ティディア姫御一行を乗せた
王女とその恋人がお忍びで街に出ると踏んでいた数人の報道関係者が、施設の裏口から走り出た怪しげな運送業者の車に食いつきそれを追ったのを、そこから程近い駐車スペースに停まる一台のタクシーがじっと見つめていた。
予定通りスカイカーが飛び去ったその時には、すでに、王女の移動に合わせて強化された警備の網を利用し衆人環視の隙をつき、施設から脱出を果たしていたニトロは、
「……何してるんだ?」
近くの地下駐車場に用意されていたシゼモ観光タクシーの比較的ゆったりと作られた車内――その後部座席の下に身を潜めたまま、訊いた。
運転席と助手席の隙間から見える金髪の女性ドライバーは、地下駐車場を出ると、目的地ではなく真っ直ぐここに戻ってきて、それからというもの
「チェック」
返ってきた彼女の声は、楽しげな様子をニトロに伝えた。まるで悪戯小僧が何やら事を企てている風だ。
「チェックって、何のだよ」
「広報から『ティディア姫とニトロ・ポルカトの近況報告』を受け取れなくなるかもしれない会社のチェックよ」
ニトロはなるほどと納得した。
以前ハラキリが、ティディアが『ニトロ・ポルカト』に関してマスメディアに対してかけている圧力の中で最も効果的なものは、王権に物を言わせた規制よりも何よりも、王家広報から提供される『王女と恋人の日々』に関する情報提供をストップすることだと、そう言っていた。
――「知人が言うには、ニトロ君を追いかけたところでつまらないそうです。普段の君は品行方正な一高校生で、マスメディアが張り付いていたところで彼らが望むようなネタを提供することはありませんからね。
むしろ君の毎日を忠実に書き立てたところで、例えば本日ポルカト氏は80kgのベンチプレスに成功しました、なんてものはニュースの重要度としては下の下です。ネットニュースやサブチャンネルのコンテンツにはできるでしょうが、そんなものをさも大層にメインで取り扱っていれば報道姿勢の信用に関わる。
あるいは、クレイジー・プリンセスに比べて常識人な恋人という好印象ばかりを受け手に与えて君を持ち上げ続けることになってしまうでしょう。ゴシップからすればそれは最高に面白くない。それなのに、その上“面白い”
中にはエフォラン紙のようなところもあるが、それとて犯罪的な取材はせずにティディアの引くラインの限界を守ろうとはしているし、加えてそれをするのが一社程度だから逆に益を見込めるのだ、と。
「いつも、こんなことやってるのか?」
ティディアは
「私がってこと?」
「ああ」
「いつもは担当官がやっているわ。今回はいい機会だから、たまには私が直接見てやろうと思ってね。ふふふ、もし言い逃れでもしようものならどうしてくれようかしら……ぅふふふふ」
意地の悪い含み笑いをこぼしながらカーシステムを起動させ、ティディアは素早く周囲を確認してから車を発進させると、
「さて――お客さん、行き先は?」
ふいに妙な洒落っ気を出して、ニトロにそう訊ねた。ニトロは彼女の芝居に付き合う気はないと鼻を鳴らしたが、しかしその胸にちょっとした気兼ねが芽生え、彼はすぐに思いを改めると答えを返した。
「ホテル・ウォゼットまで」
「ホテル・ウォゼットっ」
「……何だよ、そんな驚いた風に」
「あそこは落ち目ですよー。いやここの地の物を使った食事は美味しいそうですけどね、最近の評判と言えば満足度が低下したことばかりでねぇ。今からでも変えられたらどうです? お客さんならもっといい所に泊まれるでしょう。例えば、別邸のティディア様のお部屋とか」
「そんな観光案内するタクシードライバーがいるかい。しかも半分は俺の受け売りじゃねぇか」
「受け売りも取り入れられなきゃ観光案内なんてできませんや」
「一理あるが、いいから黙って連れてけ、ティディア様」
いつもは呼び捨ての名に口を強めて尊称をつけたニトロの皮肉を、ティディアは小さく笑って受け止めた。そして、ナビもつけずまるでここが地元だと言わんばかりに車を走らせる。
彼女は鼻歌をこぼすほど上機嫌だった。
そもそも今日は初めから機嫌が良かったが、しかしその機嫌の良さは『あの時』からさらに際立ち、目に見えて心が浮かれている。
(――ああ、そうだった)
ややもすれば鼻からだけでなく口からも溢れ出してきそうな『ご機嫌』を耳にして、ニトロは『その件』に関して言っておかねばならないことがあったと思い出し、
「……ところで」
ティディアとはまるで対照的な不機嫌さで、彼女の鼻歌を止めた。
「さっきの指輪」
「結婚式でも使いましょうね」
「使うか! てか式なんぞ上げるか!」
「あら、もっとちゃんとしたのがいいの? それとも自分で選んでくれるのかしら」
「いやそうじゃなくて……って、お前、俺が何を言いたいのか解った上でそれを言ってるだろ」
「うふふ、もっちろん解ってるわよぅ」
「うっわ腹立つ。むしろとぼけられた方がまだいいわ。
……で、解ってるなら、釘を刺さなくてもいいよな?」
「それを釘を刺してるって言わない?」
ニトロからティディアの表情を窺うことはできないが、シゼモ観光タクシー株式会社の制服にかかる金色の人工毛髪が楽しげに揺れているのを見れば、相手が笑っていることは判る。それも声には出さず、噛み締めるように。
これは『聞き分けさせる』のは骨が折れそうだとニトロが苦々しく思っていると、
「けど、そうね。解ってる。あれはあの時だけの『けっこんゆびわ』だわ」
次いでティディアが口にしたセリフに意表をつかれて、ニトロは驚いた。
「……随分、聞き分けがいいな」
勘繰りを隠そうともせずニトロが言うと、ティディアはまた肩を揺らした。
「期待しているから」
「期待?」
「そ。ニトロが悩みに悩みぬいて選んでくれた『結婚指輪』を私にくれるその時を、私は期待して待っているのよ」
「そんな時は物理的に来ないぞ」
「物理的にっ?」
「おう」
ニトロが軽く即答するのにティディアは小さなため息をつくように肩を落とし、ハンドルを切り――
「上がって」
ティディアが口にしたのは、合図だった。