長らく後部座席の下に身を潜めていたニトロは、そこでぱっと体を起こした。シートに座るのに並行して今まで体の下に置いていたバッグを引き上げ、同時にその中から眼鏡ケースを取り出し開くと『変装道具』を身につけ、ケースを再びバッグに押し込み、全てを流れる一連の動作で行った最後に、さっと服の皺を直す。
 伊達眼鏡の機能が働いたと、そのシステムがレンズの端にアイコンを数秒点滅させてニトロに報せた。これでレンズ越しに自分の瞳を見た者は、そこに元の黒ではなく、金色の虹彩を目にすることになる。極簡単な変装ではあるが無いよりはマシだし、それに『視線避け』は運転席にいるからこれで十分だろう。
 ニトロが『金色の』瞳を窓の外に向ければ、車一台が通れるだけの路地が目に入った。両脇にある建物はどうやら店舗であるらしい。進む先には路地の終わりに交通量の多い通りが見える。
 とすれば、ここは比較的大きな通り同士を結ぶ道といったところか。
 タクシーはやけに丁寧な運転で、狭い路地を一定の速度で走っていく。
「でも、あの指輪は宝物ね」
「そうかい。それはあの子も喜ぶよ」
 無駄な動きもなく素早く『普通の客』の体を成したニトロをバックミラーに映していたティディアは、口の端に笑みを刻んでいた。訓練された切れのある動き。それがどんなことであろうと、彼の成長の一端を見る度に幸福感が胸に溢れる。
 しかし、自分のその喜びをニトロに語ったところで嫌がられるのがオチだ。ティディアは心にある感情は秘めたまま、彼に問うた。
「ニトロには宝物じゃないの?」
「宝物だよ」
 脇に置いたバッグにぽんと手を添えて、ニトロは息をついた。
「だから、これがお前との『けっこんゆびわ』扱いでなければなあって心底思ってる」
「あら、そんなツンケンしないでよ。せっかく温泉に来てるんだからのんびり穏やかに。一緒に身も心も癒されましょうよぅ」
 路地を抜けた先、シゼモ中心街を貫く大通りとの合流地点に信号はなく、ティディアは本線を走る車の切れ間を逃さず交通流の中へスムースに入っていった。
 窓ガラスの向こうに、ニトロは夜に染まり始めた温泉街の姿を見た。
 街の所々から立ち昇る湯煙のためだろう空気中に散る小さな水の粒が残照の光をぼやかして、それは黄昏の街を照らす街自身の灯りと溶け合い、大気と光と灯りが混じり合うそこに悠然と陰影を刻む街並みは、すっと穏やかに心の奥へと染み入ってくる。
 優しい景色。
 和らいだ世界は、だけど、どこか妖しげで。
 なるほど歴史あるこの温泉街が、悠久の時を越えた未だに人の心を引きつける理由が、ニトロにはよく解る気がした。
 そしてティディアが『仕事』にかこつけてここに一緒に来るのを心待ちにしていた理由も、改めてよくよく理解する。
「……それはもちろん温泉につかって、っていう意味だけで言ってるんだろうな」
 一応確認したニトロにティディアは嬉々として、
「もちろんセ」
「はいそこまで!」
「そこまでなんて言わないで、しましょうよ。ほら、ここはこんなにしっぽりいくのにいい雰囲気よ?」
「だからどうした。しないぞ、するもんか、絶対にしっぽりいくなんてことにはならない。それも、解ってるだろ?」
「でも私たち世間的にはもうヤりまくりヤられまくりって思われてるんだし」
「それを言うな……そう思われてるのは本っ当に嫌で嫌でたまらないんだぞ、お前にゃ分からないだろうけど……っ」
「私は大歓迎だからねー。だから、ここらでいっちょそれを本当のことにしておくと後々都合も良いかと思わない?」
「お・も・う・わ・け・あるか! 大体都合が良いってそりゃ全部お前の思い込みだろう!?」
