ニトロ! ――と、声をかけようとしたティディアは、言葉を飲みこんで棒立ちとなった。
 部屋に入ってきたのは誰かと一瞥をくれた少年の眼差しが、瞬時に透明な眼差しとなり、無言で背けられる。
 ソファに座る彼は誰も入ってこなかったと完全にこちらのことを無視して、向かいのソファに座るハラキリと会話を再開した。
 ハラキリがあからさまな友人の態度に困ったように眉を垂れている。
 ニトロの傍らにいる人と全く見分けのつかぬアンドロイドは、明らかな敵意の眼差しでこちらを睨みつけている。
(…………)
 ティディアは、初めて芍薬の敵意が心地良いと思った。
 ニトロに完全に無視された衝撃に比べれば、なんと暖かい眼差しなのか。
(……)
 今は会場でスタッフの取り纏めを行っているヴィタは、ニトロが事件を『赤と青の魔女』の仕業としてコメントをすることを受け入れたと報告していた。そして、嘘をつかねばならないこと以外に関しては、機嫌が良かったと。
(ヴィタ、そんなの――とんでもない大嘘よ)
 ティディアは何だか泣きたい思いだった。
 こんなに弱い自分を知るのも初めてだ。
 『天使』に突き動かされていた時間の記憶の最後を真っ黒に塗り潰す恐怖感が、今になってまたざわざわと蠢いている。一体何があったのか。失われた記憶の中で起きたことは、この私がこんなになるほど心を打ちのめしたのか。
「ああ、そうだ」
 ふいにハラキリが、言った。
「『天使』ですが、製造中止になりましたよ」
「え、なんで?」
 ニトロが普通にハラキリへ問いを返す。ティディアの存在など、これっぽっちも気にかけていない証拠だと宣言するように。
「えーっと、ああ、ニトロ君にはまだ話してませんでしたね。
 あの『天使』を作った神技の民ドワーフは、『魔法少女』に憧れてあれを作ったそうなんです」
「脳味噌すえてんだろその神技の民ドワーフ
 ニトロの痛烈なツッコミに、ハラキリは笑った。
「手厳しいですね」
「厳しいもんか。大体、あんな変態天使がどうして『魔法少女』とつながるんだよ」
「いやほら、魔法少女って大抵パートナーを連れてるじゃないですか。『変身』することで魔法を使えるようになる、不思議な力を与えてくれる妖精みたいなものとか」
「ん〜、ああ、うん。まあ、そうかな。で、それがあの『天使』だと?」
「ええ」
「それで何で天使なのさ。そうきたら普通作るのは『妖精』だろ?」
「天使の方が格が上で強そうでしょう?」
「……それは、推測? それとも本当に?」
「本当に。直に聞きました」
 どこに住んでいるかも分からぬ神技の民ドワーフから『直に聞いた』などととんでもないことをさらりと言うハラキリだが、いや、彼ならそれは不思議でもなんでもない。
「まあ、作った本人はもっと可愛げのあるキャラクターにしたかったようですけどね。どうやってもああなってしまうから、それについては諦めたそうです」
「そんな思い通りにいかないものを売り出すなと言っとけ」
「キャラクターだけですよ。品質には……ご存知の通り効果にムラがあるとはいえ、絶対の自信を持っていましたから」
「ムラがありすぎだろう。結局、面倒なことになったじゃないか」
「ええ、それが製造中止の理由の一つ」
「あ、そうなの?」
「そうなんですよ。『魔法少女』に憧れて作った以上、『天使』には『無害かつ有益』というのが大きなファクターとしてあったそうなんです。弱き者でも悪者に対抗できる不思議な力を与える、というのが根本的なコンセプトでしたから」
 ニトロはハラキリの言葉にいくらか釈然としないようだったが、先を促した。
「しかし今回それが完璧に覆された。
 それも作成者が待ち焦がれた……まあ、少女とはちょっと違いますけどね、それでもようやく現れた『魔法少女』に相当する存在が、本来であれば倒すべき『魔女』だったというおまけ付きで」
 おかしそうに笑いながら言うハラキリが眼で扉の前に佇む女性を示したのを、ティディアは自分でも察した。友達の心遣いは嬉しかった。だが、それでもニトロはこちらを見ようともしてくれない。
「それが最大の理由ですかねぇ」
 その神技の民ドワーフの理由に対してか、それともニトロの厳しい対応にか、ため息をついてハラキリは言った。
「今回の件で何より作成者がショックを受けちゃいまして。もう作る気がしないと」
「ん?」
 ニトロは眉をひそめた。
「作る気がしない? なんか、手作りみたいな言い方だな」
「手作りですよ」
「マジで!?」
「マジで。
 専用の装置を使って、一本一本自分の目で確認しながら自分の手で愛情込めて。
 本人、いつか魔法少女が現れますようにってブツブツ言いながら作っていたそうで、知り合いの神技の民ドワーフは不気味だったって言ってました」
 『知り合いの神技の民』などとまたとんでもないことをさらりと言うハラキリは、あんぐりと口を開けたニトロの顔を見て、
「そんなわけですから。もうニトロ君が『天使』を使うことはないでしょう。ご安心を」
 それは、もうティディアが『天使』を使うこともない、そう裏側で示しているようだった。
「……本当に?」
 しかしニトロはティディアのことは無視したまま、ただ懐疑的な眼差しをハラキリに向けていた。
