ティディアが逃げ込んだのは、王城の自室だった。
 月明かりがフランス窓から差し込んで、幻想的な薄闇が部屋を染めている。
 静かで、自分以外に誰もいない部屋。
 あまり飾り気はなく、最も目立つ装飾品といえば壁にかかる一枚の絵だ。それは風邪をひいた時ニトロが持ってきてくれたリンゴを写真に収めておくだけでは味気なくて――そしていつかまた彼がこの部屋にやってきた時、もしかしたら感心してくれるかもと夢見て――自ら描き残しておいた油絵。
「こここここ怖かったよう……」
 彼の暖かさの象徴とも言えるその赤い果実を目にし、脳天からつま先まで全身を強張らせていたティディアはほっと安息を得た。
 ここなら大丈夫だ。
 スライレンドからも離れているし、どこを見てもニトロはいない。きっと彼は今頃ハラキリ達とお話でもしているだろう。
「マ――――――イ」
 ティディアの背筋がビン! と伸びた。
 かすかに聞こえてきた声。
 愛しさを超え怖ろしくて堪らない彼の声。
 ティディアはきょろきょろと部屋を見渡した。部屋には、自分以外の影はない。『力』を発揮し周囲の気配を探るが、王城で働く者達以外に何も不審な者はない。
「マァァァぁぁぁあああい」
 だが、聞こえる。
 大きさを増して、ニトロの声が――ベッド!
「ま゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーい」
 天蓋付きのベッドが水平に持ち上がり、その下からニトロが現れた!
 重量挙げのごとく軽々とベッドを掲げてにこにこと微笑んで!
「ニニニニニ!?」
 ティディアは驚愕した。
 おかしい。解らなかった。ニトロがそこにいるなど、この『力』をもってしても!
「ま゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーい!」
 ニトロがベッドを投げつけてくる。
 ティディアは、再びテレポーテーションをしてその場から逃れた。



 ティディアは砂漠に降り立った。
 風が作る丘の上。東副王都イスカルラの統べる大陸にある、アデムメデス最大のヅィバド砂漠。王都ジスカルラからはほぼ星を半周する距離がある。
 粒子細かく柔らかな砂に素足が甲まで沈み込む。
 広大な砂漠は見渡す限り果てしなく砂に覆われ、延々と波打ち連なる砂丘が遠近感を狂わせ、地平から天頂へ向けて昇りゆく太陽が早くも鮮烈に照らし上げる砂の色が、カラカラに乾いた青空と強烈なコントラストを生み出している。
 近くにも遠くにも生物の気配はない。
 耳が痛くなるほどの静寂に砂の零れる音がざらついて、それは大気を揺らめかせる熱射そのものの音にも思えた。
 ニトロは、いない。
 ティディアは鋭敏に感覚を研ぎ澄ませたまま立ち尽くし、百を数えた。
 ニトロはいない。追って、きていない。
「ま゛ーーーい」
 安心したのと同時だった。
「うきゃああ!?」
 足元の砂を割って男の腕が現れ、ティディアの足首を掴んだ。
「痛ぁっ!」
 一瞬で両足首を握り潰され、彼女は絶叫した。宙へ飛び上がり必死に足を掴むニトロの手を振り払い、三度空間を飛び越えた。

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