「うぅ……」
涙目でティディアは地表の氷を砕き、それを足首に当て患部を冷やしていた。
異常な砕け方をした骨、すり潰されたかのように破壊された細胞。くるぶしがグレープフルーツ大に腫れ上がっている。
「痛いよう」
どんな傷だろうが一息で治せるはずなのに、まだ足首に残るニトロの手の熱が邪魔しているのか『力』を集中してもなかなか治癒は進まない。
北極大陸、それを覆う大陸氷河の上。猛烈な寒気と起伏する氷原の中に独りきり、ティディアは鼻をすすり懸命に傷を癒していた。
ニトロは、まだ来ない。
きっと彼は追ってくるから、それまでに治さないといけない。
ティディアはもう彼がどこにいるかと探るのをやめていた。どうせ判らないと、理解したから。
そしてその事実は、ティディアに絶え間ない恐怖を与えていた。
どこに逃げても追いかけてくるニトロ。
どこからどう現れてくるかも判らない愛しい――そして最も怖ろしい少年。
あれは一体何なのだ。
『天使』を使っているのは分かる。だが、彼の『効果』はあの変幻自在の肉体を持つ筋肉ダルマへの『変身』ではなかったか。どんなに変化しようが結局は肉弾戦の、筋肉馬鹿。
そうだ、そのはずだ。
あんな……
あんなに怖いニトロ・ポルカトじゃない。にこにこ笑い続けていながら、実はその下に鬼すら逃げ出す形相を秘めたニトロじゃない。
一体……少し目を離した隙に一体何が起こったのだ。
彼の中で渦巻いているのは『地獄』だ。
そこから噴き上がる煉獄の炎は彼の魂を際限なく熱して、魂はその怒りに触れる者を一触れで粉砕し朽ち果たそうと煮え滾っている。
「――――」
「!?」
ふと、ティディアは、誰かに呼ばれた気がしてそちらへ勢いよく振り向いた。
ニトロがやってきたのかと思ったが、そこには誰もいない。
恐怖に空耳でも聞こえたのだろうかと足首の治癒に意識を戻すと、
「――――ィ」
「!!?」
やはり聞こえる。
振り向くと、丘のように盛り上がる氷床の向こうに白煙が立ち昇っていた。
それは……そのキラキラと舞う銀幕は――駆けるニトロに踏み砕かれ蹴り上げられる冷たき土煙!
「ま゛ぁぁぁぁぁぁい!」
「ひぃ!」
見ただけでも相当な距離を瞬く間に駆け抜け現れたニトロの怒声を浴び、ティディアの喉笛が引きつり甲高い音を立てた。
まだ足首は痛むが骨は整った。筋は腫れているが細胞は形を取り戻した。ティディアは震える肩を抱き締め中空へと体を運んだ。
そして、はっと思いついた。
どこに逃げてもニトロは追ってくる。
しかし、空なら? 足場のない空中なら。
ティディアは考えるまでもなく高度を上げた。
「ま゛ーーーーーーーーーーーい!」
氷の大地を踏み割って、ニトロが跳びかかってくる!
「わわわわわ!」
真っ直ぐにこにこと柔和な笑顔で迫り来るニトロの勢いにティディアは悲鳴を上げた。すでに50mは飛び上がっている。なのに彼は勢い失くすことなく掴みかかろうと迫ってくる!
ティディアは息をするのも忘れてさらに高度を上げた。
ニトロの手が腰に触れる寸前で止まり、さらに上空へ飛び上がっていくティディアとは逆に地上へと落下していく。
ティディアは安堵の息をついた。
思った通りだ。
ニトロは飛べない。
これならこのまま飛び続けていれば……
「ま゛ーーーーーーーーーーーぃ!」
ニトロは、飛べない。
だが、空を走ってきていた。
「ま゛ーーーーーーーーーーーい!」
左足が沈み込む前に右足を上げて、右足が落ちる前に左足を差し上げる。
そんな物理法則完全無視も極まる方法で猛然と駆け上がってきていた!
「っま゛あああああああああああああああああ!」
「っき゛ゃああああああああああああああああ!」
ティディアの悲鳴はもはや断末魔だった。
全力で高度を上げ、音速を超えてなお速度を上げて逃げる。
それでも、ニトロを振り切れない。
音の壁など何するものぞとニトロは追ってくる。
風を切り雲を突き抜けにこにこ笑って奇声を上げ腕を振り空を蹴って追ってくる。
追ってくる。
追ってくる。
追ってくる!
