ニトロが目を覚ましたのはそれから半日後のこと。
彼が目覚めて一番に見たのは、ベッドの傍らでこちらを覗き込むアンドロイドの安堵の顔だった。
されど、『異常』を嫌というほど味わった直後、加えて起き抜けのニトロの脳は情報を整理できずに混濁していた。
なぜ自分がベッドの上にいるのか。
アンドロイドは一体なぜそんなに労りを向けてそこにいるのか。
そもそもここはどこなのか。
まずアンドロイドを操作しているのは芍薬だと理解しても、他のことまでは一度では理解できず、ニトロは体を起こして周囲を見渡し、そうして目覚めた場所は簡素だがホテルのスイートルームだと察した。
「ホテル!?」
我知らずニトロは絶望に叫んでいた。
己が口にしたその単語に体を震わせ、そして不安げになぜこんな所にいるのかと問うマスターに、芍薬は看護用のメディカルアンドロイドの顔を目いっぱい微笑ませ、全ては無事に終わったのだと、そう言った。
ホテルのスイートルームだとニトロが見間違えた部屋は、違う。王都の中でも有名な総合病院のVIP用の個室だと、芍薬は言った。
……しばらくして、芍薬が穏やかにかけてくれる声に落ち着きを取り戻したニトロは、そこで次第に状況を把握していった。
何がどうしてこうなったのか、芍薬と話しながら思考を整える。
『天使』を使ってからの記憶は、寝ている時に見た夢を切れ切れにぼんやり思い浮かべることはできるけどその詳細をはっきりと思い出すことはできない……といったくらい曖昧だったが、しかしその状態でも、ニトロはティディアに泣きを入れさせたことだけは何となく記憶の彼方から呼び戻すことができ――
そして、それを思い出したニトロは、そこでようやく取り戻した平穏を胸いっぱいに享受することができた。
それから彼は、スライレンドでの『事件』がどういう顛末に向かっているかを芍薬から聞いた。
今回の件、ニトロはてっきり『クレイジー・プリンセスの仕業』として大騒動になっているだろうと考えていたが――
スライレンドにはその日、
その魔女はその場に居合わせた『ニトロ・ポルカト』に求愛し、それを拒まれたことで怒り狂い、少年を殺そうとしたのだと。
だが、ニトロは逃げ延びた。
懸命に逃げ、連絡したティディアからの助けを待ち、そして王女が派遣した『特殊部隊の兵士』がニトロを救出し、その際の戦闘で傷ついた『魔女』は王立公園の森の中で流星を引き寄せ、自殺し消滅したのだと。
――ニトロは、芍薬の語る無理も極まる『ストーリー』に困惑した。
聞けばティディアは自分と違い、タフなもので決着から一時間あまりで目を覚ましたという。
ではその出来の悪いストーリーはティディアがでっち上げた『誤魔化し』なのか。それにしては出来が悪過ぎはしないか。もしやあの大バカ女今回の件で抜き差しならないほど色々悪い方向にレベルダウンしたのかとニトロが首を傾げていると、芍薬はその『ストーリー』はスライレンドの住民達が作り出していると言った。
それはニトロには到底信じられないことだった。
だが、芍薬はそうなのだと断言した。
そしてハラキリの推測だけれどと、そうなった理由を教えてくれた。
たった一つの単純明快な理由。
あの『天使』でぶっトんだティディアが、そうなるように仕組んでいたのだと。
確かに思えば、『婚姻届』を無理矢理書かされそうになった直前、自分とティディアを見た目撃者達は誰も「ティディア」と口にしていなかった。
『赤と青の魔女』と呼ばれだしたその
それは、ニトロにも覚えのあることだった。
ティディアがあのカフェに現れた時、あいつはそんな顔をしていた。
さらに証言を裏付ける『映像』も残っているという。『婚姻届』の時に操られていた車達。人もA.I.も立ち去らされた後でも動き続けていたその車載カメラには全て、目撃者達の証言通りの姿で異常な力を行使する女が映っているのだと。
ニトロは呆れとともに理解した。
いや、納得するしかなかった。
何をどう考えてあのぶっトんだバカ姫がそうしたのかは知らないが、ハラキリの推論は正しいのだろうと、そう思った。
そして芍薬は最後に、ハラキリからの伝言だとこう告げた。
『そういうことにしておいてください。それが一番良い』
と。
それを伝える芍薬は苦々しげだった。それはそうだろう。ティディアのしたことはよほどの理由がない限り、情状酌量の余地もない。しっかりと罰を受けるべきだとニトロは思ったが……
思ったが。
