石造りの大きな浴槽から湯が溢れ続ける音、その上を越えてきたシャワーの音を耳にしたニトロは、一度スポンジを持つ手を止め、それから幾ばくか手を早めて体を洗い終えた。
ボディーソープをシャワーで洗い流し、使い終えた備え付けのスポンジを回収ポケットに放り込む。それから
……ティディアに対し『お前の裸はむしろ戦闘服』、とは言ったものの。
曲がりなりにも成人女性の裸を真正面にするのはやはり落ち着かないし、その上こちらも裸だ。いくらティディア相手だからとて、いや、あるいはティディア相手だからこそ、どうしても隠しようのない恥ずかしさがある。
ニトロは洗い場から少し離れた対辺の長さ等しい長方形の人工の泉、豊富な湯がなみなみと満ちる広い湯船に早急に、しかして慎重に身を投じた。
ハンドタオルを湯につけることなく畳み、この地方の作法に従いそれを頭の上に乗せる。
ため息をつくように息を吐きながら心臓の辺りまでを湯に沈め、そこでようやくニトロはほっと肩の力を抜いた。
湯の温度はぬるめに落とされ、感触はしっとりと、微かなぬめりで何をせずとも肌を磨こうと撫でてくる。土地独特の赤褐色を帯びた湯は夜の色を溶かし込み、驚くほど黒々として見える。
背後から届く男女洗い場の屋根にある弱い――洗い場内においては十分な――照明のおこぼれが水面に揺らめいているが、それは周囲に電灯の無い浴槽内を一層暗く見せていて、向こう正面にある林と風呂を分ける壁際に等間隔に置かれた足下を照らすための光玉は、まるで夜の海に浮かぶ漁船の篝火だ。
湯に沈めた体に目を落とせば、暗い水の中でぼやけている。
空中と水中の明暗差と、絶えず極々なだらかに波打つ泉のお陰もあって、近くでぐっと覗き込みでもしない限り裸体が明らかになることはない。
これなら、そこそこ安心だった。
そりゃあのバカに浴槽の中で仁王立ちされれば体が隠れることはないが、そうでなければアイツに見せつけられることもない。もし仁王立ちされて「ほらほらほら」とでも迫られたとしたら、その時は足を刈って湯船の縁石に頭をしこたまぶつけさせてやればいい。
「……はぁ」
身に沁み込んでくる温もりに息をつき、ニトロは背を『縁石』にもたれた。
湯船は目の細かい砂岩を模して作られた建材でできている。耐久性も耐水性も抜群で、何より水垢も着かず雑菌の繁殖も許さない人工石。一見長方形の枠をどんと置いただけの無骨な浴槽は見た目に反してよく研磨され、肌にほどよい感触を与えてくれる。角も丸みを帯びて座りの悪いことはない。それにこの石造りの湯船には継ぎ目といったものが何処にも見当たらず、巨大な一枚岩から削り出されたものであるように造られていた。
湯は、どこからともなく湧き出ている。
どこからともなく沸き続け、浴槽の許容量を常に越え、常に絶え間なく石肌を伝い滑り落ち、敷石をひたひたと濡らしながらどこへともなく吸い込まれて消えている。
ニトロは頭の上のタオルが落ちない程度に空を見上げた。
露天風呂の外壁の先にはこの場を囲む木立があり、さらにその奥にあるのは、まさに真珠の粉を散りばめた美しい星空!
