「――ん?」
 それも彼女が口にしたのはニトロにとって聞き憶えのある人名で、そして憶えがあるからこそ、彼は彼女が誰の名を華やかな声で聞かせてきたのかを――理解できなかった。
 ティディアはニトロの喉が疑念にうなりを上げたのを耳に、彼の理解が追いつくのを待たずに続けた。
「なかなかしっかりした子ね。成績は上位、クラス委員を務め、クラスメートにも教師にも受けが良い。ニトロ・ポルカトとは一年の時から同じクラスで、ハラキリ・ジジを除けば、ニトロの交友の中で最も重要な学校関係者の一人。そして――」
 ニトロはティディアとの距離をもう一人分開け、顔をそちらへと振り向けた。彼の双眸にはむき出しの敵意があった。
「そして、困った親戚の頼みを、断り切れずに引き受けてしまうくらいにはお人好し」
「……ティディア」
 低い声に応じて、それまで空を見たままにいたティディアは、ニトロに顔を向けた。
 肩から胸元までを湯から現した彼女は洗い場から漏れる光を背に受け、影と色付く湯との鮮やかなコントラストを生むその白い肌はまさに輝いているようだ。闇から抜け出る大理石の女神像――と、形容する者もいるかもしれない。ただどんな女神の像とも違い、彼女の柔らかな頬には肉体を持った者だけが浮かべられる妖艶な笑みがある。
「でも、お人好し度ではニトロに遠く及ばないわね」
「ティディア」
 繰り返したニトロの呼びかけは非難を多分に含んでいた。同時に、警告をも。
 しかしティディアは動じず、へらりと笑って言った。
「やー、何もニトロにここにこさせるよう彼に命じたわけじゃないわよぅ。もちろんセド・ウォゼットに従弟にそう頼み込ませた、なんてこともしてないわ」
「……」
 ニトロは口を真一文字に結び、険しい懐疑の眼差しでティディアを貫いていた。
 だが、それでもティディアは動じない。
 へらへらと締まりを失っていた頬を少しだけ引き締め、少しだけ、残念そうにニトロを見つめた。
「信じられない?」
「信じるだけの根拠がないからには、信じられないな」
「ん、それはもっともね。
 でも、私は、私がニトロの友達をそういう風に使うことはないっていうことを、ちゃんと知ってもらえていると思ってたんだけどな」
 そのセリフを聞いたニトロの双眸から、いくばくか敵意が消えた。
 確かに、それは知っている
 ティディアの言う通り、彼女が、ニトロ・ポルカトがクレイジー・プリンセスの悪戯をキッカケにいずれかの友と友情を壊すことになるような『企み』を仕掛けてこないことは、これまでの経験から信頼できる『暗黙のルール』として認識していることだ。
 だから、クレイグから頼みを受けた時、自分はそれがバカ姫の息がかかった事柄であるとは考えなかった。
 そのことが仇になって現在ティディアと二人、温泉に浸かるはめになったのならばそれは間違いなく決定的な油断であっただろう。
 だが、それでも、ここ今に至ってもなおその線は『無い』と、ニトロには確信が持てた。おかしな話だが、その点に関してはティディアを信頼しているのだ。まあ、といってもそれは『虎は空を飛ばない』という類の信頼性ではあるのだが……。
「なら……なんで今、そんなことを?」
 目をニトロに戻したティディアは、問いかけてきた彼の瞳から敵意が完全に消え、そこに純粋な疑問と困惑だけがあることを見て取った。
 彼女は彼から視線を外すとどこからともなく沸く湯が水面に作る揺らぎを見つめ、しばらくして、言った。
「あまりこういうこと、しちゃ駄目よ?」
 ニトロは眉をひそめた。それは自分の問いへの答えとしては満足のいくものではなく、その上前触れもなく話題まで変化した言葉であったのに、ティディアの横顔はちゃんと答えを返したと、そう語っている。
(……『こういう』こと?)