「きゃあ! ぎゃあ! きやあああああ!」
ティディアはしっちゃかめっちゃかに乱れる頭で考えた。
どうすればいい。このままではニトロにえらい目に会わされる。そりゃもう絶対確実に悪夢を見せられる。嫌だ。本当ならニトロと甘い夢を見るはずだったのに。きっと泣いてしまうくらい幸せな時を彼と過ごすはずだったのに。なのに、それなのに、それが悪夢に変わるなんて――
いやだ!
(そうだ!)
ティディアは混乱きたし始めた脳裡に閃いたその考えに希望を見出した。考察する間もなくそれしかないと確信し、即座にそれを実行するべく彼女はスライレンドへと瞬間移動した。
スライレンドの……ハラキリと戦った場所に。
そこではヴィタが手配したのだろう直属の兵士達が何やら作業をしていたが、ティディアは彼らがこちらに気づく前に『力』を行使し催眠にかけた。ここに居られると邪魔だからとさっさと移動させ、邪魔がなくなったところでもう一度『力』を全開にする。
ハラキリとの戦いで壊れた車、車道、アンドロイド、燃えてしまった街路樹。それら全てを渾身の『力』で修復していく。
時間を逆戻ししているように、見る間に全てが元通りになっていく。
ハラキリが鎖や槍に変えた車体もそれらを元に何もかも完璧に直す。
アスファルトを平らに均し、壊れたアンドロイドも全て綺麗に整える。
燃えてしまい炭化した街路樹を元に戻すのは骨が折れそうだが、頑張れば何とかなるだろう。
「……!」
いざ街路樹の復活に『力』を込めようとした時、ひやりとティディアの首筋に悪寒が走った。
「…………」
視界の隅で、彼が腕を組みにっこにっこ笑っている。
「あ……」
ティディアは、躊躇いがちに、そちらへ顔を向けた。
「あのね? 見て? ほら、全部直したの。そうだ、後でカフェも直しにいかなきゃ。分かってる、私ちゃんと全部直す。ちゃんと元通り。だから、ね? あの……」
ニトロは笑顔のまま何も言わない。細められた双眸は目尻に笑い皺を作り、柔和で人の良い温かな顔がそこにある。
「そうだ! 私、大サービスしちゃう! この町の皆にちょっとずつ幸運がもたらされるようにしておく! 本当よ? 本当! 皆、絶対喜ぶよ!」
いつもなら、もしそんな笑顔を見せてくれるなら、嬉しくてたまらない。だけど今は怖くてたまらない笑顔は、彼の顔に張り付いたままじっとこちらを見つめるばかり。
「だからね、あのね! だから、ニトロ。お願い。許して……あの……お願いだから……」
ニトロは何も言わない。
ティディアは浮かべた誤魔化し笑いを凍らせて、姿を消した。それから数分後、ティディアはまたこの場に戻ってきた。
ニトロは同じ場所に同じ姿勢で同じ顔のまま、佇んでいた。
「直してきた!」
ティディアは親に誉めてもらいたいと全身で訴える子どもみたいに言った。
「あのカフェも直してきたよ! あとはこの木だけ!」
ニトロが、初めて動きを見せた。
彼は、ゆっくりとうなずいた。
ティディアの目が輝いた。
「それじゃあ、これが終わったら!?」
「許す、わけないだろ」
重低音が、ニトロの笑顔の裏側から流れた。
ティディアの顔からざっと血の気が失せた。ようやくニトロが口を利いてくれたのに、その声は、彼女の肺腑を直接抉る凶器だった。
「…………ぅぅ」
膝が震える、肩が震える、お腹が痛い、寒い! ティディアはへたり込みそうになるのを懸命に堪えながら、訊いた。
「だめ?」
ニトロはうなずいた。細められた目の奥で魔獣をも食い殺す猛禽の瞳が、ぎらりと閃いた。
「お・シ・お・キ・ダ」
「っ」
ティディアは、逃げた。
「やだああああああ!」
ニトロの眼差しに鷲掴みにされ真っ白となった頭ではもう何も考えられず、彼女にできることはひたすら逃げて逃げて逃げ続けること――ただ、それだけだった。