「ええ」
 ハラキリはうなずき、少し考えてから続けた。
「こう言えば安心されるでしょうか。『天使』の効果の不安定さに加え、その『強さの最大値』が神技の民ドワーフの予測を大幅に超えることも今回の件で判明しまして。神技の民全体としても自主的に封印。今後は『呪物ナイトメア』扱いにすることにしたそうです」
「……あのさ」
「なんでしょう。まだ不安ですか?」
「いや、もう作られないし世に出ないことは分かった。でも、な?」
「はあ」
「前から気になってたんだけど、神技の民って物凄い頭がいいんだろ?」
「ええ」
「それなのに何で『呪物ナイトメア』になるようなもの作るんだ? 自分達の作るものでそうなることくらい分かるだろ」
 ハラキリは腕を組んで、軽く肩をすくめた。
「基本的に神技の民は自分の知的好奇心や『こういうものを作りたい』という欲求に忠実です。とても忠実で、そして忠実すぎちゃってそれが呪物ナイトメアになるかどうかなんて考えてもいませんよ。中には完全な人格破綻者もいますしねぇ。そうでなきゃ、極稀にだって呪物がそこらに捨ててある、なんてこと起こるわけないでしょう?」
 やっぱりとんでもないことをさらさらと言うハラキリの『証言』に圧倒されて、ニトロは生返事に片笑みを添えるしかなかった。
「それにほら、『なんとかとカントカは紙一重』ってよく言うじゃないですか。身近にその体現者がいるわけですし」
 三度、ハラキリがドアの前で所在なげに立つティディアへニトロの意識を向けようというセリフを口にした。
 しかし、ニトロの意識は真っ直ぐハラキリに向いたまま微動だにしない。
「――!」
 ティディアの顔がかっと紅潮した。
 胸から喉へと駆け上がる激情があった。
 かつてこの身が、これほどないがしろにされ続けたことがあっただろうか!
 誰もが恐れるクレイジー・プリンセス。
 親愛の情を向けられるティディア姫。
 飴と鞭を使い分ける無敵の王女様。
 それが好意にしろ敵意にしろ、類稀なる才覚と美貌を持ち誰もがその目を素通りさせることのできないこのティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが、かつて……
 かつてこれほどの寂寞を味わわされたことがあったか!!
 ティディアは拳を握った。
 肩を張り、体を強張らせ、頑なな友人に苦笑を向けるハラキリに視線を送り続けるニトロを睨みつけた。
 唇が震える。
 喉を引き裂いて絶叫が漏れ出しそうになる。
「っ」
 嗚咽にも似た息をこぼし、ティディアは言った。
「ごめんなさい」
 ほとんど泣き声の、その言葉に、ハラキリが目を丸くして王女を凝視した。
 ニトロの傍らのアンドロイド、芍薬まで目を見開いている。
 しかしニトロだけは振り向きもせず――
「ごめんなさい」
 今度は頭も垂れてティディアは言った。
「……ミリュウ姫には謝ったのか?」
 深々と、初めてニトロに謝ったティディアに、不機嫌な声がかかった。
 ティディアは頭を振り上げた。
 そこにはやっと、やっとこちらを見てくれている最愛の男性がいた。
「ヴィタさんから聞いた。約束破ったんだろ」
「あ……」
 ニトロのきつい口調に心揺らして、ティディアは萎縮して答えた。
「まだ、謝ってない」
「ちゃんと謝っておけよ。お前と食事するのを楽しみにしてたそうじゃないか」
「ええ」
 ティディアはうなずいた。
「ええ、ちゃんと謝っておく」
 ティディアの返答を聞いてからニトロはしばし沈黙し、やおら、ため息をついた。
「俺は……お前が、嫌いだ」
 そしてため息とともに吐き出されたニトロの感情を浴びて、ティディアは固唾を飲んだ。
「分かってるな?」
「…………ええ」
 本音ではそれは絶対に認めたくないということを明白に顔に出しながら、それでもティディアはニトロの言葉を認めた。
「ヴィタさんと、ハラキリに感謝しろよ」
 ニトロの言葉にティディアがすぐには反応できず、沈黙が降りていた部屋に小さな吐息が流れた。ハラキリが、これで自分の仕事は全部終わったとばかりに、頭の後ろで手を組んでいた。
 芍薬はため息でもつきそうな顔でティディアを見ている。マスターがそう言うのなら仕方がないといった様子で、敵意を薄めている。
「今回の件は『赤と青の魔女』のしたこと。それで許してやるよ」
 ティディアは――
 ティディアは、ニトロに駆け寄った。
 瞳を輝かせ喜びを全身で表し歓喜に叫んだ。
「仲直りね! それじゃあ仲直りのちゅーをしましょう!」
 ニトロの頬が引きつった。
「ね、ニトロ!」
「ね、じゃねえわ早速調子に乗るなこのド阿呆!!」
 今にも飛びついてきそうなティディアの額を、ソファから立ち上がり様に繰り出したニトロのチョップが華麗に打ち据える。
 その光景をハラキリと芍薬は呆れた様子で眺め――
「ああ、痛くって何か嬉しいわー!」
「何を口走ってやがんだ変態王女!」
 痛む額を押さえるティディアはその目を潤ませて、以前と変わらぬ姿で怒鳴ってくれる少年を愛しく見つめていた。

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