ニトロに何に笑ったのかを教えてくれる気がさらさらないと悟ってティディアは気落ちしかけていたが、急に声を張り上げた彼の様子をバックミラーに映し、そこにお手本のような仰天顔で目をむく少年を見て、何だか晴れ晴れとした心地で問い返した。
「それがどうかした?」
「どうかしたってお前、セキュリティはどうしてるんだよ。てっきりホテルの周りに警備を回してると思ってたのに……」
 ティディアは軽く肩をすくめた。
「別に何も問題ないわよ、外したのはウチの担当の『身辺警護』だけだから。『外』は警察がしっかりやってくれているしね」
「何言ってんだ問題大有りだろ。どこにどんな阿呆がいるか解らないのにヴィタさんも連れず――」
「芍薬ちゃんがいるじゃない」
 ニトロは、眉をひそめた。
「何だって?」
「だから、例え何かあったとしても、例えばホテルの従業員が急にテロリストになったとしても、芍薬ちゃんに守ってもらえるじゃない。ハラキリ君からごっついアンドロイドを借りているんでしょ? それならヴィタも警備もいなくても安心だわ」
 ティディアは心底不安なしと言いのける。ニトロは半ば呆れ、
「芍薬に守ってもらえるって、どの口で言ってるんだよ。そんなわ―」
「そんなわけない? 私が事故に遭ったとしても、本当に暴漢に襲われたとしても」
 ニトロの言葉を遮ってティディアは口早く言い、言い終わりとほぼ同時に左のウィンカーを出し、ブレーキを踏んで減速すると街道に接する小道へと入っていった。
 シゼモ中心地を見下ろす丘もいただき近く。
 周囲は郊外の閑とした趣に沈み、道に並ぶホテルや商店の間隔も広々として、とはいえ閑散としているわけではなく、ちょうど『隠れ処的』志向を持った宿場といった風情が満ちている場所。
 植樹されたものであるらしい木々に挟まれた、対向車があれば何とかすれ違える程度の細い道に、ティディアはニトロへ投げかけた問いを最後に黙々と車を走らせていく。
 やがて街道から少し奥まった所――『目隠し』の林が切れた先の広場に、無数のライトに照らし出されたホテルが、日の沈んだ直後の暗みと木々の陰を背景にして、三階建てのこぢんまりとしたその姿を煌々と浮かび上がらせた。
 それは、奇妙な印象を与えるホテルだった。
 とはいっても、それは見た目に特別奇妙なところがあるというわけではない。
 かといって、建築物をライトアップする演出が珍しいわけでもない。
 ただ、象牙色アイボリーの壁に深い群青の屋根という色彩とシンプルで落ち着きある造りのホテルに対し、それを華やがせるための光が多過ぎて、むしろ互いに齟齬をきたし、見る者に不調和から生まれる『奇妙な』印象を与えてしまっていた。
 否定的に捉えれば、この演出は『そうすることが効果的』だからではなく『どうしてもそうしたい!』という演出家の意志が優先されているようでもある。
 今夜のベッドへの道の途中、ちょうど林と広場の境には重厚な――ホテルと調和していないと断じ切るまでにはいかないが、ライトアップ同様噛み合っていない――鉄の門があり、どういうわけか、それは閉まっていた。
 照らし上げられたホテル。門の先にも続く道を照らす照明。ロータリー状になった玄関前には客を待つ人影が二つ。部屋の明かりは全て消えているが、フロントのある一階ロビーからは光が漏れている。営業中であることは間違いなさそうなのに、門扉に刻まれた天に祈りを捧げる乙女だけは行き先を硬く閉じ、来客を拒んでいる。
 ティディアは車を門の前で止め、やや待ってホテル側から問いかけのないことを悟ると、カーシステムに搭載されている汎用A.I.にこちらのデータを送るよう命じた。すると応答があり、静かにゆっくりと、重厚な門扉が横にスライドを始めた。