 声を張り上げたニトロは一度二度肩を大きく上下させて呼吸を整え、声にドスを効かせて続けた。
「やっぱお前、公表してる通り別邸に泊まれ」
「嫌よ。ニトロと『一つ屋根の下』は出張漫才の夜の、一番の楽しみなんだから」
「ああ、そうだな。俺に取っちゃ毎度それが一番の苦しみだよ。でも耐えてるんだ。だから今回は遠慮しろ」
「やー、今回こそ、嫌よー。ハラキリ君もいないし、ニトロが『準備不足』なチャンスなんて滅多にないんだから。毎度毎度、芍薬ちゃんとガッチリ守り固められちゃってキーってなってるのよ? 私」
「お前……」
 ニトロは思わず『ウォゼットに着いたら芍薬に言って強制的に別邸に送り返してやる』と怒鳴りそうになったが……はた、とあることを思い出し、唇まで出かかったその言葉を懸命に噛み殺した。
 何を言って何をしたところで、ティディアがセキュリティも万全で静かに一夜を過ごせる――同時に、こちらに取っても芍薬と念入りに『どう守りを固めるか』と案を練り合い、またセキュリティ等各種システムに芍薬がフリーパスで干渉できることをティディアに約束させていた王家別邸ではなく、『友達に美味しい食事を出すと薦められたからホテル・ウォゼットに泊まる』と変更した自分についてくることをやめるわけがないことは解りきっているし、何よりクレイグの頼みを思えば、今回ばかりは、リスクが高くともティディアを傍に置いておいた方がいいのだ。さすがに同室とまではいかないが、同じホテルの隣室くらいには。
 それなのに……つい警戒心が先立っていつも通りの対応を続けてしまっていたが、あまりにいつも通りに険を立て続けるのは……やはり気が引ける。
「……まさか、ハラキリの急用、そのためにお前が手を回したんじゃないだろうな」
 とはいえ急に態度を変えることもできず、ニトロは噛み殺したセリフの代わりに、苦し紛れだとは理解しながらもティディアへ猜疑を向けた。
「まさか。そんなことするわけないわ」
 ティディアはため息混じりに言った。
「ハラキリ君が来ないのは私も残念だもの。ニトロと混浴……楽しみだったのに」
「待て待て。何でハラキリから混浴に話が飛ぶんだ」
「だってニトロ、ハラキリ君がいれば混浴でも逃げないでしょ?」
「思いっきり遠ざかるけどな」
「ほら、逃げない
 ティディアは笑いながら前を行く車が減速し始めたのに合わせてブレーキを踏んだ。直前の信号が赤となり、その停止線に鼻を揃えて停まった前の車から適度な間隔を置いて停車する。
 『王女とその恋人』がこの町にやってきている影響だろう、数m先の横断歩道を、いかに土曜とはいえシーズンオフの温泉地にしては多い人数が歩いていく。
 道路を横切る人の中にはティディア姫とニトロ・ポルカトのサインがプリントされたシャツを着ている青年もいて、その彼と手をつなぐ恋人らしい女性は、すれ違う人々を振り返らせ多くの好奇の眼を引いていた。
 ニトロにも、彼女が人目を引く理由が一目で解った。
 地毛か、それとも染めているのか、肩に流れる美しい黒紫の髪。髪色だけでなく髪型も王女と同じなら、その服装も先刻まで王女が着ていたものと全く同じだ。おそらくティディアの本日の服装が判明したと同時に、『王女様のコーディネート』を用意するネットショップで買い揃えたのだろう。
 彼女は、いわゆる『ティディア・マニア』と呼ばれるファンだった。
 顔を整形するまではしていないようだが――行き過ぎると、以前ティディア自身が演じていたような全身を整形して同じ姿になる者もいる――化粧はちゃんと王女のものを意識していて、それは遠目にもあまり似合っていないと思えるのに、しかし、今このシゼモの道を王女と同じ服を着て王女と同じように恋人と一緒に歩いていることがそんなにも嬉しいのか、彼女の心底悦に入ったその表情には似合う似合わぬの議論が入り込む余地はない。
