ティディアと夕食の約束をした時刻の直前、一階にあるレストランにやってきたニトロは、そこにあると思っていた姿のないことに首を傾げた。
 自分との『約束』に関しては遅刻などしたことがなく、時間前行動が当たり前のティディアがこちらより遅いのは珍しい。
 その代わりといったように、レストランの入口には何故かロセリアがいた。ウェイターが二人とウェイトレスが一人、彼女の背後に控えている。
「ティディアは先に?」
 もしやと思ってニトロが問いかけると、ロセリアは否を返した。むしろその顔には『恋人』と連れ立ってこなかった少年に対する疑念こそが浮かんでいる。
「芍薬」
 ニトロはロセリアの視線を避けるように、自分から一歩半下がった距離を崩さずにいるアンドロイドへ振り返った。
「部屋ニハイナイヨ。チョウド降リテキテルンジャナイカナ」
 芍薬の返答は正しかった。
 それからすぐに、エレベーターホールの陰からティディアが現れた。
 彼女はタクシードライバーの姿を捨て去り、セミフォーマルとしても通用しそうな黒いワンピースを着ていた。
 優雅な足取りに裾が小さく翻り、また華やかに翻る度、膝の動きに併せ生地の際から腿が透けて色気を魅せている。
 本来の色に戻った双眸――黒曜石を思わせる幽かに紫を帯びた黒瞳は艶めく黒紫の髪と互いに引き立て合い、化粧はわずかに唇に紅が差されたくらいで、しかしそれだけでも『ティディア姫』の美貌はロセリア達のため息を誘った。
 ニトロは自分のカジュアルな格好とでは不釣合いだなと思ったが、まあ、構うまい。
「ごめんね、待った?」
「いや、今来たところ」
 やけに軽く声をかけてきたティディアに反射的に応え、ニトロははっとした。
 ――しまった。
 これではまるでベッタベタな恋人同士の会話ではないか。こうくると服装の対比がディナーに気楽に臨んだ彼氏と気合を入れてきた彼女という構図にも見える。いや、見えるどころではない。そこに今のやり取りが重なればまさにそれだ。うっわ何だかえらい気恥ずかしい。
 ティディアは機嫌の良い微笑を浮かべている。こちらの動揺に気づいている。ニトロはティディアに『いじられる』ことを覚悟したが、
「さ、行きましょう」
 しかし彼女は、ニトロの目の前で軽く足を止めてそう言い、そのままレストランへと向かった。
(――あれ?)
 またも普段の彼女からは考えられない不可解な行動を取られ、内心の覚悟の行き場も露と消え、とかくもやもやとした気持ちをニトロは感じてならなかったが……すぐに、彼は心調を整えた。ふと目が合った芍薬に小さく口の端を持ち上げて見せ、脇をすり抜けたティディアを追って振り返る。
 すると振り返った先にあったのは、表情を激変させたロセリアの姿だった。王女と恋人の今のやり取りを見た彼女は――あるいは古い古い童話の姫君の恋のワンシーンを現実に目にしたかのように、瞳を輝かせていた。
 ここに来てからのことを思ってみても、どうやらホテル・ウォゼットのオーナーはティディアのことが大好きなようだ。その目の輝きには心酔の気配すら滲んでいる。
(まさかティディア・マニアじゃないだろうな)
 それもドが付くほど熱狂的で、王女に『協力』することに骨身を惜しまぬ……などと新たな懸念を抱きながら、ニトロはレストランに入るティディアの後に続いた。
 と、その時、もしこのレストランこそがティディアの用意した虎穴であったら――と、発作的にニトロの心臓のすぐ傍で不安が首をもたげた。
 瞬間的に、ニトロの鼓動が大きく跳ねた。
 が、しかし、それで彼の歩が緩むことはなかった。
 あらゆる筋に力がこもることもない。後ろに続く頼もしいA.I.の存在が、それに甘えていいという確信が、不気味なほど存在感を持つ王女の背を前にしてなお、彼の心身に強固な余裕をもたらしている。
 そしてその余裕は――幸か不幸か――少年に年不相応の風格すら与え、ティディア姫の連れとして相応の人物であるという説得力をも生んでいた。
「いらっしゃいませ」
 ティディアがレストランの『敷地内』に足を踏み入れた時、もはやそれが正常に見えるほど緊張して表情も体も固いウェイターとウェイトレス達が頭を下げた。
 ロセリアは幾分慣れてきたのか――逆にそちらの方が異常に思えてくる柔らかな笑顔でティディアを迎え、
「御席へ御案内させていただきます」
(ん?)
