「……まあ、元々このホテルのため、っていうよりさ。クレイグの頼みのため、ってことだから……ここがどうだろうと、そういうことで、どうかな」
たどたどしいニトロのセリフ――それも改めるまでもない前提を彼が改めて口にしてきたのは『気遣い』のためであることを、芍薬は理解していた。
と、同時に、芍薬は下手に不満を漏らしてマスターにいらぬ気遣いをさせてしまったと後悔していた。
――かといって、それにフォローをかけようとすれば、お互い不格好に気遣い合ってしまうだろう。
そもそも過程においていくら自分が不満を持っていたとしても、結果的にニトロの役に立てるのであれば最後には不満を上回る満足が得られるというのに……現時点でマスターに心理的な負担を少しでも与えてしまったことが腹立たしい。
芍薬は己の未熟が図らずも露呈していたことを内省しつつ、しかしそれを口にしてもまたニトロに心を遣われてしまうし、折角の彼の気遣いを拒否することなど元より毛頭考えられないことであるから、
「承諾」
その一言だけを、ニトロに返した。
ニトロはアンドロイドが浮かべた笑顔にいくらか安堵しつつ、同時に芍薬に気遣わせてしまったことにも気づきつつ――その上で、今日は芍薬に「甘える」と言ったのだから、とことんそうしてしまおうと腹を決めた。
芍薬が何と思おうとここからは心配らずこちらの決めた通りに動く。
うだうだと不格好に心を遣うより、その方が芍薬も喜んでくれるはずだ。
「それじゃあ、行こう」
ニトロは立ち上がった。
芍薬がさっと動き、バスバッグ――バスタオル類・部屋着と併せてこの部屋に備えてあったバッグに持ってきていた下着を詰めてある――を提げ、ニトロの先に立った。
「とりあえず、芍薬は他に誰も来ないよう番をしていてね」
「承諾。風呂内ノ警備ニハ警戒機ヲイクツカ回シテオクネ」
「それは……ホテルのセキュリティには引っかからない?」
「『警護ノタメ』ッテ言ッテ、先ニ登録サセテオイタ」
さすが芍薬、手回しがいい。
ニトロはそれでよろしくと返し、ふと、気になった。
「警戒機の武器って……」
ドアノブに手をかけていたアンドロイドが立ち止まり、
「色々アルケド、状況的ニ使エルノハ
「……最後のはやめてね」
ティディアに打ち込まれたワイヤーに電撃が走ったら、彼女と湯水につながれた自分はどうなるか――
肩越しに振り返った芍薬は、浮かべた笑みに少し悪戯心を忍ばせていた。
「モチロンサ。
デモ間違エチャッタラ、御免ネ」
なかなかキツイ芍薬流の冗談に、ニトロは肩をすくめて戯れを返した。
「いいよ。芍薬にやられるんだったらいっそ本望だ」
ニトロが芍薬と廊下に出てエレベーターホールに向かおうとティディアの部屋のドアにさしかかった時、まるで狙いすましたかのような――いや、実際に狙いすましていたのだろうタイミングでドアを開き、ホテル・ウォゼットのバスバッグを片手にティディアが現れた。
「あら、奇遇ね――なんて言うなよ」
わざとらしく目を丸くしたティディアにニトロが言うと、彼女はふふんと鼻を鳴らしてニトロの横に並んだ。
「芍薬、持ってやって」
「承諾」
芍薬に手を差し出されたティディアは目を丸くしていた。今度は演技ではない。驚いているような、興味を引かれているような……そのどちらもか。しかし彼女はすぐに納得した様子で微笑むと、アンドロイドの冷たい手にバッグを渡した。
「ありがと」
ティディアの礼に、芍薬は軽くうなずいた。そのまま二人の背後に控え、粛々と後についていく。
ニトロの隣に並んで歩きながらティディアが言った。
「食事、美味しかったわね」
「そうだな」
「朝食も期待できそうね」
「そうだな」
「ハラキリ君もあっちで美味しいもの食べているかしら」
