「ようこそ。ホテル・ウォゼットへ」
 彼らを迎えたのは、歓迎の合唱だった。
 ドアをくぐり抜けてすぐ左右に一列、五人ずつ。左は女性、右は男性、ホテルマンというよりは高級レストランのウェイターにイメージの近い糊の効いた白いシャツに黒いベスト、ベストと同色のシルエットもすらりと流れるパンツに身を包んだ若い従業員達が等間隔に並び、いずれも同じ角度に腰を曲げ、皆々今朝ヘアサロンに行ってきたかのように整えられた頭を下げている。
 正面には、従業員達より十は年齢の高い男女がいた。
 女性はこの中でただ一人タイトスカートのスーツで、その襟にはワインレッドの地にホテル・ウォゼットのマークが描かれた金縁のバッジが付けられている。育ちの良さを窺わせる上品な笑みを浮かべ、いかにもお嬢様といった雰囲気と立ち姿。美しく艶のある黒髪はこざっぱりとした髪型にまとめられ、彼女の持つ空気を一つ引き締めるアクセントとして見事に機能している。
 彼女の顔は、Webサイトに載っていた。
 ロセリア・ウォゼット。
 このホテルの所有者オーナーであり、創業者の一人娘として、実質、支配人マネージャーでもある。
 彼女から半歩後ろに控え、仕立ての良いブレザーの襟にオーナーと同じバッジを輝かせている男性は、サイトでは支配人として紹介されていた。
 垂れ気味の眉が人の良さそうな印象と共に頼りなげな印象を与えるが、とはいえそれは明るい栗色の髪のお陰で悪い印象とまではなっていない。深い茶色の瞳は落ち着きを感じさせ、恰幅の良い体型と総じて見れば、若い身ながらも責任ある役職を担うだけの説得力に辛うじて手が届いている。
 彼の名はセド・ウォゼット。
 ロセリア・ウォゼットの夫であり、クレイグ・スーミアの歳離れた従兄だ。
「ご機嫌麗しゅうございます、ティディア様。当ホテルのオーナー、ロセリア・ウォゼットでございます。お目にかかれて光栄ですわ」
 よもや王女が変装しタクシードライバーの姿で現れるとは思っていなかったらしく、一瞬面食らった様子を見せたものの、すぐに進み出てきて言ったロセリアの声にはあからさまな緊張とそれを上回る興奮があった。
「ティディア様におかれましては、当ホテルをご利用頂き、我ら一同身に余る誉れでございます」
 ロセリアが優雅に頭を垂れると、背後のセドと、頭を上げていた従業員達も追って頭を下げた。よく訓練されている。もしや全員アンドロイドではと思えるほどの一糸乱れぬ動きだった。
 ニトロは顔を上げるや真っ直ぐティディアを見つめてつらつらと歓迎の口上を再開したロセリアから視線を外し、思えば王女の存在にオーナーだけでなく左右の男女の全ても高貴なる女性へ熱い眼差しを送り緊張に張り詰めている中、一人だけ悠然と構えているセドに眼をやった。
 ニトロと目が合ったセドは小さく目礼した。
 その眼差しには、幾つもの感情が込められていた。
 クレイグから詳しく話を聞いていなければ、ニトロはけしてその全てを汲み取ることはできなかっただろう。
(……あなたも大変ですね)
 何となく共感と親近感を覚えながら、ニトロは目礼を返した。
「つかぬことを伺いますが……まことに、お部屋はご一緒でなくてよろしいのでしょうか」
 挨拶を終わらせたロセリアがふいに伺いを口にし、ニトロははっと意識を目前のオーナーへ移した。視界の中に入ってはいたが、焦点の外でぼやけていた彼女の顔がはっきりと目に映る。そこには、はっきりと、恋人達への『余計なお世話』があった。
 ニトロは慌てて口を開こうとした。
 オーナーの挨拶にやけに大人しくうなずきだけを返していたティディアが『やっぱ一緒で』と言い出す前に、予約の通りに『別でいいです』と強く主張しようと。
「ええ、別でいいわ」
 しかし、先んじたのはティディアだった。
 ニトロは何という致命的な遅れを取ったのかと歯噛んだ。何とか取り繕おうとティディアの言葉を打ち消す手立てを必死に思案し――そして、気づいた。
「は?」
 ニトロは思わず間抜けな声を出しながら、今も腕を組んだままのティディアに振り向いた。
 このバカ、今、何と言った? 二部屋でいい? ってことは、別々の部屋で泊まるということか? 自ら? 絶好のチャンスを自ら潰して……!?
