ハラキリ・ジジが『精神的なショックのため入院中』のニトロを訪ねて来たのは、実に四日後のことだった。
 いかに助けてくれたとはいえ、少なくとも事件の当事者で原因の一つのくせして被害者を何日も放っておくなんてどういうつもりだよとニトロに文句を言われたハラキリは、いつものように飄々とした調子で「三日三晩七転八倒してました」と答えた。
 それは本当に飄々として冗談交じりにも聞こえたから、ニトロは、その言葉はきっと事後処理に忙しかったことの比喩だろうと解釈した。
 しかし実際には、ハラキリは『天使』連続使用の副作用で麻酔も効かぬ激痛のため言葉通り三日三晩七転八倒していたのだが……それを言ってはニトロが気に病むと、ハラキリは誤解をあえて引き受けることにした。
 そしてそれよりもと、ハラキリはまず話をする前に、ニトロの病室へ来る前に『聞き取り調査』のため会っていたティディアから預かってきたものを友人に渡した。
 ニトロが受け取ったものは、紙製の封書だった。
 それは――滅多に紙面に文字を書くことのなくなった昨今でも残る風習。
 心からの感謝、心の底からの謝意を伝えるための方法。
 それはいつになっても電子メールに代わることはない。人生において一通か二通、送ることがあるかどうかとも言われる『手紙』だった。
 一体誰からか、もしやティディアが詫び状でも送りつけてきたのかと思いながら封を開け、便箋に綴られた文字を見たニトロは……息がつまった。
 綴られた言葉一つ一つの重みに、胸が締め付けられた。
 所々涙で滲んだインク。
 そこには切々と切々と夫の命を救ってくれた恩人へ感謝を伝える言葉が並べられていた。手紙は、よもやティディアの『仕込み』の一つではなかったのかと疑った、屋上で出会った男性の妻からの感謝状だった。
 それを読んでは彼もティディアの仕込みだったのでは? などと疑うことは出来なかった。いや、それよりも疑っていたことを恥ずかしくも感じた。
 本当にあの日は何という一日だったのかと、ニトロは思う。
 数日が過ぎ、結局事態は『ティディア』の思惑通りに進んでいた。
 ……いや、どこまで鉄面皮の裏で考えていたのかは判らないが、現実は『ティディア』の狙い以上にうまく進んでいるのではないだろうか。
 ニュースを見ていたらストレスが堪るだけなので、芍薬に状況をまとめてもらっているが――
 時が経つにつれ話は妙な方向に発展し始め、何だか知らないが『ニトロ・ポルカト』は異常能力者ミュータントをも魅了する何かを実は持っていて、それはクレイジー・プリンセスにも対抗できる才覚、あるいは暴君と化した初代王を粛清した王子に比肩する英雄の資質なのではないかと、そう語られ出しているという。
 あの日を境に、ただでさえ『身代わりヤギさん』だの『クレイジー・プリンセス・ホールダー』だのとバカ姫対策扱いをされていたのに、それが輪をかけて酷くなってしまった。
 愚痴をこぼすニトロが「英雄なんてそれは絶対にないのに!」と断言してもハラキリは笑うしかなく、内心では少なくとも『クレイジー・プリンセス・ホールダー』であるのは紛れもない事実だと思っていたが、それを言うとニトロが泣くか怒るかしそうだったので黙っておいた。
 ニトロは不満をもらしながらも四日振りの友人の来訪に機嫌良く色々話していたが、ふいにハラキリが切り出した話題に気分を害し、それ以降は仏頂面を貫き通した。
 ハラキリが口にした内容は『天使』のこと。その効能、その詳細。
 そして――ティディアの、弁護。
 あれは本当に事故だったのだと。
 ティディアにあんなことをする意志は皆目なかったのだと。
「ニトロ君も、おかしいと思いませんでしたか? いつものおひいさんに比べて、違和感がありませんでしたか?」
 それはニトロにも……あの日のはっきりとした記憶の最後、王立公園の噴水池でティディアと対峙した際に感じた違和として覚えのあることだった。
 しかし、いくらハラキリの指摘に記憶があっても、いかに弁護を重ねられても、今回ばかりは怒りの矛を収められようもなかった。
 何しろこちらにはあのバカに迷惑かけられっぱなしの経験値がある。その経験から言える言葉もある。
「あいつはいちいち確信犯だ」
 断じて、今回の件も絶対こうなることを解ってやっていたはずだと。
 芍薬は二人の話を――助言はしてもマスターに自分の望む形に判断してもらうよう促しはしないと――何も言わずに聞いていたが、ニトロに話を振られた時には迷うことなく主と同意だと示した。
「いいえ」
 それをハラキリは頑として否定した。
「普段はそうでしょう。ですが、今回ばかりは違う」
 ティディアの弁護をしたのはハラキリだけではない。ティディアの代理で毎日様子を窺いにやってくるヴィタにも、諦め悪く同じようなことを聞かされていた。
 言い訳を重ねる執事を怒り任せに追い返すことは容易かった。
 しかしニトロはヴィタに約束した通り、それを聞くだけは聞いた。聞くだけは聞き続けた。
 だが、ニトロは、考えを変えるつもりはさらさらなかった。
 それなのに、あまりに熱心に、珍しく熱意を露骨にしてまでハラキリが――彼だって酷い目にあったはずなのに――バカ姫を弁護するものだから、とうとうニトロは根負けして思わず「証拠はあるのか」と彼に問うてしまった。
 その時、ハラキリは……流れを変える千載一遇の好機であっただろうに、そこで言葉に詰まった。
 それは初めて見るハラキリの姿だった。ティディアとはまた違うが奇妙なペースで人を丸め込む彼が、絶好の機会にそのような隙を見せる姿など。
 ややあって、ハラキリは飄々とした調子を取り戻すと、何かを割り切ったように「証拠はありません」と言った。だけど「おひいさんを信じなくてもいい、拙者の言うことを信じてはいただけませんか」と、そう訊き返してきた。
 ニトロは表では仏頂面を晒しながら、裏では苦笑していた。
 珍しく真摯な顔で無二の親友にそこまで言われては……少しだけ、考えざるを得なかった。

→1-終cへ
←1-終aへ

メニューへ