ベンチと噴水池の半ば、彼の足で十歩ほどの距離を開けてティディアと対峙する。唇を引き結び、瞬きもせずティディアを睨み、静かな呼吸を乱さず足を肩幅に広げる。
「ああ、なんて凛々しい……」
 ほぅとため息をついて、ティディアが片手を頬に当てた。うっとりと目尻を垂れ、引き締まった体を黒衣に包んだ最愛の少年を見つめ、鼻血を垂らす。
「ますますニトロ、お・い・し・そ・う♥」
 鼻血を舌で舐め取りじゅるりとよだれを吸い込むティディアに、そのセリフは普段の彼女も言いそうなものなのに、そこにある本質の差異をニトロはどうしても感じ取ってしまって……思わず『本当にお前はティディアか』と、そう問いそうになっていた。
 しかし、その答えがどうであったとしてもそこに居る脅威を払拭できるわけではなかろう。彼はどうでもいい気のせいだと心中で頭を振り、胸中に零れ出した『熱』を感じながら、代わりに別の問いをかけた。
「ハラキリは、どうした」
「ハラキリン?」
「ハラキリ! リンって何だ、変に可愛いぶってそれ何かヤだ!」
 思わず、ニトロはツッコンでいた。ツッコンでしまってから、あ、と口を開けた。
 ティディアが身を震わせている。
「……っ気持ちいい……」
 両手で自身を抱き締め、感じ入ったように背をそらしている。
「ね、ニトロ、も一回!」
「うるさい変態! 質問に答えろ!」
 図らずも敵を悦ばせてしまった愚を恥じるニトロの胸は、高鳴っていた。
 熱く、高く、変則に、ビートを刻んで鼓動が走り出していた。
「……んもう」
 ニトロの変化を感じ取り、ティディアが立ち上がった。唇を尖らせて、苦しげに身を曲げるニトロへ歩み寄る。
「ニトロは天才だね」
 彼の体は小刻みに痙攣していた。滝のように汗が流れ、それは肌を落ち切ることなく蒸発して消えていく。
「私をじらす、天才。あなたまで『天使』を使ってくるなんて。嫌じゃなかったの?」
「……答えろ!」
 そっと、彼女は怒鳴りつけてくるニトロの頬を撫でた。そのまま彼の顎を持ち上げ、めつけてくる双眸に瞳を重ねる。
「やっつけちゃった」
「……まさか殺してないだろうな」
「どうかしら。ニトロはどう思う?」
「俺の知っているお前なら、殺さない
 ふっと、ティディアの唇がほころんだ。嬉しそうに何度もうなずき、軽くニトロに口づける。
 ニトロはティディアのキスを避けようとはしなかった。初めてただ受け入れ、しかし睨みつけたまま、彼女の答えを待った。みちりと音がして、戦闘服の肩口が伸びる。膨れ上がっていく体を懸命に押さえ、激烈なリズムを刻む心臓を努めて抑え、込み上げるパワーを歯噛み堪える。そうして、待った。
「うん。殺さなかった」
 子どものような口調でティディアが言う。誉めて欲しいと言わんばかりに目頭を緩ませる。
「でも次はないって言っておいたの。だって私達の愛の営み、邪魔してほしくないじゃない?」
 ね? と無邪気に同意を求めてくるティディアを、ニトロは突き飛ばした。
「安心したよ……これで、安心して――」
 ティディアが目を丸くして頬を膨らせ、一転して何を思ったか笑顔となり、そのまま噴水地まで退るとまたその縁に腰を下ろした。
「ぅ……ぅぅううっ」
 ニトロがうなり声を上げている。
 地の底から轟き伝わるような、うなりを。
「あはは」
 ティディアは足をぱたつかせて笑った。
「そうだね、そのニトロとヤるのも、楽しいかもね」
 余裕に満ちた口振りで、うなり声を高め、その体躯を変貌させていく少年を見つめる。骨格も、身長も、全てが大きく膨らんでいく。彼の身を包む戦闘服は盛り上がる筋肉の隆起に従い薄く薄く伸びて、ぼんと音を立てて膨らんだ上腕二頭筋を包む服の様は、もはや筋骨の凹凸を緻密に浮かび上がらせる黒タイツだ。
 記憶にある、以前の『天使』を使用した彼を超える輪郭。
 この身ですらも気圧されそうな迫力が、ニトロ・ポルカトから放たれている。
「いいよ。先にたっぷり遊びましょう」
 それでもティディアには緊張の一つも得ない。
 組んだ足の上に頬杖を突き、みっくみっく動く『ニトロ』の胸板を見つめ、再び鼻血を垂らしてつぶやく。
「あなたを叩きのめした後、たっぷり、慰めてあげるから」
「ううううう!」
 ティディアのつぶやきを上書きして、大男が声を荒げた。
 筋肉ダルマ――
 否、筋肉の鬼ダルマが天に両拳を突き上げ雄叫ぶ!
