芍薬の操るアンドロイドは、タクシーの後部ドアの正面から一歩横に外れたところで足を止めた。
 その傍らにドアマンの青年が早足でやってきて、後部座席に座る少年を迎えようとドアに手を伸ばそうとし――そこでふいに戸惑ったように動きを止め、そして、慌てた様子で運転席へと回りこむ。
 どうやら『変装』のせいで、タクシードライバーの女性こそあの王女様だと理解が遅れたらしい。
 失態だと言わんばかりに顔を強張らせ、カーシステムの汎用A.I.にホテルのナビゲーションシステムに従い駐車場へ向かうよう命じ終えた運転手がドアを開けようとする直前に辛うじて間に合い、恭しくドアを開ける。
「ようこそ」
 気の張り詰めた声がニトロの鼓膜を震わせた。そこにはティディア姫への、王族への、第一王位継承者への畏敬の念がひしと込められていた。
「ご苦労様」
 華やかな――声質は同じなのに自分やハラキリに対するものとは違う声をドアマンにかけるティディアを横目にして、ニトロはバッグを手にすると、ドアマンに代わって芍薬が開けたドアから外へと出た。
「オ疲レ様。道中何モナカッタカイ?」
 聞き慣れた、最も安堵をもたらしてくれるその声に、ニトロの頬はほころんだ。
「うん、びっくりだけどね」
 芍薬もマスターの笑顔を見て安堵したように穏やかな笑みを浮かべ、そして潤みすらある人工眼球をちらりとドアマンにエスコートされる女性に向けると、眉根にかすかな怪訝の影を落とした。
「何ヲ企ンデルンダロウネ」
「相変わらず、予測不能だよ」
 小さくため息をつくマスターを慰めるようにまた穏やかな笑みを浮かべた芍薬は、一流のホテルマンもかくやといった物腰でニトロの手からバッグを受け取った。それから彼が目線で示したのに従ってトランクへ向かい、そこにしまわれていた『敵』のバッグも手に提げる。
 駆動音や機械的な動きの一つもなく滑らかな挙動でトランクを閉めるそのアンドロイドは、アデムメデスのロボットメーカーでトップシェアを誇る『アローヘッド』のものだった。その身は購入時に付属される深緑色のコスチュームに包まれ、首筋にはやじりを意匠化したマークがタトゥーのように刻まれている。
 最高ランクのアンドロイドであることは、一目で知れた。
 練達の造型師が創り上げた気品漂う顔。すっと鼻筋の通った中性的な容貌にマッチしたスタイル。僅かな違和感は残るものの、本物と見紛う皮膚、髪、瞳。遠目に見ればそれは人間に限りなく近く、人工筋肉が作る表情も素晴らしい。ニトロの知る『まさに人間そのもののアンドロイド』を除けば、彼の知る限り最高の機械人形であり、また一般向けアンドロイドの中で最も高級な一体だった。
 ――表向きは。
 実際のところ、これの内部にはアローヘッド社の部品は一つとて残されておらず、ただ外見だけが社の最高級品であるだけの違法改造体だ。
 化けの皮を被った正体は、およそ有力な貴族や政治家であろうと容易には手に入れることのできない武器を備える戦闘用アンドロイド。
 急用が入ってしまったからとはいえ約束を反故にしてしまった親友が、罪滅ぼしの意味合いも込めて、自信を持って護身用に貸し出してくれたとっておきだ。
 ここまでの道中でティディアが「安心」と言っていたのは、確かに誤りではない。
 今もアンドロイドの中に格納されていた無数の小型自動警戒機がこの周辺に展開し、不審な人物はいないかとパトロールをしていることだろう。
 まあ……ニトロに取っての最大最悪の不審人物は、現在、すぐ傍にいるわけだが。
「どうぞこちらへ」
 オートドライブに設定されたタクシーが駐車場に向かうのを背後にして、肩肘を張ったドアマンが王女の先に立ち、ニトロに声をかける。その声からはティディアに対するものに比べて幾分のゆとりが感じられた。彼の人好きのする柔和な顔には、幾ばくかの安堵すらある。
 ティディア姫という常であれば声をかけることすら畏れ多い貴婦人を、声をかけるどころか触れられるほど近くにしたドアマンの青年にとって、『ニトロ・ポルカト』は緊張ストレスを逃がせる絶好の緩衝帯なのだろう。
 黒いラインの入った白い制服の肩当てを尖らせ、膝が震えているのか頼りない足取りで先導するドアマンに続きながら、
(……そういや、珍しいな)
 さっと周囲に目を配り、ふとニトロは思った。
警備用もいない)
 ホテルのドアマンと受付フロント係は出入りする人間をチェックできる位置にあるため、セキュリティの観点からアンドロイドであることが常識だ。
 高級ホテルなどでは非常に訓練された――それこそ一度の対面で客の名と顔と身体的特徴を記憶できるような――人間を受付フロントに配することがあり、それは一つの『高級』のステータスとされている面もあるが、しかしそのようなホテルでも、ドアマンには当然警備面からアンドロイドを最低でも一体は配する。
