは浴槽を出て、溢れ続ける湯水がひたひたと濡らす敷石を踏み、脱衣所へと向かった。
 そして、一時の後、
「ティディア」
 ふいにニトロに呼び止められ、ティディアは振り向いた。ニトロは去り際の時のまま、目をこちらにやらず微動だにせず、そこにいる。
「何?」
 ニトロはすぐには言葉を継がず、やや間を置いた。その短い沈黙には彼が押し込めている感情の渦が滲んでいた。ティディアも、彼を急かし促さず、静かに待っていた。
「今日は……ごめん」
「何が?」
 再度の問い返しには苦笑が混じっていた。
 ニトロは、ティディアのその口調から彼女がこちらの意図を解っていることを察し――同時に謝らなくてもいいという意思をその声から感じながらも、それでも言った。
「お前のこと、いつもは避けようとしているくせに都合良く利用していた。さっきも、悪いことを言った」
「? 悪いこと?」
「ティディアが『身売りする娘』に例えた話だよ」
「ああ、そのこと。別に気にしてないから謝なくていいわよ。利用って言ってもこれくらい何でもないし、第一それならニトロのことを散々利用している私の立つ瀬がないと思わない?」
「お前はあからさまだろ。俺は黙ってた」
 ニトロは一つ息をつき、
「そのくせ利用していただけじゃなく、お前のこと侮辱するようなことまで言って、それでも謝らなかったら……俺は、卑怯だ」
 水が鳴った。ニトロへと近づいて、一つまた一つと足音が鳴った。

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