「ぅをんばさあああああああああああああ!!」
 彼の口腔から放たれた振動が大気を揺らした。咆哮の直撃を受けたティディアのドレスがはためき、その背後で池が目茶苦茶に波打ち、石材で作られた噴水が音を立ててひび割れた。
「おっ仕置きじゃああああああああああい!!」
 ティディアの目前に、コンマ1秒も無く、ニトロの巨大な拳があった。
 それをティディアの手が柔らかに受け止め、彼の凶悪な腕力を逆利用する。
「ぬを!?」
 ニトロの巨躯が空を飛んだ。
 ティディアの『力』が加わった巧みな『技』に、彼は成す術も無く宙に舞わされていた。
 天地が逆転し、天井に逆さに座る女がこちらを見下ろしている。
 ――微笑んで。
 脳天をかすめるように噴水の天頂が背後から現れ、その陰に微笑みが消える。
「うぬ!」
 ニトロはびんっと体を伸ばした。そのまま緩やかな弧を描いて飛ぶ勢いを殺さずに、華麗に前方伸身宙返り1/2ひねり、女子体操選手のごとき軽やかな着地を決める。そして、プリマドンナのように横にターンした。
 直後、彼と入れ替わるようにその場を灼熱が支配した。
 ニトロの背後に回りこんでいたティディアの吹き出した火炎吐息ファイア・ブレスが轟々と地を焼き、池水を泡立たせ、瞬く間にもうもうと湯気が立ち昇る。
 それを傍目にニトロはティディアへ駆けた。
「マッハパン!」
 気合と共にニトロが振るった鉄拳は、しかし、ティディアにさらりと避けられた。彼女は楽しげにステップを踏んで距離を取り、体ごと浴びせるパンチを空振りたたらを踏むニトロへ向けて至近距離から炎を吐きつけようと息を吸い――
「火の用心!」
 ティディアが火を吐くよりも早く、体勢を立て直したニトロが彼女の口を大きな手で塞いだ。まさにその時、息を吹き出そうとしていたティディアの目が丸くなる。
「んぶっ?」
 思いっきり吹き出されようとしていた吐息が行き場を失い、勢い余ってティディアの鼻と耳から噴出した! 彼女の口を塞いだニトロの腕にも当然鼻の穴から噴き出た炎が浴びせられ、戦闘服の耐火能力が限界に達し、彼の腕を包む袖が燃え上がる!
「ぬはははは! 温いわ!」
 だが、心頭怒り燃え上がれば烈火もまた雑魚! ニトロは顔色一つ変えず哄笑を上げ、燃え上がる腕とは逆の拳でティディアの鼻先にジャブを打った。ほんの鼻先に触れる程度。それで相手を怯ませ、同時に距離を測り――
「ふんは!」
 即座、炎に包まれた拳を地にかすめ、絶好の間合いから低空より突き上げるジャンピングアッパーカットでティディアの顎を打ち抜く!
 顎の骨が砕ける音が響き、そして、ティディアの顔面が炎に包まれた。
 くぐもった悲鳴を上げて宙を舞うティディアの全身を、顔面からドレスに移った炎が瞬く間に包み込む。その火勢は強く、なんと彼女の体は地面に落下する前に灰となって消えてしまった。
「女の子の顔を焼こうとするなんて……もう、ひどい人」
 ため息混じりの声が、ニトロの傍らでこぼれた。
 ニトロが振り向くと、そこには拳を固めたティディアがいた。オーソドックスな構えを取り、振り向き様に右フックを振るってきたニトロの拳を身をかがめてかわし、逆に強烈な打撃を返す。
 ジャブ・ストレート、ボディ、もいっちょボディ、ローキック・フック・アッパー・ストレート! ワンツー! ワンツー・ロー! ロー! ローと見せかけて飛び膝! 休む間もなくワンツースリー!!
 彼女の動作はまさに目にも止まらぬ速度。それを防ぎきれる人間はいないだろう。それを見切ることのできる人間もいないだろう。
 ニトロは、打撃の全てをもらった。
 彼でもティディアに追いつけないのか、嵐のごとき連打に対してガードもせず、全ての攻撃を綺麗に食らい続けた。
 しかし……彼は倒れなかった。
 仁王立ち、ティディアの拳、ティディアの蹴りの全てを受け止め、彼はやおら腕を組んだ。
 ティディアは手を止めると、一度間合いを広げた。びりびりと痺れる拳を舐め、短く口笛を鳴らす。
「やるわね」
 彼女の賛辞に、少年であった『本人』の面影もない顔に笑みを浮かべて、ニトロはふんと鼻息を荒げて言った。
「痴れ者が。それしきで我が鉄壁のマッスル、打ち崩せると思ったか」
「思ってた」
 ティディアは素直にうなずいた。
「素直たるやよし。しからば考えを改めい」
 ニトロに言われ、ティディアはまた素直にうなずいた。
「改める改める。ニトロったら、私が思うより強くなってる」
 言って、彼女は舌で唇を割り、大男を挑発するようにゆっくりと舌なめずりをした。
「これなら、もっと本気を出しても大丈夫そ♪」
 ふと、ティディアの姿が消えた。
 ニトロはティディアが現れる位置を敏感に察知した。先んじて左へ走り、予想通り目前に現れた女へ突進する。
 するとティディアは――ニトロがそうしたように――仁王立ち、己の強さを示威するように腕を組むと真正面から彼の体を受け止めた。
 両者の体躯には、格段の差がある。
 大きさも、体重も、測るまでもなくニトロが遥かに上だ。
 それなのに、全体重を押し込めた彼のぶちかましは、ティディアを僅かなりとも後退させることはできなかった。
 ――それどころか、
 ティディアではなく攻撃を仕掛けたニトロ自身が激突の衝撃に負けて一歩二歩とよろめき後退してしまった!
「ぬう……」
 ニトロは、うめいた。
 その事実は、そのまま、彼と彼女の間にある『力』の差を明確に示す証拠であった。
強者つわもの
 ニトロの賛辞にティディアは微笑み、可愛らしく片目をつぶってみせた。

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