気がつくと、ティディアは眼下にアデムメデスを見ていた。
 どうやら恐怖のあまり大気圏を越え、衛星軌道上にまで飛んできていたらしい。
 無意識の内にも生命維持の『力』は発揮されていた。体の周りには庇護膜が張られていて、空気も十分にある。
 ふと頬を濡らす感触があって手で触れてみると、それは涙だった。
 ここまで来る途中、泣き叫んでいたのか……
 ティディアは両拳でぐしぐしと目を拭った。鼻水まで垂れていた。ドレスの裾を千切ってはなをかんだ。
「ほら、ゴミをよこせ」
「ん……」
 傍らから聞こえた優しい声に丸めた布を渡す。
 鼻の奥が痛くてすんと息をし、はたと、ティディアは気づいた。
「……ニト……ロ」
 太陽の光を青く照り返す美しい母星、アデムメデス。
 その光を下から浴びる少年の笑顔が、すぐ横にあった。
 心臓が止まったかのように硬直するティディアの肩に、ニトロの腕が回った。
「ほら、ごらん?」
 恋人同士の語らいのように、ニトロが頬を寄せて言う。
「……」
 ティディアは涙目でニトロの示す青い星を見つめた。
 逃げられない。
 肩に食い込む彼の指の力が、それをティディアに確信させていた。
「美しいだろう?」
「……うん」
「あれが、お前を殴る拳骨だ」
「……え?」
 ニトロのセリフにティディアが疑問を返した時、アデムメデスは彼女の頭の上にあった。
「え?」
 ティディアが自覚する間もなく、彼女の体勢はひっくり返っていた。
 もちろんニトロがひっくり返したのだ。彼の手はティディアの腹の前で組まれている。その両腿は彼女の頭を挟み込み、逃げられぬようしっかりと固定している。
「……」
 ごくりと、ティディアはつばを飲んだ。
 知っている、この体勢。
 喰らったことがある、『映画』の舞台挨拶の時に。
 脳天杭打ち――パイルドライバー。
「――!」
 ティディアは暴れた。
 死に物狂いに脱出を試みた。
 テレポーテーションで空間を渡ろうとする。だが、1mmたりとて移動することはできない。
 頭を挟んで離してくれない太腿とベルトラインで組まれたニトロの手に触れハラキリを倒した術で攻撃する。だが、彼は平然として全く素晴らしく何事もない。
 力ずくで、最後には原始的な腕力で拘束から逃れようとする!
 だがニトロは微動だにしない!
 何をどうしてもどうすることもできない!
「――馬鹿力」
 そうだ。
 これは、『天使』にニトロの『馬鹿力』が合わさってしまった『力』なのかも――
「馬鹿力! 馬鹿力っ! 馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力!!」
 そう思うや、ティディアは呪文のように唱えていた。
 一心不乱に息つく間もなく唱えていた。
 『馬鹿力』ならば、ニトロがそれを自覚すれば霧散するはずだ――と。
「馬鹿力!!!」
「何の戯言だ」
 しかしティディアの希望は、ニトロに実に冷静に噛み砕かれた。
 ティディアの瞼から玉のような涙の粒が次々と溢れ出て、母なる星の光を受け無重力の空に青い宝珠と輝いた。
「し――」
 ティディアに残されたのは、もう、彼の慈悲にすがる道しかなかった。
「死んじゃう! いくらなんでもニトロ私死んじゃう! お願いやめてやめて!」
 無情なるかな、彼女の懇願も虚しく二人の体はゆっくり母星へ向けて動き出していた。
 ぴょんとニトロが跳ね、足を投げ出しその姿勢きっかり90度のL字型となる。
 ティディアの脳天はアデムメデスをいただくように真っ直ぐ地表へと向けられ――
「ひぃぃぃ!」
 加速していく。
「ぃぃぃぃぃぃぃ!」
 引力に引かれ、二人の体は母星へと落下し加速していく。
「ぅを゛んぱサーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
 やがて二人は大気を貫き……
「いぃぃいぃやあああああああああああああああああああ!!」
 そしてティディアの悲鳴は散る涙、あるいは星屑と――儚く、消えていった。

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