ニトロは――
 それは何よりも急所を突く一撃だったらしい、力なくうなだれてしまった。顔を伏せたまま首を傾げ、ぼやく。
「それが、こう……はっきりとしたのはないんだ」
 どこか自己嫌悪とかすかにハラキリへの羨望を含めて、顔を上げたニトロは苦笑いを浮かべた。
「全く、何もですか?」
「さすがにそこまでじゃないよ。ただ昔っから……ハラキリみたいに店を持ちたいとか、例えば星間航空機スペースシップのパイロットになりたいとか、そういうものがなくてさ。なんとなく、多分普通にサラリーマンになって、家庭を持つんじゃないかな? くらいで」
「それはちゃんとした、立派な夢」
 甘酢の餡に絡められたミートボールを口に運びながら、ティディアが横からそれだけを言った。それだけを言って、ニトロが視線をやったのに意に介さぬとまたもくもくと食事を続ける。エビピラフを食べては好みの味なのかうふふと笑った。
「拙者も、それは何も恥ずかしくない目標だと思いますけどね」
 ――ティディアと、ハラキリ。
 それぞれに『一般人』とは違う世界を見ることのできる二人にそう言われると、それはとても誇らしい目的なのだという妙に重い説得力を感じるが……しかし、
「うん……」
 ニトロは、煮え切らないうめき声を上げた。
「別に専門的な職に就くとか、それとも何か大仰なことを言うことばかりが夢ではないでしょう」
「俺もそうは思うけどね。……まあ、ちょっとしたコンプレックスみたいなもんだったんだ。子どもの頃から友達が『パイロットになるんだ』とか『お姫様の側仕えになる』って言ってる横で、俺は普通にサラリーマンになるんだろうなーなんて思ってる自分が嫌に冷めてる感じがしてさ」
「解らなくはないですけどね」
 ハラキリがニトロのため息混じりのセリフに小さく肩を揺らす。
「それで、まだそのコンプレックスで進路を迷っていると?」
「いや、今は、別にそれが嫌なわけじゃない。サラリーマンになるってのは……公務員だから会社員とはちょっと違うけど、うちの親の楽しそうな姿を見てきているし、それが悪いなんて一つも思っていない」
「では大学進学で、就職に向いていそうな学科に行けばいいじゃないですか」
「……うん……」
 ハラキリはニトロの煮え切らない態度に困惑の色を浮かべた。
 ニトロの言葉だけを並べると何も迷いはないと思える。コンプレックスとてそれはもはや過去の思い出程度に消化していると、明言はせずとも彼はそう言っている。なのに――
 それとも、何か口に出したくない悩みの本質でも抱え込んでいるのだろうか。
「何をそんなに、悩んでいるので?」
 ニトロは渋いものを噛むように言った。
「っつーかね、今さら俺に『普通』ってあると思うか?」
「無いです」
 さらっと断言して、はっと、ハラキリは目を見開いた。
「そうか……」
 ハラキリは、二学年時におおよその進路を調べるための志望書を配られた時、クラスメートに進路を訊かれたニトロが『夢も希望もないよ』と答えていたことを知っている。
 だが、その時の夢や希望の無さはティディアの『結婚会見』を前にしてのもの……もしその会見を成功させてしまえば、世間の圧力も強まりティディアとの結婚から逃れられなくなる絶望を前にしてのものだった。
 だが――今は違う。
 会見に乱入し、ティディアに結婚宣言をさせず、ひとまず世の気配も『王女様の恋の行方を見守る(楽しむ)モード』に落ち着かせた現状では、その恋の結果として『破局』という名の選択肢きぼうを彼は手にしている。
 ――ハラキリは、ニトロが『夢も希望もないよ』と言っていたことを知っていた。
 そしてそのセリフの重みが、今、変わった。
 希望がある中で、夢も希望もない。
 彼がおぼろげながらも思っていた、普通にサラリーマンになって……その未来の、大前提の崩壊
 ティディアと結婚しようが破局しようが、これまで様々な騒動を――その極めつけとでも言うべき『赤と青の魔女』の事件を経て存在感を示してきた『ニトロ・ポルカト』が、今さら元の通りに戻れるはずもない。望みがあるとするならば破局の線だが、それでも世間の記憶から消えるには長い長い年月が必要となるだろう。
 なるほどそりゃあニトロが煮え切らないのもうなずける。選考の基準となるべきところが崩れていたら、何を決めることもできはしまい。
 ハラキリは、固まった肺から息を無理矢理搾り出すように言った。
「それは……困りましたね……」

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