王城の、ニトロが控えている部屋へつながる廊下を歩くティディアの胸は高鳴っていた。
 不安と、それ以上の喜びを抑えきれず、彼女の鼓動は奇妙な熱を帯びていた。
 ティディアはもう一週間もニトロの顔を見ていない。
 彼が入院している最中、見舞いには二度行った。
 だが、一度目――彼が目覚めた日に行った時は、芍薬に手酷く追い返された。
 二度目はハラキリが訪れる前日。芍薬の隙を見計らって部屋に入ろうとしたが、その途端に得も言われぬ恐ろしい予感を感じ、持参してきたフルーツを代わりに渡すようヴィタに頼んで自分は逃げ帰ってしまった。
 ……そう。
 逃げ帰ったのだ。自分が、このクレイジー・プリンセスが。
 その時の悪い予感は、これまでの人生で感じてきたものの中で最も強いものだった。
 どうしてそんな予感を得たのか、理由は判らない。
 しかし部屋のノブに手をかけた時、無造作に部屋に入っては取り返しのつかない怒りを買うと、心の底から得体の知れぬ震えが来たのだ。
 もしかしたら、それは――『天使』のせいで暴走していた時の記憶が魂の内側にでも刻まれていて、それが何かしらの理由でひび割れたからなのかもしれない。
(でもそんなの、全部『天使』のせいじゃない)
 ニトロが待つ部屋に向かいながら、ティディアは胸中でつぶやいていた。不機嫌に、あるいは自分に言い聞かせるように。
(私は、あんなことになるなんて思っていなかった)
 ティディアには『天使』を使った直後からの記憶がほとんどなかった。
 ヴィタに彼女が知る範囲でどういうことをしてしまっていたのかは聞いている。正直、頭を抱えた。自分の行動は限度を超えていた。手も荒い。普段なら絶対にやらない、ギリギリのラインを軽く踏み越えたことを『私』は行ってしまっていた。
 ニトロと共通の話題? そんな場合ではない。
 彼と同じ経験? そんな甘っちょろい夢想では済まない。
 そして何より恐ろしいのは、致命的な行動の数々は、ヴィタの知る範囲だけでもそれだけ行われていた――ということだ。
 執事の知らぬ部分で、自分がニトロにどんなことをし、どんなことを言ったのかは判らない。ニトロから詳しい聞き取りをしたハラキリは、どんなに頼んでもニトロが言うなと言っていたと教えてくれなかった。
 ――必死に、必死に思い出した。
 他にどんなにまずいことをしていたのか。
 霧の中の底なし沼に沈んだ記憶を必死に探した。
 しかし辛うじて思い出せたことも断片的で、結局、全体的には抽象的な記憶しか現れてくれなかった。
 寝ている時に見た夢を切れ切れにぼんやり思い浮かべることはできるけどその詳細をはっきりと思い出すことはできない……といった感じで、嬉しかったり驚いたり、何だか驚喜したり何だか悲しかったり、そして全体的には腹立たしかったり物凄く忙しかったり――その程度の感覚的な記憶しかなかった。
 それでも覚えている断片は明瞭に思い出すことができた。前後が不確かだからどうしてそうなっていたのかは判らないが……
 ある時は、ニトロとの甘い夢を彼に力任せに壊され悔しかった。
 ある時は、芍薬のことがたまらなく羨ましかった。
 ある時は、ニトロの『馬鹿力』の封じ方を知ってとてつもなく驚き凄まじく喜んだ。そう! ニトロの『馬鹿力』の封じ方! 今回の件で得た唯一にして最大の成果! これであの力は怖くない! ……きっと。そう、きっと。何でか、素晴らしい対抗手段を手に入れたというのにどうしようもなく自信がないけれど……。
 また、ある時は、身震いするくらい嬉しかった。その時の歓喜は最大で、初めて喜びで涙がこぼれそうになることがあるんだと、そう実感した。
 そしてまたある時は、死を覚悟するほど苦しかった。
 そして、その苦痛の後になると、断片的にすら覚えていることはない。
 ただ、自分を失っていた時間の最後は、甚大な恐怖と絶望で黒く黒く塗り潰されていた。
 ……あの日から、よく眠れない夜が続いている。
 その絶望と恐怖が影響しているのだろうか。
 常日頃から寝つきも寝覚めもばっちり三時間も眠れば十二分だったのに、あの日からずっと寝つきが悪く、眠りも浅いのか寝覚めもだるい。一昨日、人生で初めて目の下にクマが浮かんだ。それはいつまで経っても消えてくれず、今日もばっちり残っている。
 幸いクマはヴィタがメイクで綺麗に隠してくれているから、誰にも顔色の悪さを悟られていない。ニトロにも……綺麗な顔を見せられる。
(大丈夫、ニトロは許してくれている)
 ティディアの足はニトロのいる部屋に近づくにつれ、我知らず速度を緩めつつあった。
(あれは『天使』のせいだから)
 繰り返し胸中に言うティディアの声は、己を叱咤するかのように強められていた。
(ハラキリ君も、そう認めてくれた)
 ハラキリは、何を思ったのか、経緯はどうあれ実質『契約』を破った自分を強く咎めることはなかった。