 恋人と語らいながら完全に自分達の世界に浸っているティディアのファンを追って目を動かしていたニトロは――ふと、気づいた。
「けど、ハラキリ君がいないなら駄目ねー。一緒に洗いっこしようと思ってたのに……本当に残念だわ」
 右隣の車線、並び停まる乗用車の助手席にいる中年男性の眼が、ちらちらとティディアに向けられている。
 ――正確には、彼女のやたら大きな胸に。金髪の女性ドライバーが身にまとう制服をはち切らんとばかりに膨らませている、その乳房に。
「……それはハラキリがいてもしない」
「いけずー」
「いけず違うわ阿呆」
 信号が変わり、ティディアがアクセルを静かに踏み込む。こちらが先に動き出し、女性タクシードライバーの姿が死角に隠れた瞬間の――男性の妙に満足そうな顔を去り際に目にしたニトロは、堪え切れず苦笑した。
 青い瞳と、金髪のカツラ。
 確かに印象はがらりと変わるが、それだけで正体を隠せるものかと言った自分に、ティディアは作り物の巨乳を自信満々と示して言ったものだ。時刻的に外から車中の人相を見るのは難しくなる。それに外から運転手の顔をマジマジ見る者はそうあるものじゃないし、あったとしてもそのすぐ下にあまりにインパクトのあるものがあればそちらに気が取られてしまうものよ。特に、大抵の男は――
 ティディアの目論見は、痛快なほどに成功していた。
「それに、お前、もし洗いっこなんてしたら絶対やらしいことするだろ」
「んー、どっちかって言うとニトロにやらしいことして欲しいんだけどなー。
 ねえニトロ、いい加減私のこと襲いなさいよ。私は身も心もいつだって準備オッケーなのに、焦らされっぱなしで参っちゃうわ」
「何が『いい加減』だ、バカ痴女。勝手に焦れてろ」
「あら、男を誘う女を痴女って言うのは乱暴じゃないかしら」
「襲え、なんて誘い文句も随分乱暴じゃないかな」
「乱暴な誘い文句にキュンって胸打たれちゃう男はいると思うわ」
「ああ、いるかもな。けどお前が言うと何か洒落にならんし、それに、誘う女がどうのってことじゃなくて」
 そこでニトロは区切りをつけて一度大きく息を吸い、続けた。
「単に、お前が、俺にとっちゃ可愛げもへったくれもない恥知らずな真正痴女ってだけだよ。他意はない」
「うっわむしろひっど。……でも、まあ、別に痴女でもなんでもいいけどね。結果的にニトロがその気になってくれれば。そのためなら私、どれだけ罵倒されても耐えてみせるからっ」
「変な決意表明をするな。っつーかならん。決して。絶対にいくら迫られてもその気になんかなりゃしない」
「……ちぇ」
「可愛くないぞ、ンな舌打ちしても」
「ちぇー。『間接キス』って言われたくらいで焦るくせにぃ」
「っそれはお前にじゃないからだ!」
 思わぬ反撃にニトロは怒鳴り返したが、次の瞬間、後ろから見てもティディアがこちらの反応に満足していると――
「ニトロのそういうところ、可愛くってお姉さん大好き」
「やかましい!」
 満足、していやがったのを確信し、ニトロはトーンを一つ上げて再度怒鳴った。
 ティディアの肩が大きく上下し、本来は黒紫の髪を隠した金色がまた愉快気に跳ねる。
 ニトロは眉間に皺を寄せ、ぐっと口をつぐんだ。
 何をどうツッコマれ罵倒されようが少しもへこたれることのないティディアには、何をどうツッコミ罵倒しどんな態度を返そうとも、結果、喜ばれてしまう。
 ならば、取り得る反撃の手は一つ。沈黙しかない。

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