(あれ?)
 ニトロは、もう三度目の疑問に大きく首をひねりたい気分だった。
 頼んでもいないし、それどころか話を聞いてもいないのに、出てくる料理が既に決められてしまっている。
 おそらくは、これはホテル・ウォゼットからの『好意』なのだろう。魚料理の名に入っているハパントフラットとは、南の大陸で獲れる有名な高級ヒラメだ。肉料理に使われている牛も同様に名立たるブランド。
 どれもこれもWebサイトで見たこのレストランのメニューには載っていない料理だ。きっと今夜限り……それとも今夜を機にメニューに登場する『特別な料理』であるのだろう。
 しかしいくら高級品を使った豪華な料理を並べられても、ここには、近くのブロバ湖で養殖されている特産のセグトスソール――淡水舌平目の名も、クレイグが言っていたアカオドリとキノコと山菜のスープの名も、ニトロが食べたいと思っていたものの名は一つもない。
 メニューを凝視していたニトロがふと視線を感じて顔を上げると、食中酒はどうするかとロセリアに聞かれていたティディアが、こちらを見つめていた。
 もしや……ティディアがメニューを指定していたのだろうか。
 眉をひそめたニトロを見て、ティディアは愉快そうに苦笑し、
「好きなものを食べさせてはくれないのかしら」
 穏やかに、ふとした疑問を口にするように――同時にニトロの気持ちを代弁するように、彼女はロセリアに言った。
「――っは」
 奇妙な息を吐いてロセリアは硬直した。王女の突然のクレームを受け、血が一滴もなくなったかのように顔が白くなる。
 ティディアは目を一度板晶画面ボードスクリーンに落とし、それから目を泳がせることもできずにいる女主人に穏やかな口調で言った。
「とても素敵な内容で感激したわ。だけど、できれば好きに選ばせて欲しいの。ほら、ニトロが料理好きだって知ってるでしょう?」
 そのことをニトロ自身がメディアで発信した覚えはないが、ティディアが『彼の手料理』が大好物だと触れ回っているお陰で、世間には何故だか一流シェフ並に上手いと誤解されている。
 そしてそれはティディア姫に関する情報を完全に遮断でもしていない限り自然に入ってくる情報だ。当然、ロセリアも知っているだろう。
「だからここの料理も下調べしてあって、食べたいねって話し合ってたものがあるの。他にも二人で相談したいし、ね?」
 ティディアは……また、本当に珍しく、言葉を選んで言っていた。普段なら『勝手に決めないでくれる』とでも単刀を突き刺すだろうに、今は違う。丁寧に相手の好意を尊重する意志を示しながら希望を告げている。
「お願いできるかしら」
 クレイジー・プリンセス、ティディアに願われて拒否できるものはこの国にそうはいない。
 ロセリアはすっかり恐縮した様子で大きくうなずき、引きつった声で「かしこまりました」と頭を垂れるとすぐにポケットから端末を取り出した。彼女がそれを操作するとボードスクリーンの固定されていた画面メニューが、流麗な書体の『表紙』と入れ替わった。
「では……」
 そこまで言って、ロセリアは言葉に詰まった。何事かを悩んでいるかのように目を泳がせ、やおら得心がいった様子を見せると一歩下がった位置でテーブルを睨み直立不動の姿勢を取り
「お決まりになりましたら、承ります」
「や、何かもう色々と違くね?」
 オーナーの行動に四度目の疑問を覚えたニトロは、つい(今度こそ)ツッコンでいた。
「――は?」
 ロセリアが、まさに不意打ちをくらった顔でニトロを凝視する。彼女の刺すような視線を受けてニトロははっと我に返り、
「あ」
 うめいた。
 悪い癖を出してしまったことを悔いるが、もう遅い。ロセリアはニトロの『クレーム』を受けて再び顔を蒼白としている。そこには王女に言われた時とは違い、わずかに怒りもあった。プライドに障ったか、それとも王女の前で失態を重ねて演じさせられそうになっての焦燥からか、ロセリアのその強い視線を受け止めながらニトロは内心でもうめいていた。
(あー、しまった)
 どうやってこの場を取り繕うか思案するが、うまくフォローが出てこない。
 そんなところに居付かれたら気になって仕方がない……とはストレート過ぎるか。
 給仕として慣れてないなら無理にやらない方が……ではフォローになっていない。
 オーナーがそんな前面に出てこなくても……だと単に生意気だと取られるだろう。
 ニトロが場つなぎの無意味な声を出そうとしたちょうどその時、
「そうね、私も気になってた」
 ふいに口を挟んできたティディアのニトロへの同意がとにかく驚いたらしく、ロセリアは瞠目し、頬を張り飛ばされたかのように王女を見た。
「あなたの部下は、あなたが仕事を任せられないほど未熟なのかしら」
 そう言うティディアの視線は相変わらずレストランの入口にいる給仕達に向けられていて、それに気づいたロセリアは青褪めていた顔を紅潮させた。
「そうでないなら任せなさい。ここは彼らの仕事場でしょう? もし王女わたしのためにオーナー自ら、なんて考えているなら、そんなこと考えなくていいわ。彼らのサービスが満足させてくれるものだったなら、それは同時にあなたの仕事への満足にも通じるのだから」
 ティディアの口調は変わらず常に穏やかで、今においては生徒を諭す教師のそれにも似ていた。
 ロセリアはやがて恥じ入るようにうつむき、そして王女の言葉が身に染みたように、言った。
「お恥ずかしいところをお見せ致しました」
「いいわ。料理を楽しみにしているって、あなたからシェフに伝えておいてね」
「――かしこまりました」
 最後にティディアに頼まれたロセリアは、オーナーの面目を立てる王女の配慮にいたく心を打たれたらしい。目を潤ませ耳まで赤らめて深々と辞儀をすると、給仕達の元へと歩いていった。
「……お前」
 ロセリアがこちらの声が聞こえないくらいに離れたのを見計らい、ニトロは困惑を隠さずティディアに問うた。
「本当に、今日はどうしたんだ?」
「何が?」
「何がって、いつもと……違うじゃないか。特にここに来てからはずっと変だ」
「そう?」
 ティディアはニトロの疑惑を軽く受け流し、メニューに目を落とした。
「……ティディア? 」
 問いかけて、ニトロはボードスクリーンを持つ彼女の手を見てはたと気づいた。その左手の薬指には、あの『けっこんゆびわ』がある。
(まさか――)
 それのお陰で心底機嫌が良いだけ……ということは、いくらなんでもないと思うが……
「ほら、早く選びましょう」
 自分の左手を見つめるニトロへ言うティディアの目はかすかに悪戯めいていて、成熟した美貌にどこか幼さの漂う魔性を浮かべた彼女には、心のひだをさんざめかせる得も言われぬ魅惑があった。
 ニトロは思わず気を飲まれそうになったが、踏み止まり、メニューに目を落とした。
「ところでニトロ」
 そこに声をかけられ――彼女の意図を掴めぬは、忙しく目を上下させられるは――ニトロは苛立った声を返した。
「何だよ」
「お酒、何飲む?」
「未成年者への監督責任って知ってっか、王女様っ」

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