「おててだして!」
言われるままニトロが右手を差し出すと女の子は首を振った。左手だと目で示されて差し出し直すと、彼女は箱の一つを足下に置き、手に残した一つの蓋を開け、その中から――おそらくはこれを預かっていた『姉』と作ったのだろうビーズの指輪を取り出した。それを、ニトロの薬指に通し、
「けっこんゆびわ!」
大きく開かれた女の子の目の中で、グレーの瞳が銀色を帯びてキラキラと輝いていた。
ニトロは笑み、少しサイズの大きな指輪が落ちないよう気をつけながら女の子の前にしゃがみこんだ。目線を合わせて彼女の頭を撫で、
「ありがとう」
ニトロの礼に女の子の顔はさらに輝き、彼女は足下に置いていたもう一つの箱を興奮した様子で拾い上げた。
そして、それをニトロに差し出す。
「はい!」
「ん、もう一つあるの?」
「ううん」
女の子はぶるぶると勢いよく首を横に振り、まるで……気の利かない恋人にそうする女性のように、怒った調子でニトロへ箱を突きつけた。
「けっこんゆびわ、ひめさまにも!」
つまり、それは――
(げ!)
女の子の意図を理解した瞬間、ニトロは体幹に走ったマイナス百度の悪寒に心臓を震わせ、恐る恐る、ティディアへと顔を向けた。
「、つー、すりー! かんかんかん!」
レフェリー役の男の子が歓声を上げていた。
レスラー役の二人にのし掛かられ、完全に動きを止めて地に横たわった『悪いお姫様』は、スリーカウントを取られて敗北を喫していた。
レスラー役の片方が立ち上がってレフェリー役と一緒に歓声を上げる。もう一人の――最年少の子はまだ遊び足りないのかティディアの腹の上に馬乗りになったままで、そして腹に彼を乗っけたままのティディアは……まるで獲物を見つけた鷹のような双眸を、こちらに、びたりと据えていた。
(――しっかり聞いてやがったっ)
ニトロが心中で毒づいた瞬間、ティディアがむくりと上半身を起こした。離れようとしない男の子を抱きかかえて立ち上がり、輝く笑顔のお手本とばかりの表情でこちらに歩み寄ってくる。
ニトロは、逃げられなかった。
ティディアの笑顔を失望で染めることが嫌で。何てことではさらさらない。
ただ、傍らで期待に満ちた真っ直ぐな瞳を向けてくる幼い女の子に失望を与えることができなくて、足を地に打ちつけられてしまっていた。
それを理解しているのだろうティディアは余裕綽々と、子一人を抱きながらもそれを苦にすることなく優美な足取りでニトロへと迫っていた。目尻を垂れ、口角を弓なりに引き上げ上機嫌かつ自信に溢れた姿で――ニトロの前に、立った。
「あ、こら。おっぱい揉んじゃ駄目よ、これはニトロのなんだから」
「子どもに何馬鹿なこと言ってんだっ! それに、ソレはお前のだ、俺のじゃない」
悪戯心を起こしたか胸に触れてきた幼子にティディアが言うのを、立ち上がりながらニトロは正した。
「あくまで、お前のだ」
目線を合わせて念を押すニトロにティディアはふふと笑い、男の子を降ろした。だが、その子はよほど姫君のことを気に入ったらしくどうにも離れようとしない。ティディアはそれならと男の子に右手を差し出した。すると男の子は満足げな顔で彼女と手をつなぎ、それにアデムメデスの王女は目を細め、それから彼女は愛しい少年に顔を向けた。
空いた左手を、すっと、優雅に彼に差し出す。
「くれるんでしょ?」
ニトロは、目の端に『その瞬間』を待つ赤毛の女の子の顔をかすめ見た。
……解ってはいたが、一つも表情を変えずにこちらを凝視するその姿に内心ため息をつき、また、ふと中庭が妙な緊張感で満たされていることに気がついてもう一度胸中に息をこぼす。
周囲の目のほとんどが『その瞬間』を待ち固唾を飲んでいた。
ティディアの背後、取り残された二人の男の子はまだ彼女と遊びたそうにしているが、それでも幼いながらに何かが起ころうとしていることを察しているらしい。つまらなそうな顔をしながらもその場で佇んでいる。
遊戯に混じらず広場の周りにいた年上の児童達はもちろん誰に言われずとも『それ』を壊すような行動を取ろうとはしない。職員共々、皆で貴重な光景を見守ろうと口を結んでいる。
王女の執事は当たり前のように特等席に移動してカメラを構えていやがるし。
「ね、ニトロ?」
ティディアの囁きにも似た呼び声は、ニトロにとって逃げ場も逃げ道もないことを確認させる促しだった。やがて彼は観念し、女の子から箱を受け取った。
「ほれ」
明らかに不機嫌な――きっと周囲には照れていると思われているだろう――仏頂面で指輪の入った箱を渡そうとするが、しかし、ティディアは差し出した左手の平を下に向けたまま動かさない。
ニトロは一瞬鋭くティディアを睨みつけたが、彼女は微笑んだまま何を言おうとも何をしようともせず、じっと待っている。それは、ニトロがそうしてくれると確信している姿だった。
「…… 」
ニトロはこぼれ出てきた嘆息を口の中で潰した。
解っている。視界の隅で輝き続ける瞳を裏切ることは、できない。
箱を開けるとクッションの上に置かれた指輪が姿を現し、自分がもらったものより一回り小さなそれは、オレンジ色の太陽光を受けて宝石の代わりに飾られたパールビーズを美しく煌めかせた。
指輪を取り出したニトロは箱を……嫌味にしか思えない気の利かせようで近寄ってきたヴィタに渡し、嫌々ながら――同時に空箱を受け取るや特等席に戻ってカメラを構え直す執事の素早さを忌々しく思いながら――ティディアの手を取った。
微妙に『ここにはめろ』とアピールしてくる薬指は当然無視し、隣の中指に指輪を通そうとして、
(……う)
ニトロは、今一度赤毛の女の子の視線を強烈に感じた。
『その瞬間』を前に、女の子の瞳の輝きが尋常でなくなっている。その顔は興奮で赤らみ、拳は固く硬く握り締められている。
それに、何だか……決め時はちゃんと決めろと、強制されているような気がする。そうしなければいけないと、ひどく叱責されているような気もする。
(……あー……ちくしょー)
ニトロは眉間に皺を寄せ歯を噛み締め頬を強張らせ、それとは対照的に柔らかな表情でかすかに睫毛を伏せ、自分に掴まれた手の指先を見つめているティディアの、その、左手の、く、薬指に 乱暴に、輪を通した。
歓声が上がった。
ニトロのすぐ傍らで、そして周囲で。ため息のような歓声が。
その意味がよく解っていないらしいティディアと手をつなぐ男の子が、自分の手を握る女性が指輪を幸せそうに見つめているのを、きょとんと呆けた顔で眺めている。
その子がいつか今日のことを振り返った時、王女と手をつないだまま目撃したこの光景をどう思い返すのかな……などと、もううなだれるのも億劫な諦観の極地でニトロが思っていると、
「ありがとう」
ティディアが指輪を見つめたまま、感動そのものを口にするように言った。
ニトロは随分素直に喜びを示したティディアを半ば驚愕の眼で見つめ、それから赤毛の女の子が何も応えずにいる自分に非難の目を向けていることに気づき、頭を掻いた。
「……どういたしまして」
ニトロが返したぶっきらぼうな応えに、ティディアと、王女の薬指へ輝く『けっこんゆびわ』をもたらした女の子はふと顔を見合わせ、そして笑った。