「食べてるんじゃないかな」
「……ニトロ」
「なんだよ」
「そんな生返事ばかりだと、女の子に嫌われちゃうわよ」
「おお、そりゃ大歓迎だ。是非嫌ってくれ」
「それでハラキリ君が言ってたんだけどね」
「おお、無視ときたかコラ」
「
(う)
ニトロは、喉の奥でうめいた。
ティディアの感想は自分も抱いたものと同じだ。
だが……まあ、とはいえ親近感を抱くのは何も特殊な感覚というわけではないだろう。うん、そうに決まっている。
「ハラキリ、お前にも言ってたんだ」
努めて動揺を出さぬようにニトロが言うと、ティディアの目が輝いた。
「あ、ニトロも聞いたんだ。オヌセンマ・ジューとかいうお菓子があるそうだけど、ニトロはどういうものだと思った?」
どうやら彼女はニトロから返ってきたものが生返事ではなかったことで、応答のある話題を見つけられたと喜んでいるらしい。口も滑らかに、ニトロの思考を覗き込もうとするかのような興味津々の眼を彼に向けている。
「オヌセンマ・ジュー?」
しかし、ニトロはティディアの眼を意識するよりも、新しく出てきた単語に首を傾げていた。
「あら、聞いてないの?」
「ああ。俺が聞いたのは――」
エレベーターホールに着くと、従業員の女性が一人待ち構えていた。エレベーターが一基、ドアを開けていて、彼女がそこにどうぞと促してくる。
ニトロとティディアが先に入り、芍薬が最後に乗り込んだ。
「いってらっしゃいませ」
女性が頭を下げると、それが合図となっていたのだろう、エレベーターを管理するシステムが自動的にドアを閉め、静かに降下が始まった。
「俺が聞いたのは、オヌセン……ダッキューだったかな、そういうスポーツ施設と、ロカンとかいう宿泊施設。それとノタイモリっていう料理だよ」
親友が言っていたことを思い出しつつ口にしていたニトロは、そこでふいに得体の知れない悪寒を感じた。
(――なんだ?)
突如としてぞぞっと体幹の芯に走った寒気、それは己に備わる危険探知機が最大限の出力で作動したようでもあった。あるいはまるで、薄氷でできた橋をそうとは知らずに渡ろうとしているのを、それ以上進んではならないと神経を凍らせることで足を止めようとしたかのように……
「オヌセンダッキュー?」
ティディアが一番関心を引いたらしい単語を口にする。
(……)
それには寒気を感じない。ということは、ロカンか、ノタイモリか?
「オヌセンマ・ジューとちょっと似てるわね」
悪い予感は得てしてよく当たるものだ。幸いティディアの興味は彼女の既知と通じるものに向けられているから……得体の知れない悪寒がロカンとノタイモリのどちらに起因するものかは判らないが、とにかくそれらには触れないでおこうとニトロは心に決めた。
エレベーターが一階に到着し、ドアが開く。
「響きは似てるな」
二人を露天風呂へと案内するために芍薬が先に外に出る。それに続きながら、ニトロはティディアの疑問に乗った。
「本当にハラキリはお菓子って言ってたのか?」
ニトロが振り返って問うと、ティディアはうなずいた。
「そうよ。丸いらしいわ」
「……」
「……」
「え? 情報それだけ?」
「ええ。だからどういうものかしらって思ってたんだけど……」
「何だか変わった所みたいだからなぁ」
「でも何だか理解できる範囲にはありそうじゃない?」
「……ん、まあな」
「分かるだけ調べて作らせてみようかしら。それで美味しかったらお茶会でも開いて……どう?」
エレベーターホールからしばらく行ったところで一階にある共同浴場を横に抜けると、正面玄関のちょうど真裏に位置する扉に差し掛かった。そこには男性の従業員が直立不動の姿勢で待っていて、賓客の登場に気づくやきびきびと扉を開いた。