 事件の解決のためにかかった必要経費を多少水増し請求してきて、それから聞き取り調査だと『天使』使用中の感想を正直に話させられ、あとはそこから彼が得た情報の共有を『契約不履行』を盾に断固として拒否してきたくらいで、ハラキリは「次はないですよ」と大甘な対応で手を打ってくれた。
 しかも、
(大丈夫、ニトロは優しいもの。それに話も分かるから、私がああなっちゃったことをちゃんと納得してくれている)
 ハラキリがニトロと会った後、自慢の元側仕えが作ったケーキを持っていかせたヴィタの報告によれば彼の態度が変化していたという。
 ハラキリも自分のことを弁護してくれたらしい。
 いつものように主に対する怒りを解こうとしたヴィタを先んじて制し、「もう分かった」と、ニトロはそう言ったという。
 さすがに『許す』とまでは言わなかったが、それでも希望が見えたと報告するヴィタはほころんでいた。
(だから、平気)
 ティディアはニトロの控え室の前で足を止めた。
 何度も深呼吸をする。
(きっと大丈夫)
 彼に会えなかった一週間、ニトロと話したい話題はいくらでもあった。
 頭痛とともにスライレンドで目覚めたあの日、王城の自室で異常があったとA.I.が知らせてきた。何故かベッドが壁に激突して壊れた、と。そしてその破片が『リンゴの絵』を傷つけたと。
 その日は事態の収拾に忙殺され帰ることはできなかったが、帰って一番に見た『リンゴの絵』は、壁に投げつけられたように壊れたベッドの破片にちょうどリンゴの部分を突き破られて無残な姿を晒していた。
 ……悲しかった。
 自分でも驚くほど大きなショックを受けた。
 今はジスカルラ王立美術館の腕のいい学芸員に教えを受け、暇を見つけては少しずつ修復を行っている。だが、傷は完全には消えないだろう。
 そのことを、ニトロに話したい。
 それに昨日会ったパトネトと話をしていた時のことも話したい。
 ひょんなことからニトロが彼の父の影響で料理が得意だという話題になり、そこで意外なことにパトネトがニトロの手料理に関心を示したのだ。弟は人見知りが激しく積極的に他人と関わろうとはしないから、それは本当に意外なことだった。
 しかし、これはチャンスだった。
 パトネトの人見知りはどうにかしたいと思っていたし、未来のお義兄さんとの初顔合わせにもちょうどいい、ニトロに頼んで弁当でも作ってもらってピクニックに行こうと思う。そりゃあ直接『未来の義弟と』なんて言ったら確実に拒否されるだろう。だが、弟の人見知り克服に協力してと言ったら、彼は何だかんだで承知してくれるだろう。
 他にもニトロと話したい話題はたくさんある。
 一年前までオール3を十二連続で取り続けていた彼が、昨年度に入って成績を向上させている。去年一年間の総括では学年でも中の上、あるいは上にまで食い込みそうな勢いだ。
 特に成績が上昇したのは保健体育だった。彼の高校から取り寄せた成績表を見るととにかく運動能力が上がっていて、体を使うには体の仕組みを熟知していなければならないとでもハラキリが吹き込んだのだろう、それに伴い保健の筆記試験では学年トップにいる。
 ついで上昇しているのは語学。必須科目の全星系連星ユニオリスタ共通語。
 どうせ外星に逃げ出すことを考えているのだ。
 さりとてこちらとしても、第一王位継承者の夫として語学は習得して欲しいと思っていた。
 もちろん携帯翻訳機を使えば語学の習得は必ずしも必要ない。必須科目になっているのだって単純に常識、それとも基礎知識という意味合いが強いくらいだ。それに、自分がいれば主要な言語圏内であればどこでだって専属の通訳になってやれる。
 とはいうものの、それでも『国の代表クラスの公人』が他の全星系連星ユニオリスタ加盟国で翻訳機や通訳を使うのは恥だ。
 別に全ての加盟国の母語を覚えなければいけないわけではない。全星系連星ユニオリスタ共通語を覚えればいいだけの話だ。それなのにそれすらもできない、となると、馬鹿にされる。
 ニトロが馬鹿にされる。
 面と向かっては言われなくとも、侮蔑とともに陰口を叩かれる。
 それは許せない。だから、彼には共通語だけは習得して欲しいと思っていたから、彼の努力は大歓迎だ。
 だが、一方で数学や世界史がいつまでも平均点を抜け出していない。
 どうせ身を守るにそう必要ではないと後回しにしているのだ。
 しかしここまできたら、そこらの成績も上げて文武ともに磨き上げた男性になって欲しいと『欲』も出てくる。
 ニトロは、頑張り屋だ。それとなく『必要』を感じさせれば、きっと期待に応えてくれるだろう。
 なんだったら自分が付きっ切りで家庭教師をするのもいい。それでついでに成績優秀な保健で得た知識を女の体で実際に確かめてもらうのもいい。
 ニトロと話したい。話題は尽きることなくある。
「……よし」
 意を決し、ティディアはノブに手をかけ――ひやりと首筋を撫でた悪寒を目をつぶって振り切り、部屋に入った。

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