(あ、黙っちゃった)
硬く口を結ぶ渋面のニトロをバックミラーに見て、ティディアは『ニトロいじり』を止めることにした。
いくらニトロが貝のように口を閉じたところで、突付きまくっていればその内またツッコミを返してくれることは間違いない――が、しかしその『楽しみ方』は時と場所を選ぶ。ついでに言えばそれはスキンシップができる状況になければ楽しさ半減だし、この後のことも考えれば、下手に彼を突付くよりも話を変えておいた方が得策だろう。
「ニトロ」
やおら、右折帯に車を進めたティディアは、タイミング良くすぐ灯った右折用の信号に従ってハンドルを切り、大通りから目的地へ続く街道に入りながらニトロへ声をかけた。
「新作のことだけどさ」
「……。
ん?」
少しの間を置いて、ニトロは沈黙を破った。
ティディアは、ヘソを曲げていても――そして『仕事』を持ち出したこちらの意図は理解しているだろうに――しかし無視することなく応じてきたニトロに心をくすぐられて仕方がなかった。
「『承』の最後の三連ボケ、そこの最後のツッコミだけ他よりテンポ遅らせるってことでどうかしら。ウントンウントンウン・・トンみたいに」
「ん〜……」
信号に掴まり、車を停めたところで何がそんなに楽しいのか肩越しに満面の笑みを見せたティディアの提案を受け、ニトロはうなった。
作成中の漫才の新作。ティディアが考えてきた原案を二人で磨き合い、その過程で現れた『懸案』への解決策。
ニトロは相方の提案を加えた形でネタを脳裡にざっと走らせ、また眉間に皺を寄せた。
「……ぅ〜ん……」
「反対?」
「新作はスピード感が肝だろ? それだと変なブレーキがかかって『実験』の本線からずれないか?」
「でもここで一つ変化みせておかないと起承転結一本調子よ?」
信号が変わった。アクセルを踏み、ティディアは言う。
「いくらスピード感が肝でも山なし谷なしはどうかしら。このままじゃ軽量化し過ぎて完走前に大破だわ」
「それはそうだけど、だからって無理に変化つけるとお客さんが戸惑うだけだろ。『戸惑わせること』を計算に入れるってんなら分かるけど、そういう形式のネタじゃないし。それに……このネタでそのリズムは、気持ち悪い」
「ん、分かった」
そこで、ティディアはあっさりと引き下がった。相方の『ツッコミ勘』に逆らう手は彼女にはない。
「ニトロが気持ち悪いならどうせうまくいかないものね。代替案考えておく」
「ああ、俺も考えておく」
タクシーはリゴウ川を挟んである低地に賑わうシゼモの中心地からどんどん離れ、それを見下ろす丘を登っていた。長い坂道の両脇、斜面に段を作るようにしてある街並みには繁華街と比して幾分地味な店舗が並び、密度の薄くなったホテルやペンションの間にはアパートや倉庫がちらほらと見える。
ちょうど繁華の辺縁といった風情だ。
同時に、何年後かにはここも勢力を増した賑わいに取り込まれて栄えているか、あるいは流通の向きが変わり逆に寂れているか――の辺縁でもあろう。
ニトロはホテル・ウォゼットのWebサイトに記されていた地図を脳裡に浮かべた。この街道に入るために曲がった交差点、そこからホテルへは十分足らずで着くはずだ。
ニトロはポケットから携帯電話を取り出し、もうすぐ着くと芍薬へメールを入れた。
すぐに返信が来る。
(……さすがに下手は打たないか)
芍薬からのメールには『御意』の一言だけがあった。
芍薬には児童養護施設を訪ねている間にホテル・ウォゼットへ先行してもらい、部屋やホテル周辺にティディアの『仕掛け』がないかどうかを調べてもらっていたのだが、その件に関しての報告は今になっても無い。
どうやら、今回ティディアは今のところ何も企んで――いや、企んではいるのかもしれないが、『仕込み』が必要なほどの企ては用意していないらしい。それに関しては安心できそうだとニトロは胸に一つ息をつき、警戒心のメモリをわずかに減らした。
「ところで」
そして携帯電話をポケットに押し込んだ彼は、芍薬に任せてばかりでなく自分でも調べておかねばならないことがあったと思い至り、不自然な様子がないよう何気なくティディアに訊ねた。
「ヴィタさんはいつ来るんだ?」
それは、所用があると児童養護施設から王家別邸に向かった囮の
「来ないわよ」
「あれ……来ないんだ」
「ニトロはヴィタに来て欲しいの?」
「そういうわけじゃない。ただ……珍しいと思ったんだよ。こんな時に『共犯者』がいないのは。チャンス、なんだろ?」
「んー、そりゃヴィタがいた方が犯行もしやすいけど、ヴィタには大事な仕事を頼んでるから」
こちらの言葉を受けてのものとはいえティディアが平然と『犯行』と口にしたのを軽い引きつり笑いで受けつつ、ニトロは問うた。
「大事な仕事?」
「そ。別邸は今頃大宴会よ。私がいない方が皆も気が楽だしねー、だからヴィタに
言ってティディアはその光景を思い浮かべたらしくクスクスと笑ったが、彼女の『私がいない方が』というセリフに――言った本人に寂しさや痛痒といったものが全く無かったにしても――ニトロは、複雑な思いを感じていた。
ティディアの言葉は、きっと正しい。
いくら彼女の優秀な部下達が『クレイジー・プリンセス』の嗜好を十二分に理解していたとしても、また、いくら王女に無礼講を命じられたとしても完全に壁を消すことなどできはしまい。
それができる人間は先刻彼女と『プロレスごっこ』をしていたような幼子か、それともハラキリ・ジジ。それに……
(そういう意味じゃ、俺も、か)
多分、それくらいなものだろう。
ニトロは妙な方向に進んでいた思考を切り替えようと息をつき、言った。
「ヴィタさんがそっちにいくのを承諾したってことは、楽しいんだろうな」
「ええ、きっと楽しんでいるわ。なにせメンバーには酒癖面白いのが揃っていてね? キス魔、脱ぎ魔、笑い上戸に泣き上戸、芸をしだすのもいるし調子っぱずれの童謡を歌い出したら止まらないのもいる。最後には会場は凄いことになるでしょうね。絶対大笑いよ」
「そりゃまた……。でも酒癖もそれだけバラエティに富んでるんなら、下手したら喧嘩し出すのもいるんじゃないか?」
「いたとしてもヴィタがいるから大丈夫」
「ああ、それもそうか」
確かに、酔っ払って暴れ出したのが例え鍛え抜かれた大男であろうが素手ではヴィタには敵うまい。彼女は酒にも強かったから、よもや酔いで不覚を取ることもないだろう。
酔っ払った大男をグラス片手に涼しい顔でひょいと放り投げるヴィタ、その周りで酔っ払った王家の使用人達が喝采を上げている、投げられた大男は天上仰いで酔いも醒めた目をぱちくりさせて――なんて光景を想像すると、妙に笑いが込み上げて。
ニトロは思わず喉を鳴らした。
「何? どうしたの? 何を笑ってるの?」
ティディアの声はニトロが何に笑ったのかに興味津々で、そこには彼と笑いの種を共有したいという願望がありありと表れていた。
しかしニトロには『共有したい』という願望はなく、咳払いをして笑いを消すと、
「何でもない」
「え!? 何で、一人だけズルイ、教えてくれてもいいじゃない!」
面白大好きな姫君に盛大に不満をぶつけられてもニトロは答えず、これ以上追求されるのも厄介なので話題を変えようと思考を巡らせ――ふいに、思い至った。
「警備にも非番を与えたって?」