「困るだろう?」
 袋小路にはまったような面持ちで、ニトロはため息をついた。しかし彼の顔色は、胸を塞いでいた悩みを親友に理解してもらったことで気が楽になったか、いくばくか明るさを取り戻していた。
「――それなら、自営業はどうです? 飲食店とか」
 ニトロとは逆に肩に変な重みを載せられたような気がして眉を垂れるハラキリは、苦し紛れに言った。
「ニトロ君、料理得意じゃないですか」
 ハラキリが目線を隣へ動かすと、ニトロもそれを追って顔をティディアとヴィタに向けた。
 ……どうやら、二人も会話の中にあった重大性に気づいているらしい。
 ティディアはどことなく肩をすくめて身を固め、ヴィタは先まで髪の中に伏せてあった耳をピンと立て、触らぬ神に祟りなしと揃ってあさっての方向へ顔を背けている。
 ニトロはそれでも食事だけは続ける二人に何か意地悪なことを言ってやろうかと思ったが、辞めた。ハラキリの見る弁当箱を一瞥し、彼に向き直って言う。
「売り物にできるほどじゃないって。家庭料理だし」
 ティディアとヴィタが食べている弁当は、ニトロの手作りだった。
 無論、ニトロが彼女らに頼まれたくらいで……特にティディアが喜ぶと判っていて、手間暇かけて手作り弁当を持ってくるはずはない。
 それなのに弁当を作ってくるようになったきっかけは、三ヶ月前のこと。ニトロの実家に、大型のオーブンが備え付けられたこと。
 以前から大きなピザやパンも焼けるオーブンを欲しがりながら、それにはキッチンのリフォームも必要だからと断念していたニトロの父に、去年の末、妻と息子はそのための費用を贈った。そしてリフォームが終わった三ヶ月前の連休に、念願のオーブンを手に入れた父は使用感を確かめるためにもと早速パンを焼いたのだ。
 食べに来いと言われて実家に行ったニトロを待っていたのは、むせ返るほどの芳ばしい焼きたてのパンの香り――そう、むせ返るほどのパンの香りだった。
 種類も様々にパンが並べられたリビングは、まさにベーカリーショップ然として。そこでは喜色満面の父が息子の来訪を喜んで、その横には嬉しそうな夫が嬉しくて満面の笑みの母。
 ニトロはメルトンに言った。なぜ止めなかったと。
 メルトンは答えた。止められるわけねーじゃんと。
 確かに、家に着いた時でさえ、父はパンを焼き続けていた。聞けば次にはデザートにタルトを焼くと言う。えっらい笑顔で得意気に語る父とにこにこうなずく母を見れば、そりゃあこの夫婦を止めるためには、例え実力行使を用いてでも動きを止めてとくとくと説教する必要があったことは明白だった。
 メルトンにそれはできない。というかそもそもそこまで努力しやがらない。
 それができるのは、これだけパンを焼いたら後でどうなるかを考えていない――いや、例え初めは考えていたとしても作ってるうちに楽しくなっちゃってキレイサッパリ加減というものを忘却するような両親にツッコミ慣れた息子だけだ。
 実際、至極冷静にニトロに一言「どうするの?」と咎められた両親は、そこでようやく愕然としてどうしようと言った。
 結局、ニトロは両親と共に出来立てのパンの詰め合わせを近所に配って回り、夕食に三人で食べられるだけ食べ、それでも残ったパンは車に詰め込み途中ハラキリの家に寄って少し荷を減らしてから自宅に持ち帰り、冷凍保存できるパンはそうして、冷蔵庫に入りきらなかったパンや保存の利かないものは翌日が『漫才』の収録日だったことをこれ幸いと、小腹を空かせた人もたくさんいるテレビ局に搬送した。
 父のパンは、好評だった。
 ついでにとニトロが作ってきたサンドイッチも好評だった。
 特にサンドイッチは、ティディアに大好評だった。
 その時、ニトロは気づいたのだ。
 自分の作ってきたサンドイッチを食べているティディアは、毎日最高のシェフの料理を食っているんだろうに何をそんなに美味しそうな顔をするのか、ゆっくりじっくり噛み締め黙々として大人しいと。
 ――次の収録日、ニトロは試しに弁当を作ってきて「材料が余った」と一つティディアにやってみた。
 それまで楽屋にいる間は常に『お話したくてたまらないオーラ』を撒き散らし、芍薬の監視下でも隙あらば色仕掛けをしてこようとしていたティディアは、ニトロの手作り弁当に驚喜した後は弁当をもくもくと黙々と食べ続け目を疑うほど静かになった。
 以来、ティディアは収録前には食事を抜いてまで弁当を心待ちにしていて、いつの間にやらそっと二つ弁当箱を重ね合わせて差し出してきたヴィタの分も併せて、ニトロは二人を大人しくさせておけるならと弁当を作り続けている。
 もっとも、冷凍食品を――黎明期の大昔ならともかくプロ並の味を誇る現在の冷凍食品であっても、それを使うと目ざとく手作りじゃないとブーたれる二人の世話をするのはなかなか骨のいる作業であり、やれ今度は何を入れてだの今度はコーンスープも作ってきてだのと要求が増しているのが厄介なところではあるが……
「家庭料理とは言ってもそれを売りにする店もありますし、厨房に引っ込んでいれば素性もばれませんよ? 注文受けるのも運ぶのも芍薬に任せて、他に人を雇わず二人でやれば外に情報も出ないでしょう」
 いいことを思いついたとばかりに言うハラキリにニトロは苦笑して、
