「急に?」
「御意」
「内風呂、ってことは部屋のバスルームも?」
「使用不可」
「……洗面台の湯は?」
「使用可能」
「……。露天は?」
「使用可能」
ニトロは苦笑した。
「随分と都合のいい故障だ。それで、是非、当ホテル自慢の露天風呂を使ってくださいって?」
「言ッテイタヨ。仕切リモ取ッテ混浴ニシテアルッテ」
「そりゃまた、随分と余計な気遣いだ」
頭の後ろで手を組み、それを枕にしてため息をつく。
本人は気の利いたことをしているつもりなのだろうが、得てして相手を慮る気持ちが欠けている――クレイグの義理の従妹に対する評価は、厳しいものだった。
言い換えれば『独り善がり』の傾向が強いらしい。
それはホテルの経営にも反映されていて、若いオーナーは自分の理想を叶える気持ちばかりが強すぎて、客のことを考えるよりもまず自分の想いを優先させてしまっているそうだ。
その最たる例は、ニトロ・ポルカトとティディア姫がホテル・ウォゼットに泊まると決めた際、先にこの土日に泊まろうとしていた予約客に対し、一般人がいてはティディア様に失礼に当たるからと適当な理由を付けて全ての予約を断った、ということだろうか。
――『一般人がいてはティディア様に失礼に当たる』
ロセリア本人にとってみれば、それは賓客たる王女のことを慮っての判断だったのかもしれない。
だが、彼女のその眼には、シゼモの数多ある宿泊施設の中からホテル・ウォゼットを選んでくれた先客の姿はもとより、ましてや一般人と同じホテルに泊まることに不満を抱くようなたまではないティディア様の姿も、全く見えていない。
それはきっと、経営者として致命的なことだ。
創業者の娘夫婦がホテルを継いで三年、先の代にはなかったライトアップの演出や豪華な内装を取り入れ様々なことを刷新したホテル・ウォゼットの経営状況は、それら新たな経営努力も虚しく緩やかな下降線を描き続けている。
しかし、それでもまだ緩やかな下降線を描く程度で済んでいるのは、妻のサポートにフォローにと奮闘する夫の尽力の賜物だろう。
今回の件にしても、一般客の予約を断ると決めて以降は『王女様をお迎えする』ことに頭が一杯で、その客らへ気の回らぬロセリアの代わりにフォローの全てを取り計らい、頭を下げて回ったのもセドだというのだから。
なるほど、直にこのホテルに触れてみて、クレイグが彼の主義に反して『ニトロ・ポルカト』を利用せざるを得なかった理由を実感と共に改めて理解する。
……同時に、仲の良い従兄に何度も頭を下げられたという級友の、自分にすまなそうに頭を下げてきた友達の、信条を支えにした天秤が揺れる胸の内も。
「ドウスルンダイ?」
「……クレイグも露天風呂を勧めてたっけ」
「絶対ニ一緒ニ入ロウトスルヨ」
「だろうね」
「イクラ何デモ混浴ハ勧メラレナイケド……」
「うん」
ニトロは目をつむり、道中でのティディアとのやり取りを思い返した。
ティディアはハラキリがいれば、と残念がっていた。そうすれば混浴を楽しめたのにと。
……胸には、彼女に対する小さな棘がある。
もしかしたら彼女に対して初めて感じる、棘が肌に埋もれたままの疼痛がある。
彼女が今日を『チャンス』と口にし、不可解な言動があるからには油断はできず隙を作るわけにはいかない。いかに芍薬が傍にいても、そう、ティディアと全裸で湯船を共にするという愚行を犯すわけにはいかない。
よしんばそこで何もなかったとしても、あのバカ姫は一を十にも百にもして『のろけ話』を吹聴する奴なのだから。
だが……しかし――
「…………そのことは、後で決めるよ」
「御意」
迷う心そのものを声にしたマスターを見つめ、芍薬はうなずきだけを返した。
「時間まであと何分?」
「十五分」
「少し休むよ。十分経ったら起こして」
「承諾」
芍薬は部屋のシステムに干渉して灯りを消した。
よほど疲れていたのだろう、ニトロの心身がすっと浅い眠りに落ちていく。
「……安心シテ休ンデネ、主様」
主の眠りを妨げぬよう人には聞こえぬ音量で囁いた芍薬は、空調の設定を確認し、クローゼットから取ってきた薄いケットを
そして暗視に映る彼の姿を見守りながら、抜かりなくティディア側に不審な動きはないかと警戒網・別邸・その他関連施設から得られる情報の分析を開始した。