 だが……どうやらホテル・ウォゼットでは、この喧嘩もしたことのなさそうな青年しか表にいない。
「どうしたの?」
 声を潜めたティディアが問われ、自分の顔に疑念が浮かんでいることに気づいたニトロは慌ててそれを消した。
「いや……」
 小さく口の中でつぶやくようにしてニトロが誤魔化しのうめきを返すと、この建物に良く似合う大きな扉――合成木材か、それとも本物の木製か、年代を感じさせる色合いの両開きダブルドア、その金色のノブに手をかけようとしていたドアマンがばっと振り返った。
「あの……何か、失礼でも」
 青年の声は冗談みたいに震え、顔は蒼白だった。
 ニトロはドアマンの反応に驚きつつも、口元には自然と微笑を浮かべていた。
「いえ、いいドアだなと思っていただけです」
 ティディアと『仕事』をしている際、彼女に対して必要以上に心を砕く初顔のスタッフへ助け舟を入れる機会がよくあるニトロのフォローは、慣れも手伝い口元の笑みと同様に至極自然なものだった。
 その含みのない言葉にドアマンの顔に血色が戻り、
「このドアは、およそ百五十年前、合成/成型加工のされた木材を避け、セツゲンエボニーの純木を用いて職人の手により作られました、当ホテル自慢の逸品でございます」
 彼は強張っていた身を緩ませると、従業員用に配られた資料を暗唱するように言った。
「そう」
 相槌を打ったのはティディアだった。どさくさ紛れに恋人然とニトロの右腕に自分の左腕を絡ませる。
(っ)
 ニトロの胸に、絡んできたティディアの腕を弾こうという反応が反射的に芽生えた。
 が、ティディアに関心を示されたことで頬を紅潮させている――これまでの様子からして下手を打てばショック死させてしまいそうな――ドアマンに余計な心労を与えては悪いと、ニトロはそれを懸命に抑えた。
 一歩後ろに控え静々とついてきていたアンドロイドの足が僅かに強く踏み込まれた音を聞き、左手を後ろに回して「いいよ」とサインを送る。
 どうしても頬が引きつるのだけは堪えることができなかったが、まあそれは構わないか。どうせドアマンには世間の認識通りに『照れているからそういう顔をする』とでも思われているだろう。
 最近では諦めを超えて悟りの境地に達し出した心境でドアの前に立つ青年を見ると、彼は頬を紅潮させたまま、思いもよらずぼうっとしていた。
(? ……ああ、そうか)
 青年の瞳の先にあるものを悟り、ニトロは納得した。どうやら彼は、花々さえもその尊顔の前では色褪せると誰かが言った、美しい王女の笑みに見惚れているらしい。
 仕方なくニトロが半歩進むと、はっと我に返ったようにドアマンは姿勢を正した。
「ようこそ、ホテル・ウォゼットへ」
 そして白い手袋に包まれた手で金色のドアノブを今度こそ掴み、
「良い一夜をお過ごし下さい」
 決まり文句と共に音もなく大きな扉の片側が開かれる。
 ニトロの目に、ワインレッドとまばゆいきらめきが飛び込んできた。
 ――ホテル・ウォゼットのロビー。
 クラスメートの頼みを了承した日の夜、ホテル・ウォゼットのWebサイトで概要を確認したニトロは、ロビーのデザインと建物の外観との調和が取れてないな……と、そう感想を抱いた。
 しかし、実際にこの目で見ると、その感想は正し過ぎた
 外と内とで、あまりに世界観が違い過ぎる。
 外観は、ライトアップの演出で多少『味』を削がれてしまっているとはいえ、質素でこぢんまりとしながらも品の良さを漂わせ、派手ではなくともきっと温かくゆるりとした時間を過ごさせてくれると安心させてくれるものだ。
 対して内側は、一言で言えば――豪華。どこかの超高級ホテルかと見紛う上質なワインレッドの絨毯。天井できらめきを振りまくのは金と水晶が織り成す豪奢なシャンデリア。壁は一面人工大理石で覆われ、ここでは優雅かつ豪勢に時を過ごせるだろうと期待させてくれる。
 年代物の扉を境界に世界を一変させることで客の心理を日常から切り離す演出……と言えば好意的な反応だろうか。だが、正直、ここまで内外に過剰な差があると、むしろ客を『戸惑わせること』を目的としているとしか思えてならない。もし前もってホテルの景観を確認していなければ、ニトロはきっと口に出していたことだろう――
 ――『違くね?』
 と。
「さあ」
 ふいにニトロの耳を促しの声が撫でた。はっとしてニトロが声の主を見ると、彼女は極上の笑みを浮かべて彼の腕を引いていた。
 再び、腕を組まれた時と同じく拒否感がニトロの胸に反射的に芽生えたが、
(待て、俺、今日は、せめて今だけは、我慢だ)
 彼は自分に強く言い聞かせて再度その衝動を抑えると、彼女に促されるまま並び歩いてロビーへ足を踏み入れた。

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