自分が真実を語ったところで、それでも事件が結局ただの『クレイジー・プリンセスの仕業』――否、蛮行に落とされるだけなのは明白だった。そう、始め、自分がそうなっているだろうと考えていた通りに。
何しろそれを皆に納得させるだけの『クレイジー・プリンセスの実績』がある。困ったことにこの星の皆は彼女が暴れることを半ば諦めてもいる。それどころか、むしろ楽しんでいる『ファン』までもたくさんいる。
もちろん大問題にはなるだろう。大問題になり、短期間にティディア姫への支持が急落することはあっても、類稀な美貌とカリスマを持ち為政者としては善政をしく彼女のことだ。すぐに人気を取り戻すということも明確に予想がついた。
そうなっては真実を語ったところで何の変化もない。
それに真実を語れば、最悪、ハラキリがただでは済まないだろうことに思い当たってニトロはうなった。
もしクレイジー・プリンセスの蛮行に、『天使』という
当然、宇宙規模の事件になる。
――ハラキリは、助けてくれた。
『天使』を使用して以降、切れ切れの夢の中でもはっきり覚えていることが一つだけあった。
それはハラキリが負けた後も再び助けに来てくれようとしたこと。
その直後に記憶は再び深い霧の中へ消えてしまっているが、ただ彼が命を賭けていてくれたことだけは、はっきりと覚えていた。
そこに思い至ってしまっては、ニトロにはもう真実を語れる口はなくなっていた。
ハラキリの言う通り……そういうことにするしかなかった。
確かに、事はうまく落ち着くだろう。
それでもスライレンドに被害を及ぼしたあのバカの所業を思えばどうにも
――曰く、不可思議極まることにスライレンドで確認された物的被害は街路樹が一本燃えてしまったことと、王立公園の一部に被害が出たことだけ。
そんな馬鹿な、ハラキリとの戦いは爆音が轟くほど激しかったはずだし、少なくともカフェは色々と壊れてしまっていたとニトロが言うと、芍薬は首を傾げて「直ッテルンダッテ」と言った。
――また、曰く、スライレンドで止まっていた約二時間の間。特に大きな事件も被害もなく、それどころかとある病院で緊急手術中に危篤状態に陥っていた患者が、その失われた二時間の内に奇跡的に回復していたそうだ。他にも小さな幸運に出会った人々が何人も何十人もインターネットのコミュニティに書き込みをしている、と。
――そして最後に、曰く、ニトロに命を救われたと証言する中年男性がいる。
それを聞いたニトロは、すぐに誰がそう証言しているのかを悟った。
ティディアにスカイモービルから落とされた際、ビルの屋上で出会った男性だ。
彼はニュースに出ずっぱりで、ニトロ・ポルカトが語った事件のあらすじをマスメディアを通じて世界発信し、それと併せて、涙ながらに我が身こそ危機に晒されているというのにそんな時ですら自殺をしようとしていた自分を励ましてくれた、彼は素晴らしい人物だと語り続けているという。
そして芍薬は「コレハ悪イコトカモシレナイケド」と……それを聞いたニトロもありがた迷惑だと苦笑いするしかなかったけれど、男性は『ニトロ・ポルカトは王に相応しい』とまで言っているそうだ。
加えて、男性の証言を補強するかのように、空から落ちた直後にティディアの腕の中で見た女性二人――逃がそうとして間に合わなかった彼女らが『ニトロ・ポルカトは魔女に掴まっているのにも関わらず、自分たちを逃がそうとしてくれた』と証言している。
『魔女』の話に説得力を持たせているのはこの三人の証言が特に大きく、それから芍薬は今度こそ「コレハ悪イコトダケド」と、そのせいで『ニトロ・ポルカト次期王への流れ』がいい感じで加速してしまっていると言った。
ただの一般人でまだ高校生の、それも世間一般的に特に秀でているわけでもない一介の少年が、『ティディア姫』の夫――史上最凶にして最高の次期女王の伴侶となることに抵抗を見せる人々も少なからずいたのに、それを転向させてしまいかねない風向きだと。
ニトロは打ちひしがれた。
彼にとっては、それこそがこの事件最大の被害だった。
だからニトロは「まさか?」と疑った。
まさか、あの自殺をしようとしていた男性は、それこそが『ティディアの仕込み』だったのではないかと。
ティディアがスライレンドの件を『魔女』のせいにしたのは、同時に『ニトロ・ポルカト』に英雄の要素を加えるためではなかったのかと。そしてそれを補強するために、あの自殺を考えていた男性をあの場所に用意していたのでは? と。
――後日、手紙が彼の手元に届くまで。