三階、ホテル・ウォゼット最上の上等客室スーペリアルームに通されたニトロは、
「……どう思う?」
 一人で使うには大き過ぎるベッドに腰掛け、化粧台が据え置かれた壁の奥を見るように目をやりながら、傍に控えるアンドロイドに早速問いかけた。
「何カ企ンデイル――ト、思ウケド」
「それが何か解らない?」
「アノバカハ予測ニ必要ナ数値ヲ平気デ無視シテクルカラネ」
 言って芍薬は滑らかな動きで肩をすくめ、そして、すまなそうに眉を垂れた。
「恥ズカシイケド、今アノバカガドノ程度『良カラヌ』事ヲ考エテイルノカモ見当ツカナイ。トニカク……驚イチャッテ……」
「うん」
 ニトロはうなずいた。芍薬の驚きはもっともだ。自分にも、未だ、驚きが胸に残っている。
「まさか、自分からチャンスを潰してくるとはね」
「御意」
 化粧台が据え置かれた壁の奥――隣室で、ティディアは一体何をしているのだろうか。着替えているのか、一休みしているのか、ヴィタに連絡を入れているのか、それとも……自らチャンスを一つ犠牲にしてまで果たそうとしている『企み』のために準備でもしているのだろうか。
「……」
 思えば、今日のティディアはどこかおかしい。
 ホテルまでの道中のこともそうだ。タクシーを大人しく運転し、いつもならば当然仕掛けてきているであろう悪巧みも悪ふざけも無かった。
 児童養護施設での周囲を利用した『恋人ごっこ』に興じたり、どさくさ紛れに腕を組んできたりする厚かましさはいつもの通りだが、これも思えばそれ以上には足を踏み入れてこようとはしていない。
 いつも通りなら、それこそ人の心地に土足で踏み入り「私と夫婦になれー!」と喚き散らすことを辞さない――というか傍若無人に暴れに暴れて迫ってくる奴なのに、今日は、そのプレッシャーが薄い。言葉の端々に誘い文句――というか間違った誘惑を混ぜ込んできてはいるものの、それだけだ。
 腕を組んだなら、いくらパッドが間にあるとはいえ、これでもかとばかりに胸を押し付けてくるのが『普通』だろう。
 『けっこんゆびわ』の時とて、その気になればあれを「歴史的瞬間」だと仰々しく演出することもできたはず、いや、あの指輪をくれた赤毛の女の子という格好の『人質』がいたのだ。そうすることこそが迷惑極まるバカ姫のバカ姫たる由縁ではないか。
 ……タクシーを降りる直前には『ちょっとした驚き』であったものが、今やティディアの不可解な行動のせいで『完璧なる困惑』となっている。
 空恐ろしささえ、感じる。
「警戒網は?」
「異常ナシ」
「……別邸の今の状況って、解るかな」
「御意。フリーアクセスコードガ生キテルヨ」
「どんな感じ?」
「大宴会中。――チョウドヴィタガ挑戦者ヲ返リ討チニシタトコロダネ」
「挑戦者?」
「酒ノ飲ミ競イノネ。軍ニ伝ワル『伝統ノ勝負』ッテヤツカナ」
 ということは、彼女が相手にしたのは警備の直属兵か。
 思い描いていた空想は外れたものの、やはり涼しい顔で勝負を決めたのであろう麗人を想像してニトロは小さく笑った。
「話に、偽りなし、か」
「何ダイ?」
「ヴィタさんは来ないらしい。警備も」
「――本当カイ?」
「本当かな? って思ったんだけど、どうやら本当らしいね」
 器用に目を丸くしたアンドロイドに、ニトロは道中でのティディアとの会話を掻い摘んで語った。
「ソレハマタ大胆ナコトヲスルネ」
 そうため息混じりに言うアンドロイドは、感情を表すシステムの源――芍薬の『心』を精緻に写し取っていた。
 そこにはティディアのぬけぬけとした予測に対する苦々しさと、しかしそれを否定できず、そうなった時はマスターの命に従って彼女を助けるであろう自身を認めている一種独特の潔さがある。
 どちらにもつかず、またどちらもが表れた複雑な顔は、現在の感情表現技術エモーショナル・テクノロジーが作り出せる限界のものだろう。
 ニトロは芍薬に同質の笑みを返し、
「まあ、考えてもしょうがないか。どうせおいおい判るだろうし、ここまで来て考えすぎて疲れるのも馬鹿らしいし……」
 背骨を撫でる不安を吐き出すように言い、疲れた体を伸ばしてベッドに背中から倒れこんだ。
 上質の羽毛が体重を受け止め、柔らかで心地良い香りが首筋と鼻腔をくすぐる。
 照明は壁面の数箇所にあり、シェードを被ったそれは柔らかなオレンジ色で部屋をぼんやり明るくしていて、光の乏しい天井は暗い。ニトロはその薄暗さに、ティディアと初めて邂逅したホテル・ベラドンナの一室を思い出していた。
 ――あの時は、独りだった。
 『クレイジー・プリンセス』と対するにはこの身一つしかなく、出会ってもいないハラキリ・ジジはおろか、その時は裏切られたことを知らずにいたメルトンもなく、畏れ多き姫君に対するにはこの心も一つしかなかった。
 ニトロは大きく息を吸い、吐いた。
「それに、あいつが何を企んでようが、今は芍薬もいるから大丈夫」
「エ?」
 潤みある人工の深緑の瞳が、マスターを見つめた。
「移動の車が一番『危険地帯』だったろ? そこを乗り越えたから、もう、今日は安心だよ」
「主様駄目ダヨ、チャント警戒シテオカナイト。アノバカニ隙ヲ見セタラ何ヲサレルコトカ」
 たしなめの言葉をかけられたニトロは顔を芍薬に向け、笑った。
「うん。芍薬がそう言ってくれるから、俺は安心していられる」
 アンドロイドは男女のどちらともとれる中性的な外見だが、手を前に組んだ立ち姿は凛として芯の強い女性を思わせる。ニトロはそこにどことなく芍薬の『母』の姿を重ね見ながら、続けた。
「俺がどんなに油断してても、芍薬が傍にいる限りティディアも滅多な手は出せない。それはあいつも十分理解しているからさ。だから……甘えちゃってもいいかな。ここでの一泊を楽しまないと、クレイグの頼みをちゃんと聞いてやることができないから」
 ニトロは上体を起こし、芍薬を見た。
 深緑の瞳がわずかに光を帯びて、より潤んでいるように見えた。
「モチロンダヨ、主様」
 マスターの全幅の信頼を受けた芍薬は大きく力強くうなずいた。
 ニトロは頼もしいA.I.の自信に満ちた返答に安堵感が増すのを感じながら、またベッドに倒れた。
「デモ、今日ハ、アル程度ハ見逃シタ方ガイインダヨネ。サッキミタイニ」
 と、そこに少々やりにくそうな調子で訊ねられ、ニトロは天井を見上げたままうなずいた。
 そして、今更確認することでもないことを芍薬が改めて口にしたことに、
「何か気になることが?」
「御意。オーナーハバカ姫ノコトデ頭ガ一杯デ言イ忘レテタミタイダケド、今日、内風呂ハ給湯設備ノ故障デ温泉使エナイッテ」
 ニトロは眉をひそめた。

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