 一体、何のことを言っているのだろうか。ニトロはこちらを見ようともしないティディアの横顔の下に隠された真意を掴もうと考えを巡らせ――
 はたと、気づいた。
 そしてそれに思い至った瞬間、ティディアの謎かけのような返答の真意を悟ると共に、これまでニトロの中に降り積もっていた疑念と惑いの全てまでもが、急速に氷解を始めていた。
(ああ、そうか)
 クレイグ・スーミアの人と形を知り、セド・ウォゼットとの関係をも知っているティディア。彼女の実力と性質を踏まえ、そこに今の言葉を重ねれば、彼女が何を言いたいのかは自ずと理解できる。
(そういうことか……)
 解ってみれば、それは何も難しいことではなかった。
 おそらく、ティディアはこちらがホテルの変更を申し出たその日の内に全てを把握していたのだろう。
 一を知って十を知り、十を知って百を解く。一見何の関係もなさそうな個別の情報に関連性を見出し、あれよあれよと言う間に見えざる全体像を暴き出すことに長けた恐ろしい王女様のことだ。
 ニトロが興味を示したホテル・ウォゼット。
 当然、そこに関する情報を彼女は調べ上げる。その際、ホテル従業員の関係者の中にクレイグ・スーミアの名を見つけたならば、突然ホテル・ウォゼットに泊まると言い出したこちらの思惑など見透かせぬわけがない。どこで確信を得たのかは分からないが、どうせハラキリにクレイグと自分の間に変わった動きがなかったかとそれとなく探りをいれたか、ホテル・ウォゼットの情報収集時に確信に至るものを掴んだか、そんなところだろう。
「……何で黙ってたんだ?」
 ニトロはティディアに問うた。脳裡にある推論の正否を確かめるために。
協力してくれるんだったら、言ってくれてもよかったじゃないか」
「言ったら言ったでニトロは余計に警戒するんじゃない? 本当に協力するのか? 協力にかこつけて何が企んでるんじゃないか? って」
「……否定はしない」
 ティディアはふふと笑った。
「ね? それなら普段通りにしていてもらった方が私もやりやすいし、実際、ここの人間はメディアで見聞きしている通りの『ティディアとニトロ』の姿を見たと思ってるわよ。今頃派手な宣伝文句でも考えてるんじゃないかしら」
 決定的だった。
 ティディアは、初めから、自分が『ニトロ・ポルカト』であることを利用して、ホテル・ウォゼットの知名度を上げようとしていることを知っていたのだ。
 同時に、自分が『ティディア姫』をもホテル・ウォゼットが宣伝に使えるよう、彼女を利用していたことも。
 そして全てを理解して上で、ティディアはニトロ・ポルカトの拙い目論見に付き合ってくれていたのだ。
 思えば自分と芍薬が、ティディアの意図をどうしても掴めなかったのもここに端を発している。普段から『敵』と認識しているが故に、『彼女が協力してくれる』という概念そのものを見落としていたからこそ、どれほど推測し様々な仮説を手繰ってみても解答を引き出せなかった。
 だが、『協力』という歯車をはめこんでみれば、不可解であり続けた彼女の言動は一つの目的を実に鮮やかに描き出す。
 彼女の取っていた言動をその時点その時点で客観的な視点に立って考えれば、なるほど、それはホテルでの『王女とその恋人』の一泊デートを円滑に進ませるために最適な行動そのものではないか。
 加えてそのデートの光景は、普段『照れ隠し』ばかりをするニトロ・ポルカトが、多少はぎこちなくともティディアと腕を組んで歩く仲睦まじいものだ。それこそ王女が恋人と甘い一夜を過ごしたことを演出するに余りあるほどの。
 ……本当に、解ってみれば何も難しいことではない。
 胸の中でずっとちくちくと心を刺していた小さな棘が――いつもは煙たがっている彼女を都合良く利用している罪悪感が急に大きくなったようで、ニトロは息苦しさを感じてならなかった。
「……」
 ふと気がつくと、ティディアがこちらを見つめていた。人の心を見透かすような眼差しの下、口の端は頬に引き上げられている。
 その視線にニトロが目をわずかに伏せると、ティディアは半身を傾けるようにニトロへ向き直り、目尻をも垂れて微笑んだ。それはどこか、親が子を、師が弟子を、よくできたと誉めそやす慈しみにも似た笑顔だった。
 いや、実際、よく理解できましたと彼女は言っているのだろう。そして問いかけている。
「……解ってるよ」
 ニトロは口を尖らせ、しかしすぐにここでふて腐れてはそれこそ餓鬼だと思い直し、素直にティディアの視線を受け止めて答えた。
「こういうことは、滅多にしない。今回は特別だ」
「本当に?」
「何だよ、信じられないか?」
「特別なんて便利な言葉を使われちゃったら不安ね。次また友達からティディア姫に〜なんて、頼まれたらどうする? また『特別』に聞く? それともスーミア君だけを『特別』にする? 『滅多にしないこと』も、ただ一度の『特別』から特別でなくなるなんてざらにあることよ」
 痛いところを突かれたニトロは苦虫を噛み潰した顔で、うめいた。
 返す言葉がすぐには見つからない。
 確かに、企業や各種団体からの『お願い』ならば自動的に断りを返せても、友人からの『頼み』ではそうはいかない。そして下手に頼みを引き受けていけば、その先にある大混乱は目に見えている。
 例え……友人が『ニトロ・ポルカト』に頼みをしようと思わなくても、今回のクレイグのように、親戚、あるいは全く関係ない人間から依頼の仲介を持ちかけられて迷惑を被る可能性だってあるだろう。
「ちゃんと、区別はするよ」
 ややあって、重々しくニトロは答えた。
「もし、またクレイグから頼まれたとしても、その時はその時でしっかり考えて返事をするさ」
「うん、それなら安心」
 ティディアは伏目がちに言ったニトロへ、一転即座にうなずきを返した。
 それに面食らったのはニトロだった。彼は目を瞬き、湯船の縁石に背をもたれて星空を見上げるティディアに言った。
「随分……簡単だな」
「んー、ちょっと意地悪言っちゃったけどね、元々ニトロのそういう分別は信頼しているから。その言葉を聞けたらそれでいいの」
 そこまで言って、ティディアは小さく肩を揺らした。何か思い出し笑いをしている様子だった。彼女は訝しげなニトロの目に気づくと、
「こういう話、ニトロともっと前にしているつもりだったのよ」
「何で?」
「ニトロに色々なところから『依頼』がくるのは解っていたから、それをニトロが安易に引き受けたところで、そんなことしちゃ駄目、大変なことになるからって優しく諭してポイント稼ぎでもしようって考えていたの。時期はあの『映画』が公開されてすぐくらいかなって予想していたんだけど……でも予想以上にニトロがしっかりしてたから、ここまで待つことになっちゃった」
 と、いうことは、今回の件もある程度ティディアのずっと前からの『予想範囲』の内にあったということか。そう思うと何だかまた彼女の掌で転がされていたような気がしておもしろくなく、ついニトロは憎まれ口を叩いた。

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