「あの……?」
 王女の年下の恋人の反応に疑念を覚えたらしいロセリアが、二人に声をかけた。それにニトロは我を取り戻し、
「あ――ああ、えっと。
 ええ、別でいいんです」
「……はあ」
 ニトロの取り繕いをロセリアは生返事にも似たうなずきで受け止めたが、その表情には釈然としない有様がようようと溢れていた。
「本当は、二人で……がいいのだけれど」
 そこに嘴を挟んだのは、ティディアだった。ニトロと会話を重ねたタクシーの中とは違う、親しみやすく、気軽な口調ながらも上品さを失わない『ティディア姫』の言葉を紡ぐ。
「仕事があるの。まだこの人は王族ではないから、色々と不都合もあってね。だから」
 ティディアはニトロの腕に絡めた腕にぐっと力を込め、控えめに肩を寄せた。
 その行為はどこか忍耐を感じさせるもので、ロセリアにはそれが恋人と夜を別にする王女の強がりと映ったらしい。彼女は感銘を受けたように瞳を輝かせ、頭を下げた。
「これは差し出がましい申し出を致しました」
「いいわ。……もう、部屋へ行っても?」
「はい!」
 王女に案内を促されたロセリアが目を左右の従業員に配ると、男女それぞれの列から一人ずつ、ベルボーイとベルガールが進み出てきた。
 王女の前に進み出たベルガールは、哀れなほど緊張していた。プロ根性で爽やかな笑顔を浮かべているが、残念、その下の表情筋は氷のように硬直して、今にもそこから冷たい汗が流れ出てきそうだ。
 一方、ニトロを担当するベルボーイは幾分気が楽なようで、十は年齢が下の『賓客』に歓迎の笑顔を極自然に向けている。
 二人はそれぞれ客に一礼すると、少年の背後に控えるアンドロイドから荷を受け取り、
「ご案内いたします」
 緊張のあまり口がうまく動かないのか、声をかけるタイミングを逸したベルガールに代わってベルボーイが言った。
 同僚のフォローに合わせてベルガールは少し青褪めた顔でティディアに促しの一礼をする。
 それは今にも過呼吸を起こしそうな様子で――ティディアは彼女の張り詰めた心をほぐしてやるつもりだったのだろう――王女が背を反らして自分を見つめるベルガールに極上の微笑みを送った、その時。
 一瞬にして、空気が変わった。
 ニトロと芍薬の周囲の他を除いて、ホテル・ウォゼットのロビーにあった世界の質が変容していた。
 希代の女王となることを約束されているティディア姫の、妖艶で、慈愛に満ちた……言うなれば淫魔と慈母の両面を兼ね備えたその微笑みに、
 偽りの色を重ねてもなお、見る者の魂を捕らえて離さぬ魔力を秘めた二つの真円に、
 この場にいるホテル・ウォゼットの誰もが心を奪われ、息を止めていた。
 先までは悠然と構えていた支配人、セドまでも。
 客をもてなす意志は今ここに無く、ただ、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナに掌握された世界がワインレッドの地に花開いていた。
(……毎度のことながら)
 その光景を摩訶不思議な景色だと、常と変わらぬ心持ちで眺めるニトロは感嘆とも呆れともつかぬ思いを抱いていた。
 ティディアが類稀な魅力を持っていることは認めるが、やはり、どうしてもこの雰囲気には慣れない。これはもしや何かの魔法だろうか、なんてつまらないことも考えてしまう。
「……」
 ティディアに見惚れる皆とは対照的に異様に冷めた気持ちで、ニトロは自身の腕に絡む手をくっと引いた。
 それに気づいてティディアが首をわずかに傾げると、その『促し』に、今まで体を繋ぎとめていた鎖から放たれたようにベルガールが一歩足を踏み出した。
 つられてベルボーイも後に続き、他の皆もはたと我に返る。
 それらはまるで、ティディアの意のままにあるようだった。
 ニトロはティディアと連れ立って案内の後に続きながら、胸中で苦笑していた。
(本当に、これは何かの魔法じゃないだろうな)
 ワインレッドの深い絨毯を踏みしめながら今は無人のフロントの横を通り過ぎてエレベーターホールに向かう途中、ニトロは深々と頭を下げているホテル・ウォゼットの面々を一瞥し――少し、息苦しさを感じながら――部屋へと案内されていった。

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