そこで最も栄えている温泉街の名を、シゼモという。
人がまだ移動の足として馬しか持たぬ時代には西――内陸側からセグトス山脈を越える玄関口としてあり、また山々から零れ落ちる水を集めたリゴウ川の
その歴史の長さの分、この街は様々な出来事や事件の舞台となってきたであろうが、しかしまさか現役の第一王位継承者様が『恋人』と連れ立って漫才をしにくる……なんてこと以上の珍事はきっとなかっただろう。
というか、これと同等の珍事を起こした王族があったとするならば、間違いなくそいつはドがつく阿呆に他ならない。
(何しろあいつと同じ思考回路を持ってるってことだもんなぁ)
ドーム型の強化プラスチックの天井から降るオレンジがかった陽光の下、中庭一面を埋める緑の絨毯のように手入れの行き届いた芝生の上、この国の王女が服の汚れることも厭わず子どもらと『勇者と悪いお姫様ごっこ』に興じているのを眺めながら、ニトロは内心ため息をついた。
「どうした勇者共、貴様らの力、その程度か!」
「くっそー!」
「うしろうしろ、おまえうしろまわれ!」
以前、彼女は自分のことを『わりと子どもに好かれるタイプ』だと言っていたが、それは実際確かなことだった。
彼女と戯れる三人の男の子らは終始楽しげな顔で汗を拭くのも忘れて芝生の上を暴れ回り、彼女は彼女で時に『勇者達』を圧倒し、時に適度に攻め込まれながら彼らに飽きを与えることなく興奮を煽り続け、
「ぱんち!」
「ぎゃあ!」
最年少の子どもに背後から太腿を殴られた悪いお姫様は、迫真の演技で苦しんでみせるとがくりと膝をついた。そこに最年長の子どもが、まだ操りきれていない手足をばたつかせて駆け寄っていく。
「くらえきぃっく〜っ」
「ふははは甘いわ!」
「なにぃ? うけとめただとッ?」
「こんなキックでこのティディアをヤれると思うたか! 返り討ちジャイアント・スウィングじゃあ!」
「っきゃー!」
勇者の蹴り足を掴み止めた悪いお姫様はそのまま立ち上がるやロングスカートを翻し、男の子の体を勢いよくぶん回し始めた。
「っきぃやーー!」
その声は……歓声か。
目が回らない程度でジャイアント・スウィングをやめたティディアが男の子を芝の上に立たせてやると、羨ましかったらしい別の子が即座に自分もと王女にせがみ、ロディアーナ朝第129代王位継承権保有者は再びスカート翻して回り出す。
そして回転が止まると、さらに別の子が自分も自分もとパワフルな姫君に要求した。
少し頬を引きつらせたバカ姫は、しかし気合を入れ直すとよせばいいのにまたも回り出す。
「タフな奴……」
そうつぶやいたニトロの心は呆気に囚われていた。
王都を離れて行う出張漫才は、真面目に『仕事』をしているティディアに直接触れる機会でもある。
午前中は王女の慈善事業の一環で三つの老人福祉施設を笑かして回り、その移動の車中でティディアは
毎度毎度、ついていくのがやっとのきついスケジュールだ。だが、それでも『出張漫才の本題はあくまで漫才』のため、それに集中できるよう可能な限り緩くさせているのだと彼女は軽く言うから驚く。
その上、こっちはここに来るまでに疲れきってしまったというのに――
「ひめさま、もういっかい!」
「よーし、姫様頑張っちゃうわよ!」
自分よりも忙しく動き回っていたはずのティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは本日最後の仕事として視察に来た王立児童養護施設シゼモ支部で子ども達と派手に元気にじゃれあっているのだから、もはやあいつの体力は底無しかと呆れる他、一体何ができるというのだろうか。
「ニトロ様は参加されないのですか?」
一人終わってはまた一人、一巡したらまたもう一度と回させられ続けているティディアをただ傍観し続けているニトロの肩を、背後から涼やかな声が叩いた。
「参加されれば、子ども達も喜ぶと思いますが」
「俺は『援軍』なんだって」
振り返り、声の主にニトロは言った。
彼女は四・五歳くらいの赤毛の女の子と手をつないでいた。その子は有名人と手をつなげているのが嬉しいのかにこにことして、麗人と『姫様の恋人』を交互に休むことなく見比べている。
「勇者がラスボスの『悪いお姫様』に負けそうになったら助けに駆けつける『正義の魔人』だそうだよ、設定上」
でも、この分だと幼い勇者達に呼ばれることはなさそうだけどね、とニトロが付け足すと――なぜか、ヴィタは大口を開けた。
「あ」
「あ?」
彼女の珍妙な反応に首を傾げ、次いで背後にどたばたと迫ってくる足音を聞き、ニトロは何が起ころうとしているのかを敏感に察した。
慌ててそちらへ振り向く――と、
「ありゃれへれはれ」
ジャイアント・スウィングのやりすぎに決まっている。完っ全に目を回したティディアがふらふら奇妙な声を漏らしてニトロの胸に突撃してきた。
「うおわ!」
ニトロは反射的にティディアを抱き止め、さらに脊髄反射で彼女を背後にうっちゃっろうとし――その刹那、これをこのまま後ろに投げ捨てればヴィタはともかく女の子に怪我をさせてしまう可能性が万が一にでも存在することに気づき、そのまま胸の中のティディアとダンスを踊るようにくるりと一回転、その勢いを利用して彼女がやってきた方向へと投げ戻した。
「あれ〜ぇ」
力ない悲鳴を上げてティディアが芝生の上に転がる。
そこへ彼女を追ってきていた三人の『勇者』が歓声を上げて飛び込んでいく。
――どうやら、先程のジャイアント・スウィングをきっかけに遊びの内容が『プロレスごっこ』に変じてきているらしい。
「ぅほっぐ!」
なかなか見事なエルボードロップをくらって、ティディアがわりとマジなうめき声を噴き出した。
中庭の周囲に控えていた施設の職員と、王女とじゃれあうにはもうそぐわぬ年齢の『兄姉』の中から数人が慌ててこちらへ駆けてくる。その顔には恐怖と焦燥と怒りがあった。これ以上ない賓客に『幼い家族』が狼藉を働いたのだ。いかに最初にティディアが「無礼講だから」と告げていたとしても、そう対応してしまうのは無理からぬことだろう。
しかし職員と兄姉達は、先んじて動いたヴィタに前を塞がれて立ち止まった。声が小さくて女執事の言葉をニトロは聞き取れなかったが、皆の表情が戸惑いに、ついでしぶしぶながら納得と安堵に変わったのを見ると内容は推し量れる。
「ニトロ助けてー」
三人の勇者に押し潰されている『悪いお姫様』からの救援要請は聞こえなかったことにして、ニトロは、ヴィタが職員達を相手にし始めたため彼女の手を離れて所在なげにうろうろしている赤毛の子に歩み寄った。
「何かして遊ぶ?」
聞くと、女の子は首を横に振った。そしてニトロをしばらく見つめた後、何か思いついたらしい、ぱっと顔を輝かせた。
「まってて!」
彼女はそう言うと、中庭の外縁でこちらを見つめている『兄姉』の中で一番年長らしい少女へと駆けていった。ニトロと同年代ほどのその少女は駆け寄ってきた『妹』に急かされるまま傍らに置いてあった鞄に手を入れ、小さな箱を二つ取り出した。その二つを小さな手に大事そうに抱えて、女の子がとてとてと駆け戻ってくる。
「ニトロくん!」
息を弾ませて、女の子は言った。