 ……その間、ニトロはティディアの問いに未だ答えられずにいた。
 そして、その沈黙は――つまり彼女への『肯定』そのものだった。
「お前に……」
 しかし、ニトロは『助ける』という返答をティディアに与えるだけというのはどうにも癪で、憎まれ口を叩いた。
「助けなんか要らないだろう。自分勝手に生き残るさ」
「一応「断じてかよわくないからな」
 反論しようとしたところへすかさず否定を被され――それも見事なまでに口にしようとしていた形容をピンポイントで潰され、ティディアは口を閉じた。
 ニトロの強い語気にぶう垂れたくもなるが、反面、彼がこちらの思考を理解してくれているのだと思うと嬉しくもなる。ティディアは一呼吸を置き、彼の言葉を受け入れた上で言った。
「ま、これでもいつか、男の人に守って欲しいなー、なんて思ってるんだけど。どう?」
 ニトロは変装用の眼鏡を外し、それをしまいながら気もなく答えた。
「男性の警備で身辺固めれば、それでお望み通り」
「……つれない」
「心にもない言葉に付き合う義理もないな」
「――いけずー」
 ニトロの、片手間かつ明らかにわざと言葉を誤解して返してきたセリフに今度こそティディアはぶう垂れていたが、反面、やっぱり彼が自分のことを理解してくれているのだと思うと嬉しくてならなかった。
 ニトロは解っているのだろうか。
 本人は皮肉を返したつもりなのだろう。だが、違う。彼は正しい。『男の人に守って欲しい』というのは、そう、心にもない言葉だ。
(ふふ……)
 顔はぶう垂れたまま、その裏では微笑みを浮かべ、門が開き切ったところでティディアは車を発進させた。揺り籠を揺らす手のようなアクセルワーク。背後で門が閉まりゆくのをサイドミラーに見て、彼女は不機嫌を演じていた顔を消すとニトロに言った。
「さてお客さん、着きましたよ。お支払いはキャッシュで? それともクレジットで?」
 ニトロは、苦笑した。
「ちょっと驚いてるよ」
「――何が?」
 タクシーはゆっくりとホテルの玄関に向かい、綺麗な芝を割る緩やかな坂道を進んでいく。このまま直進し、先のロータリーに入ればこのドライブも終了だ。
 ニトロは玄関の前に立つ二つの人影を目にしながら、言った。
「こんなに真っ直ぐ連れてきてくれるとは少しも思ってなかった」
 このタクシーのカーシステムは、いつでもドライバーの許可なく芍薬が支配できるように設定されている。事前に、これに乗り込む直前にも芍薬が確認を取っていたから、間違いなく。
 それを踏まえた上でもティディアは『寄り道』などと称して何か仕掛けて――例えば予定外のホテルに連れ込もうとしてくるのではないか? とニトロは腹の底で疑っていたのだが……
 彼のセリフにその意図を察して、ティディアも苦笑した。
「それはまた信用ないわねー」
「日頃の行いのせいだろ。胸に手を当ててみろ」
「パッドが邪魔で何も聞こえないわ」
「……お前ね」
 道が平坦となり、浅い角度でUの字を描くカーブに合わせティディアの手がハンドルを切る。ホテル・ウォゼットの壁に反射したライトの光が射し込んで、車内はふっと明るくなっていた。
「ま、たまにはいいじゃない?」
 ちょうど玄関の真正面に停まるよう制動をかけながら、ティディアは楽しそうに言った。
「こうやって、何事もなくのんびりドライブするのも」
 パーキングシステムが作動し駆動系とタイヤにロックがかけられ、次いでドアのロックが外される。
 笑顔のアンドロイドが近寄って来るのを目の端に、ニトロは金色のカツラを助手席に投げ捨て得意気な笑みを向けるティディアへ微笑みを返した。
「普通は『いつも』がこうあるべきなんじゃないかな、バカ姫」

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