 客の先導に立ち、オーナーが言ったセリフにニトロはふと疑問を覚えた。
 いや、別に特段おかしなことを彼女は言ったわけではない。だが、ウェイターとウェイトレスという専門家がいるのに……
「……」
 ニトロが立ち位置から微動だにしない彼らに目を向けると、ちょうど視線の先にいたウェイターが畏まった会釈をしてきた。つられて他の者も頭を下げる。
 何となく釈然としないものを感じつつニトロは会釈を返し、
「ニトロ」
 疑問に気を取られていた間に何歩も先に進んでいたティディアに呼ばれ、早足で彼女に歩み寄った。
 ティディアが振り返ったのに合わせて立ち止まっていたロセリアが、王女がまた歩き出したのに合わせて奥へと向かう。
 ティディアに追いついたニトロは彼女に促され、彼女の前を歩きながら改めてホテル・ウォゼットのレストランを見回した。
 良く磨かれたセピア色の――これは合成建材だろう――床板が天井に等間隔に並ぶ白熱電球様の明かりを穏やかに照らし返し、それは赤煉瓦と漆喰モルタルに飾られた壁と調和して、暗すぎず、明るすぎず、ここにはほっと心休まる空間が作り出されていた。
 ホテルに他に客がいないこともあって貸し切り状態ではあるが、店内のテーブル全てに真っ白なクロスがかかっていて、清潔感溢れるその白布は心地良ささえ呼び起こし、ここで飲食をすることへの安心感を高めてもくれている。
 ワインレッドの絨毯と派手なシャンデリアに飾られたロビーとはまた違う雰囲気だ。どちらかといえばこぢんまりとしたホテルの外観に通じるものがあり、事実、ここは新オーナーが様々なものを刷新する中で、外観と露天風呂と並んで改革を指示しなかった部分だった。
 クレイグの――つまりセドからの伝聞では、それらはロセリア自身が元々気に入っていた場所であったそうだ。
 そしてここは、クレイグが――クレイグ自身が自信を持って勧めてくれた料理を出す場所でもある。
 シゼモの情報が集まるネットコミュニティで目にした元ホテル・ウォゼット常連客達の交流記録にも『たまにここの料理と露天風呂を目当てに行きたくなる』という複雑な心境が残っていて、そこで知った限り、シェフが作るセグトス地方の郷土料理や調理法を取り入れた品々は、目が飛び出るほど美味しいというわけではないが、ふと無性に食べたくなる味であるらしい。
 ニトロはそれを味わうことを、何より今日一番の楽しみにしていた。
 その期待には、三日前に両親と食事をした際、父が「そういう料理に星をつけるガイドはなかなかないから、探すのは大変なんだよ」と言っていたことも影響している。感想を聞きたいと言われたから、一緒に食事をする相手が相手だとはいえ、しっかり味わい楽しもうと。
「こちらへどうぞ」
 案内されたのは壁を背にした席から一つ手前の窓際のテーブルだった。窓ガラスの向こうには花壇の所々で蛍火スズランが淡い緑光を灯し、その儚い光の連なりに幻想的に照らし上げられた庭がある。この季節を彩る花壇や植え込みなどの角度を考えると、ここが一番良い席であるようだ。
 ニトロは足を止め、ティディアを席に促した。
 家族でレストランに行った時、父が必ず母に対してそうしていたこと――席までは男性が先に立ち、座るときは先に女性を。何度も何度も見た光景は癖となり、それはニトロを自然と動かしていた。
 その様子を見ていたロセリアは、少年の堂に入ったマナー通りの行動が意外であったのか妙に感心したように目を細め、それから視線を王女に戻すと恭しく椅子を引いた。
「ありがとう」
 腰を下ろしながらティディアに笑顔で言われ、ロセリアは頬を紅潮させて辞儀をした。そして足早に――
(――あれ?)
 ニトロは、テーブルから離れていくロセリアを目で追いながら、小さく首を傾げた。
 てっきり次は自分の席を引いてくれると思っていたのだが……慣れぬ給仕業に仕事を間違えたのだろうか。
「主様」
 代わって椅子を引きニトロを促したのは芍薬だった。
 その顔には少し不機嫌が表れている。マスターをないがしろにされたとでも思っているのだろう。ニトロは気にしてないよと笑みを浮かべ、座った。
「そうそう、ニトロは聞いた? 温泉のこと」
 テーブルに両肘を突き、手を組んだ上に顎を乗せるようにして、上目遣いにティディアが言った。その顔の下で光を照り返す美しく並べられた銀のフォークやナイフが、ニトロには異様にぎらぎらと輝いて見えた。
「聞いたよ」
 ぶっきらぼうにそれだけ答えて、ふとニトロは気になった。そういえばオーナーはこのことを言い忘れていて、自分は前もって情報を集めていた芍薬に聞いて初めてそれを知った。だが、ティディアがそれを知る機会はまだ無かったはず、なのに――
「何で、お前はそのことを知ってるんだ?」
「ん? 何のこと?」
「『混浴』のことだよ」
 よもやお前が手を回したんじゃないだろうな? そう問いかけるニトロの眼差しにティディアは微笑し、
「私も、部屋で聞いて初めて知ったわ。良い気遣いよねー」
「部屋で?」
「ええ、オーナーから連絡が入ってね。ニトロは違うの?」
「いや――」
 と、ニトロが否定を返そうとしたところで、カツカツと大きくヒールの音を立ててロセリアが戻ってきた。彼女の手には板晶画面ボードスクリーンが二つある。どうやらそれを取りにいっていたらしい。
「本日のメニューでございます」
 ロセリアは一枚をティディアに、もう一枚をニトロに手渡した。
 ニトロは板晶画面ボードスクリーンにはメニューの表紙が表示されていると思っていたが、そこには前菜・スープ……とコース料理の品名が並んでいた。ロセリアが持ってくる間に誤操作してしまったのかな、とページを繰るアイコンを探しても、どこにもない。料理の品もデータもこれのみで固定されていた。

→2-4nへ
←2-4lへ

メニューへ