「労働基準法に引っかかるんじゃないかな」
 賃金を必要としないアンドロイドを労働力として使用することを無制限に認めてしまえば企業は人を雇わなくなる――アンドロイドが開発され出した当初、その雇用不安のうねりは法に雇用者は人間を雇わねばならないことを約束させた。
 その動きは特定の一国の中だけでなく銀河中で起こっており、ほぼ全ての国で基準は違えど同様の法律が規定されている。アデムメデスでは、事業規模や内容にもよるが、個人経営の飲食店で許可されるのは概ね勤務実体のある被雇用者五人に対してアンドロイドが一体だ。
「それに下手すりゃ王族が常連になる。そうなったら素性もバレバレだよ」
 ニトロが促した先では、あさっての方向に顔を背けたまま王女様が顎を動かしている。
「ああ、そうか。そうでした」
 そこまで考えが及ばなかったとハラキリは天を仰いだ。
 ニトロは、珍しいなと思った。
 博識で頭の回転が早く、いつも飄々として滅多なことでは動じないハラキリが、自分から切り出してきた『相談』に対して変に不器用な面を見せている。不慣れなことに挑戦している人を見ている感じすらある。
「……」
 そうだ。
 ハラキリは他人とこういう相談をすることに、きっと慣れていないのだ。
「就職するにしても色眼鏡はあるでしょうしねえ。引く手数多ではあるでしょうが……
 ……こうなったら、まずはおひいさんを諦めさせるというのは?」
「当面の目標ではあるけど、それを進路や夢にまでするのは何かこう虚しくないか? つーか志望書に書けるこっちゃないし」
「ですよねぇ」
 腕組みをして首を傾げるハラキリの姿に、ニトロは胸中に笑いをこぼしていた。
 友は何か一つはっきりとした『答え』になる結論を導かねばならないと思っているのだろうが、そんなことはない。話を聞いてくれたことだけでも十分だ。
 それに……実際のところ、毎日この件について芍薬と話すうちに『答え』への見当はついていた。なのにそれでも悩み続けていたのは、本当にそれでいいのかと、その思いが心の底でくすぶり続けていたから。
(……そういや……)
 ふと、ニトロはティディアを一瞥した。
 彼女は『普通』を無くした原因への責めがこないことを察して背けていた顔を戻し、エビピラフを数口残すばかりの弁当を熱心に食べている。
 ――いくら手作り弁当を食べている時は大人しいとはいえ、それは不思議なことだった。
 ずっと将来を話題にしているのに、数回くちばしを挟んできたくらいであとは黙っている。こういう場合は『私の夫になって夫婦漫才するのがニトロの進路よ』とでも言ってくるのが彼女の常套だろうに……
「いっそのこと外星がいこくに行くって手もありますが」
「それはダメ」
 ティディアがハラキリに釘を刺す。久々に声を発したが、それ以降は何も言わずエビピラフを食べ終え、果物用に別にしていた容器を開けてイチゴをぱくつく。
 少し……ティディアの口数の少なさが不気味ではあったが、元々何を考えているのか判らない奴だ。ニトロは考えても仕方がないと、いつしか長考に入ったハラキリに意識を戻し、言った。
「まあ、今のところは、適当に合格圏内の大学名でも書くしかないかな。やっぱり」
 ハラキリは目を上げた。ニトロが言ったセリフは、先ほど自分が言った言葉の言い換えだった。
「モラトリアム……だったっけ? 大学に行って四年間じっくりどうするか考えることにするよ」
 ニトロは冗談っぽく笑った。
 芍薬と話すうちに見当が付いていた『答え』は、悪く言えば問題の先延ばしだった。何をどう考えても将来のビジョンにクレイジー・プリンセスが乱入してくる現状では最善の選択はそれしかない、と。
「もしかしたら、それは甘えなのかもしれないけど」
 それでもニトロが本当にそれでいいのかと悩んでいたのは、その『甘えているのでは』という自問があったためだった。
 ――自分の身近には凄い奴がいる。
 ハラキリ、ヴィタ……そして、認めざるを得ない、ティディア。
 才覚に溢れ確かな実力を備えた三人が、しかし己が持つ力に溺れず己を磨き上げ続けていることを、ニトロは彼らが交わす会話の端々から悟っていた。
 だから、自分の置かれている状況が例えどんなに厳しいものであっても、それを言い訳にして、自分の将来もはっきりさせられず、その重大な問題を取り残したままひとまず時間的な猶予を得るために大学進学をしようと思うことは、もしかしたらひどく恥ずかしい甘えなのではと思い悩んでいた。
 だが、尊敬する『師匠』に親身になってもらって、おまけに――意地の悪い思い方かもしれないが――自分と同じように結論を出せずにいる姿を見た今は妙に心が軽い。
 ようやく、踏ん切りがついた。
「それで、いいんじゃないですか?」
 ハラキリは小さな笑みを返した。
「しかしそれが甘えだとは、拙者は思いませんけどね」
 ニトロは笑顔を深め、目で小さく感謝の礼をした。その言葉に、そして、相談に乗ってくれたことに。
「さて」
 と、コーンスープを飲み干し弁当箱の蓋を閉め、ティディアが言った。

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