この場の照明を乏しくしてあるのはこのためか。林の木立が作る影は
加えて林から香る緑の匂い――王都より季節の巡りが遅い地方ではあるが、温泉の熱によりこの周囲だけ早々と芽吹いた若葉の清廉な香りが微かに特有の匂いのする湯気に混じって、体の外からだけでなく、胸の内からも心地良さで包んでくれるのが堪らなく気持ちいい。
なるほど、これは良い。これは素晴らしい露天風呂だ。
特にまだ裸では寒いこの季節。空屋根から抜けてくる冷気と温泉の暖気の混じり具合は絶妙な按配で、ぬるめの湯ともあいまって長く快適な入浴を楽しめそうだ。
人気があるのも、クレイグが薦めてくれたのにも、諸手を挙げて賛意を示せる。ニトロはまた息をついて両肩を湯に沈め――
「っ」
その時、水を撥ねる足音をかすかに耳にし、ニトロはくつろぎかけていた体に緊張感を持ち直した。
肩を湯の上に出し、マナー違反と分かっているがタオルを湯に着け、湯船の外でぎゅっと固く絞る。身近にあるものを武器にする方法――濡れタオルも立派な『凶器』にできることをニトロはハラキリから学んでいた。適度に水分を含ませたタオルを今一度頭の上に乗せた彼は耳を澄ませ、小さな足音がされど確実に湯船に向かってきているのを確信するや、彼女の裸を自ら視認すれば後から何を言われたものか分からないと真っ直ぐ正面を睨んだ。
短い時間だったとはいえ露天風呂を満喫できたことに一定の満足をしながら、いよいよ宿敵と『対決』する時がきたと肩を張る。
彼女は、密着するほど傍に来るだろう。
というか、きっと密着してくるはずだ。
まずはそれを適当な距離に遠ざけてから、聞き出さねばならないことを何とか告白させねばならない。
ニトロは短く息を吐いた。
それは温かな湯にほぐされて出た吐息ではなく、気合を入れる一種の自己暗示だった。
そして、とうとう、ティディアが湯に足先をつける音がやや離れた位置から聞こえ――
「……?」
――あれ? 離れた?
「ん、良いお湯」
ニトロは――思わぬ距離感を置いて聞こえてきた湯を蹴る音と、その声に、思わずそちらへと振り向こうという衝動を辛うじて押し止めた。
真正面を向いていても、視野角にはティディアの影が入り込んできている。直に見て測っていない分誤差はあろうが、彼女は、およそ人三人分を開けたところで腰を下ろしていた。一瞬、前屈みになったその頭が純白の塊に見えたのは、どうやら髪が温泉に浸からぬようタオルを巻いているかららしい。
ちゃぷ、と、水滴が跳ねる。ティディアが気持ち良さそうに息をついている。
ニトロは驚いていた。
予想通りティディアは傍に来た。だが、予想を外れ密着するほどではなく、それどころか適度な距離を自ら置き、湯の上に出した肩に手に掬った湯をかけている。
誘惑の言葉はない。
誘惑の仕草もない。
ぼんやりと視界の隅に映る彼女は、静かに湯に浸かり、つと顎を上向けて星空を眺めている。
……ともすれば、誘惑された方がマシだと思えるほどの混乱がニトロを襲っていた。
心の底から解らない。ティディアの考えが、元々理解不能な奴だが現在輪をかけて理解不可能だ。
一体、何を考えているのだろうか、このクレイジー・プリンセスは。その称号に反してひたすら穏やかに湯を楽しみ、しかしその脳裡にはどんな『未来』を計算しているのだ?
未知こそ恐怖の源とは言うが、それが今ほど身に沁みて理解できることはなかった。
「…………」
「…………」
無言の時が、続いていた。
(なんだ?)
「…………」
「…………」
二人口を閉ざしたままの時間が、相応の湯と共に流れ去っていた。
常ならばここぞと会話を重ねようとしてくるはずのティディアは一言も発さず、たまに心地良さに誘われた息をつくばかりで、目立った身動きすら見せず、ただそこにいる。
湯船から溢れた湯水が奏でる、さらさらと。
夜風になびいた木立が唱える、さわさわと。
ホテル・ウォゼット自慢の露天風呂には自然と生まれた音しかない。
少しばかり賑やかな静寂の中、ニトロは耳の奥に聞こえる己の鼓動がやけに煩くて堪らなかった。
(……なんなんだ……!?)
ニトロは畳みかけるように訪れ続ける『またしても』『いつもと違う』状況に、焦燥感にも似た、それとも恐慌を起こす寸前の切迫感を感じていた。
なんかもう、何のつもりだティディア! と叫んで両肩掴んで頭をがっくんがっくん揺さぶり回してやりたい気分になってくる。いや、こうなったらそうしてティディアに『白状』させてやった方が楽ではなかろうか。むき出しの、ティディアの、白い肩を、鷲掴みにして、逃げられないように爪を立
(いやいや待て待て)
はたと思考がおかしくなっていることに気づいたニトロは、湯をすくって顔を洗った。
(ああ……どうもいけない)
考え疲れた脳がやっつけ仕事で事を済まそうとしていると、我ながらどこか他人事のように分析しながら、間違った方向へ噴き出そうとしていたストレスを胸にこもる古い空気に包んで深く深く吐き捨てる。
――と、吐き出した空気の代わりに新鮮な空気をニトロが胸一杯に吸い込んでいた、その時、
「クレイグ・スーミア」
ぽつりと、ティディアが言った。